四章⑪『ヘンタイが語る、水晶の世界』
浴室にて、クラウズェアが自分の失態にうーうー呻き、いつのまにやらできていた日焼けの痛みにうんうん唸っていた頃。
アルテミシア達は書庫兼本草庫に居た。
アルテミシアが本の頁をめくり、ジャックが文面を読んでいる。
最初はジャックが『鬼の居ぬ間に、間違えた。姐さんが居ない間に〈冬の間〉で雪合戦しやしょうよ』と悪魔の誘いを持ちかけたのだが、心優しいアルテミシアは『仲間外れにしたらローズが可哀想だよ』と言って甘い誘惑をはねのけたのだ。
まあ、少しだけ、ほんの少しだけ、初めて見る雪を触ってみたりして、その白さと冷たさに驚いたりしたのだが。これでアルテミシアが湯冷めでもして風邪を引き、その原因がジャックにあると知れれば、哀れな影人間はどうなることやら……。
それはさておき。
「それで? 他にはどんな事が書いてあるの?」
字の読めないアルテミシアの代わりに、ジャックが内容を纏めて簡単に説明してやっているのだ。まあ、読み書きを習っていたとしても、少年には理解できない言語で書いてあったのだが。
いま読んでいる物は、洞窟の主が書いた手記だった。
「ええとですねぇ。全ての次元の核となる、太極の太極とも言うべき根元の気の塊――ああ、さっき箪笥の中に入っていた球根があったでしょう? ああいうのが、なーんにもないお空の真ん中に浮いてるとでも思ってくだせぇよ。あ~、湯上がりの美少年の匂いはたまらん」
アルテミシアの背後から本を覗き込みながら、首筋にのっぺらぼうを近付けてクンカクンカ忙しなく、有るのか無いのか判然としない鼻を鳴らすジャック。
変質者の極みであった。
ちなみに、アルテミシアが着ていた服は洗って洞窟の外の枝に干し、今は替えの服に袖を通している。
「くすぐったいよぅ。ねえそれより、続きを聞かせて?」
耳元で聞こえる不埒な鼻息に、息がかかる訳ではないがどうにもくすぐったい感じがして、アルテミシアは身をよじりながら忍び笑いを漏らしてしまう。
そして、またその仕草が背後の危険人物を喜ばせた。
「ぶひひひ。よいではないか、よいではないか。間違えた。でですね、その球根は……球根と求婚って、字は違いやすが読みは一緒ですねぇ。あぁ、シア嬢ちゃんと結婚してぇ! じゃなかった。その球根は、水晶みてぇなもんでできてるんだそうです」
「水晶……って、宝石の?」
「そうですそうです。くぅ~っ、白い肌が桜色に色付いて、あっしの煩悩の炎に薪をくべる! 自覚なく犯す罪こそ、最も重い罪だと知るべきですぜ! その球根から、四方八方に幹が伸びてるんです」
「幹が」
「そう、幹です。無量無数にあちこちに伸びた幹です。その幹にまた、無量無数の枝が生え、その枝々からまた数限りない小枝が四方八方に伸びていき、ある枝は一直線に伸び、ある枝は拗くれ、ある枝は他の枝に巻き付き、ある枝は他の枝と重なり合っている」
「重なり合う……この手提げ鞄みたいに?」
洞窟入り口から回収してきた、弁当箱などを入れていた竹細工の鞄を指さす。
「んー、編んだみてぇに重なり合っているんじゃなくて、ニュアンス的には水や光みてぇに混ざり合いながら重なってるようですぜ? 滝の水は、滝壺に落ちたら混ざっちまうでしょ? で、重なり合った部分は混ざってるんですが、交差した部分を過ぎるとまたそれぞれ枝が伸びてる」
「ふくざつなんだね」
「ええ、ごちゃごちゃしてやがりますね。そいで、そのごちゃっとした枝にまた星の数ほどの実がなってるんだそうです。一つとして同じ色の無い、たぁくさんの実が。その実も、林檎や苺みてぇなもんと言うより、光みてぇな実態が有るんだか無ぇんだかよう解らん……光って事は光子だから実態は有るよな? 有るのか? いんやそもそも、光だと断定されてる訳じゃねぇから、そこはいいのか。まあ、そういう得体の知れねぇ実の一つが、『この世界』なんだそうですぜ? ……マジでッッッ?」
説明した本人が驚いていた。
「『世界』って、なぁに?」
この世界の人間は、〈世界〉という概念を知らない。名称とは、他の物と区別する必要が発生した時に生まれる。
林檎という単語は、蜜柑や苺といった他の実と区別するためにあるのであって、この世に林檎一種類しか実が存在しなかったら、それは“実”とだけ言われていただろう。あるいは“あれ”とだけ言われていたかもしれない。
同じように、他の“世界”を知る、もしくは推測する方法が無ければ、“世界”などという発想や概念や名称は生まれないのだ。この世界の人々が認識しているのは、せいぜい『国』だ。
「世界ってぇのはですねぇ、宇宙……宇宙の説明の方が難しいか? ちょいと待ってくださいよ? 混乱した頭を元に戻さねぇと」
そう言ったジャックが取った行動は、少年の背後から覆い被さるようにして猛烈に匂いをかぎ始める事だった。
「あ~、脳内麻薬が出てきたー」
とんだ暴挙に出たものだ。もはや性犯罪の域に達していた。相手が無知な少年であることを良い事に、許されないことだ。誰かが立ち上がらねばならない時だった。
そう、例えば、
「貴様、何をしている?」
ゆらり、と、二人の背後で真昼の天焦山を軽く凌ぐ陽炎が立ち上ったようだった。
「ローズ」
いつでも入ってこられるようにと、少年しか開けられない石扉を開けておいたのだ。そこから、表情が全く消え去った女騎士が歩み寄って来るのが見えた。
「ロ、ローズ?」
訳もなく声が震えてしまうのを気のせいと振り切って、アルテミシアは声を掛けた。
女騎士と、目が合う。
目の錯覚に違いないのに、クラウズェアの両の眼は恐ろしいほどにつり上がり、緑色にギラリと光っている。口は耳元まで裂け、ズラリと並んだ歯はバイガン将軍よりも鋭い。チロリと揺れる舌の奥から、黒い炎が漏れて……。
アルテミシアは、なんだか急な眠気を覚えた気がして、椅子に座ったまま気絶した――




