第7話 先生は怖い人に怒鳴られたことありますか
「先生は怖い人に怒鳴られたことありますか」
マティアスが聞いた。何気ない声だった。面談の終わりかけに、ふと思いついたという口調で。
手が止まった。
覚書帳に書きかけていた文字の途中で、ペンが紙の上に留まっている。インクが一箇所に溜まって、小さな染みを作っている。それを見ている。見ているのに、見えていない。
「先生?」
「……ええ。あります」
マティアスが少し目を見開いた。世間話のような軽さで口にした質問が、こんな反応を引き出すとは思っていなかったのだろう。
「あ、すみません、変なこと」
「いいの。大丈夫」
大丈夫。
この三年間。いや、もっと前から。何年間、この言葉を使ってきただろう。「大丈夫」。相談者の前で。同僚の前で。上司の前で。ヴェルナーの前で。ヒルデの前で。ここで。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
大丈夫じゃないのに。全然、大丈夫じゃなかったのに。ずっと。ずっとずっと。何が大丈夫だ。何も大丈夫じゃなかった。
マティアスが帰った後、相談所の椅子に座ったまま動けなかった。
暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。窓の外で風が吹いている。遠くで鴉が鳴いている。そういう音がやけにはっきり聞こえる。自分の体から少しだけ離れた場所に意識がある感覚。
私は。
私は。
続かない。「私は」の後に何を入れたいのか分からない。大丈夫と言いたいのか。大丈夫じゃないと言いたいのか。怒っているのか。悲しいのか。疲れているのか。それすらも、分からない。言葉が。言葉にならない。あれだけ他人の感情を言語化してきたのに。自分のは、できない。
指先が震えている。まぶたの裏が熱い。ブラント邸のあの朝と同じだ。ヴェルナーの怒鳴り声を聞いた時と同じ反応を、今、二十歳の兵士の何気ない一言で引き起こしている。
研修講師が言っていた。「支援者こそ支援が必要です」と。あの時は他人事だった。あの先生、本当のことを言っていたんだな。
ずっと「支援する側」に回ることで、自分の傷を見ないようにしてきた。相談者の話を聴くのは得意だった。でも、自分の話を誰かにしたことがあっただろうか。
ない。一度もない。
パイプ椅子に座ったあの女性たちに「大丈夫じゃなくていいんですよ」と言った。何百回も。言いながら、自分には一度もそう言わなかった。言ったら、崩れてしまいそうだったから。支援者としての自分が崩れたら、目の前の人を支えられなくなるから。
でも、今、崩れている。
崩れている、のに、分析している自分がまだどこかにいる。「これは二次的トラウマ反応です」と冷静に言っている自分が。うるさい。黙れ。今くらい、ただの人間でいさせてくれ。
扉が開く音がした。
コンラートだった。ノックもせずに入ってくる。報告書を持っていたが、私の顔を見て、鞄に戻した。
何も言わなかった。
黙って暖炉の方に歩いていき、薬缶に水を入れて火にかけた。棚から薄荷茶の瓶を取り出して、湯呑みに茶葉を入れた。なぜ場所を知っているのだ、と思ったが、声に出す気力がなかった。
数分後、温かい茶が差し出された。
コンラートは「どうした」とも「大丈夫か」とも「泣いてもいい」とも言わなかった。ただ、茶を差し出して、部屋の隅の椅子に座った。
この沈黙は、相談室で私が提供していたものと同じだ。安全な沈黙。何も求めない。何も聞かない。ただそこにいる。この人はそれを知識としては知らないはずなのに、やっている。
茶を一口飲んだ。薄荷の青い味がする。少しぬるい。この人は茶を淹れるのが下手なのだ。でも今日は、そのぬるさがちょうどよかった。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
いつもの言葉。でも、いつもより声が低い。
◇
その日の夕方、修道院に使者が来た。ブラント公爵家から。二度目だった。
「旦那様がお体を崩されたそうです。お戻りいただきたいとのことです」
使者は若い男だった。困惑した顔をしていた。離縁した元妻に「戻れ」と伝える役目を喜ぶ人間はいない。
「旦那様はどのようにお体を崩されたのですか」
「食事が喉を通らないと。使用人が立て続けに辞めて、屋敷の運営に支障が出ておるとも」
窓の外を見た。修道院の庭の銀柳が風に揺れている。冬の光が弱くて、使者の馬が門前で白い息を吐いているのが見える。
ヴェルナーの顔を思い出した。怒鳴る顔ではなく、花を持ってきた時の穏やかな顔。あの顔が本物だったら、と何度思っただろう。でもあれは暴力のサイクルの一部であって、本当のヴェルナーではない。
本当のヴェルナーは、どの顔なのだろう。一人きりの屋敷で、黙って座っている今の顔か。
迷った。迷って、研修ノートの最後のページに自分で書いた言葉を思い出した。太いマーカーで。『相手の問題を引き受けるのは、あなたの義務ではありません』。
本当に体調が悪い可能性もある。ヴェルナーは確かに、私がいなければ日常の多くを回せない人だった。それは支配ではなく単純な事実として。でも、だからといって。だからといって、戻ったらどうなる。分かっている。同じことの繰り返しだ。怒鳴られて、謝られて、許して、また怒鳴られて。
「お戻りする意思はございません」
使者に告げた。声は静かだった。
「旦那様にお伝えください。私がいなくても大丈夫です。大丈夫じゃなくても、もう私のせいではありません」
使者が去った後、手が震えていた。拒否したことへの後悔ではない。三年分の「お前のためだ」がまだ体のどこかに染みついていて、「見捨てた」という罪悪感を勝手に生成してくるのだ。
頭では分かっている。罪悪感は植え付けられたもので、私のものではない。でも、頭で分かることと体が納得することは別なのだ。
夜、寝台に横たわって天井を見ていた。
今日、マティアスの質問で崩れた。明日はちゃんと立てるだろうか。分からない。でも、コンラートが淹れたぬるい茶の温度が、まだ手のひらに残っている。あのぬるさに支えられている自分がいる。
コンラート殿には、聞いてほしいことがある。
唐突にそう思った。支援者としてではなく、一人の人間として。自分の話を。自分の三年間を。
この気持ちに、まだ名前はつけない。つけてしまったら、もう戻れない気がするから。でも、戻りたくないのかもしれない。




