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あなたの声が怖くなった朝に、転生前の私が目を覚ました  作者: 九葉(くずは)


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第2話 三年分の違和感に、名前をつける

 薄荷の煎じ茶を淹れ直した。今度はこぼさなかった。


 湯気が鼻先をくすぐる。すうっと清涼な香りが抜けていく。別の世界で好きだったペパーミントティーとは少し違う。こちらの方が青臭くて、土の匂いが混じっている。嫌いじゃない。


 ヒルデが書庫から運んできた法律書は三冊あった。分厚い。革表紙に金箔の文字が押されていて、埃を払うとくしゃみが出た。こういう本を夫の書斎以外で見るのは初めてだ。「お前に難しい本は必要ない」と言われていたから。


 ああ、それも制限だったのか。


 薄荷茶を一口含んで、法律書を開いた。法律文書を読み解くことには慣れている。言語体系は違うけれど、法律というものの構造は似ていた。曖昧さを排除し、定義を重ね、抜け穴を塞いでいく。官僚的な回りくどさまで同じだ。人間は世界が変わっても、こういうところは変わらないらしい。


 貴族の婚姻制度。要点を整理する。


 婚姻は「婚姻契約書」と「王室認可」の二段階で成立する。離縁が認められるのは三つの場合。双方の合意。一方の重大な過失の証明。そして、三年以上の「白い結婚」の成立。


 白い結婚。婚姻の実態がない状態が三年以上続いた場合、一方の申し立てにより離縁が認められる。


 私は法律書から目を上げた。


 ヴェルナーは、結婚した日の夜から、一度も私の寝室に来なかった。婚礼の宴が終わり、使用人たちが下がった後、ヴェルナーは「疲れた」と言って自室に戻った。翌日も。翌週も。翌月も。理由は聞けなかった。「自分に魅力がないからだ」と思い込んでいた。


 三年間、一度も。


 今なら分かる。あれは罰か、それとも最初から興味がなかったのか。どちらにしても、存在そのものを無視するという行為だった。


 皮肉なことに、その事実が離縁の根拠になる。


 三年間の白い結婚。証明するのは難しくない。侍女のヒルデが証人になれる。寝室の出入りは使用人たちが一番よく知っている。


 ただ、ひとつ引っかかることがあった。


 この世界の法律では、精神的虐待は「重大な過失」に含まれていない。殴る、蹴る、刃物を向ける。そういう目に見える暴力は過失として認定されるが、怒鳴る、無視する、孤立させる、功績を奪う。そういう行為には法的な名前がない。


 つまり、この世界には「モラハラ」という概念が存在しない。名前のない暴力は、存在しないのと同じように扱われる。


 なんだか同じことをやっている気がする。制度の隙間で苦しんでいる人がいて、その苦しみに名前がなくて、名前がないから誰にも信じてもらえない。世界が変わってもこれか。


 だから白い結婚で攻める。こちらは事実だけで成立する。感情を証明する必要がない。数字と日付と証人だけでいい。法律家ではないけれど、書類仕事は得意だ。福祉事務所で毎日やっていた。申請書、報告書、日誌。書いて書いて書きまくった。紙の上の戦いなら負けない。


 薄荷茶がぬるくなっていた。



 夕方、ヴェルナーが帰ってきた。


 玄関で靴を脱ぐ音が聞こえた瞬間、肩が上がる。呼吸が浅くなる。三年間で刻まれた条件反射だ。知識があっても、体は簡単には変わらない。


「イルゼ」


 食堂に入ってきたヴェルナーは、朝とは別人のように穏やかだった。手に花束を持っている。冬の白い小花。


「今朝は少し言いすぎた。許してくれ」


 ハネムーン期だ。爆発の後に訪れる、束の間の優しさ。被害者はこの優しさにすがって「やっぱりこの人は本当は優しい人なんだ」と思い直す。そしてまた次のサイクルが始まる。


 何百回とこのパターンを見てきた。相談室のパイプ椅子に座った女性たちが「でも、優しい時もあるんです」と言う度に、心の中で「それが一番危険なんです」と答えていた。


「ありがとうございます、旦那様」


 花束を受け取った。白い小花は香りがほとんどない。ヴェルナーが選んだのではないだろう。きっと誰かに手配させたのだ。


 ヴェルナーは満足そうに頷いて、書斎に消えた。


 私は花束をテーブルに置いた。以前なら嬉しくて花瓶に活けただろう。今は白い花びらが研修テキストの挿絵に見える。「贈り物は謝罪ではなくコントロールの道具である」。そう書いてあったページの、あの挿絵。


 白い小花を一本、指でつまんだ。茎が細い。簡単に折れそうだ。きれいだとは思う。きれいだと思うことと、これが愛だと信じることは、もう別の話だ。


 分析している。夫の優しさを解剖するように分析している自分が、冷たい人間のようで、少し怖い。でも、この冷たさがなければ、私はまたサイクルに呑まれる。


「奥様」


 ヒルデが小声で話しかけてきた。


「法律書、お読みになりましたか」


「ええ」


「奥様のお茶の時間が、私たちの一日で一番好きな時間でした」


 ヒルデはそれだけ言って、食堂を出ていった。


 お茶の時間。ヴェルナーが外出している午後に、使用人たちと一緒に飲むお茶。私が唯一、自分の声で話せる時間。旦那様の顔色を窺わなくていい、短い午後。


 あの時間が好きだったのは、私だけではなかったのか。


 鼻の奥がつんとした。でも、今は泣かない。泣くのは、ここを出てからでいい。


 ヒルデが戻ってきて、白い花束を花瓶に活けようとした。私は「そのままでいい」と言った。花瓶に活けるのは、この花が贈り物だと認めることだから。


 夜。寝室の机で、離縁届の書き方を調べた。この世界の紙は質が良い。厚くて滑らかで、インクの乗りがいい。役所の書類はもっと薄っぺらかった。あのわら半紙に人生を左右する情報が印刷されていたのだ。変なことを考えている。でも些細なことを考えられるのは、頭が動き始めた証拠だと思う。


 離縁届のひな形を羊皮紙の覚書帳に書き写した。必要事項。婚姻契約書の番号。証人の署名欄。離縁事由。鉄のインク壺が重い。ペンを持つ手は、もう震えていなかった。


 寝室の扉をノックする音がした。


「奥様。お供いたします」


 ヒルデの声だった。この三年間で一番はっきりした声だった。


「……ありがとう、ヒルデ」


 道筋は見えた。あとは一つずつ、順番に。


 暗い寝室の中で、天井を見上げた。隣に誰もいないこの広いベッドにも、もう慣れてしまった。慣れてしまったことが、一番怖い。


 でも、もうすぐここを出る。この広いベッドも、冷たいシーツも、全部置いていく。

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