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大地への帰還  作者: 桐生真之
4/11

2 視線

 妹に貼られた頬をさすりさすりしながら、足元の覚束ぬままジャージと下穿きをどうにか引き上げた。

「パンツを解き放ったらパンチが舞い込んで来るとはね……」と誰に届くともわからぬ呟きをぶつくさとして、擦過傷を帯びたように熱持つ頬に手を当てる。脳髄が掻き回されて歪む世界と、地の無い虚空を操り人形のごとく漂う千鳥足。耳をさすって捻って、それから神経組織に定規を合わせる行為を仮想して目頭を指で強く圧してひとつ深呼吸すると茫洋としていた視界が曇りなく引き締まる。呪いのようなものでも効果はあったかもしれぬ、三半規管が正常に機能し始めたおかげで、ラテン語の書籍が瞬間的に日本語に翻訳される如く現象を正確に認識する。世界が正常な姿を持って現れる。

 またひとつ深呼吸すると手先が震えているのがわかる。あの妹が左利きであるということを忘れていた。よって殊の外ダメージは大きかったのだ。あるいは柊の腕力が増していたのか。近頃あけびからバリツとかいうわけのわからん格闘技を習ったと言っていたが、そのことがこの威力増大に影響しているのかいないのか。

「――また会いましょう――」

 と何か耳に届いたような気がしたが、青年には分かりかねた。脳の中核から音が響き渡っているようだった。

「母さんいま何か言った?」

「いえ、なにも、どうしたのです」

「そう……俺どのくらい気を失っていたの」

「気を、失っていたのですか?」

「俺は気を失っていない?」

「だって今……柊が走って行ったばかりですもの……」

 幾許かの違和感を覚えながらも深く追究せぬまま会話を切り上げて青年はその場を離れた。

 台所を去り居間に着くとあけびがいた。椅子の上で丸くなって唇に指当てて、大きなヘッドフォンで耳を包んで外界の雑音を遮断しながら読書に没頭しているが、このヘッドフォンは、この妹の脳細胞の一部が彼女の念を受けて変質し肥大し形を変えて現れたもののようにさえ見えた。

(人工的に聾者になるなんて)

 この妹は活字中毒の読書廃人で書物を食して生きていければ良いと決めたような魂の持ち主であって、調理の技術に長じてはいたが他の家事なんどからっきしで、掃除などしようものなら山嵐でも到来したのかの様子で部屋中が塵と化したし、そもそも希代の不器用なので親が持たせた携帯電話の使用法が分からずに三日間も唸り続けて畢竟、所持を諦めたという、この妹からは度々古びた書物と甘い菓子の調和した退廃の香りが漂う。魂からして脱力しているのだ、と青年は思ったことがあるくらい。

 彼女が手にして文字を追っているのは父の著書でありこの書籍を青年は読んだことがなく内容も良く知っていない、そればかりか何故か読むのが憚られるのだが、その書籍というのは、父が四十歳の頃の、今から三、四年前に「永い眠り・第一巻」を刊行した後、同じ年に発表した長編の「虚無の章典」という作品で、読む気のしない青年に対しあけびの読了回数はすでに四、五十回を越えているらしく、台詞もそらで言えるほどだという。

 根気と情熱さえ揃えば何のことはないにしろしかし妹にとっては気を入れて読了を重ねたわけでなく、このように幾度も再読が可能なのは彼女の書痴ゆえの情熱のせいでもあったが、それよりも彼女のある特異な能力のせいで、素早く本を読めるこの妹は本の見開きを十秒と見ていないので、そのためにいぶかしんだ青年があけびが読書を済ませた後に本の内容の確認を取ったことがあったが、登場人物名も地名も百発百中、全て答えるどころか何頁の主人公の台詞はなんだとか正確に答える始末で。少なくともこの妹は精神は幼いがこと本読みの能力に関しては秀でたものがあり、よって言うまでもなく彼女は一日に数冊の本を読むことが出来た。それ故かいま食台には、これから読む本なのかすでに読み終わった本なのかわからぬ本が三冊積まれている。下から長編の「手鞠」で次に短編集「瘴気の泉」で、その上に長編「永い夢」がある。「手鞠」は「虚無の章典」刊行以前に父が短い期間で書き上げたもので「瘴気の泉」はその翌年に出版されたもの。「永い夢」についてはおそらく去年刊行されたものだろう、と青年は曖昧な思考を巡らせる。

 長女のあけびは父の著書より他は故人の作品しか読まずその理由というのが少々風変りで、新刊が出るのを待つという行為がわずらわしく、気に入る著者の作品はまとめて読みたいかららしいのだが、あらかた父に気を使わせないための気遣いと父への忠誠心がそこにあるのを青年は知っていた、というより、分析の結果そう思っている。

 考え事をしていた矢先にあけびが奇妙な行いをしているのが目に付いた、というのも読んでいた父の本を食台に置いたかと思えば、それだけでなく食台にうつぶせになり頁が見えるよう本置いて、文字でもなぞるが如く指先で頁を撫でているのだが、学問に熱心な書生が重要な文を覚えようと試みてするような文字のなぞりかたではなく、度を超えて、見るからに恍惚とした表情で偏執的な愛撫に耽溺しているように見定められる。その皮膚の薄い指はよりよく本の感触を知るためにあるのだろう、少女の相好がみるみるうちに紅潮して行き、秋の紅葉を思わせるのが、扇情的だが、何とも厭世的な。

 アア、そういえば、明治から昭和を生きた幻想文学の大家である泉鏡花の師に尾崎紅葉という名の大文豪がいたなぁ……と脳髄がひとりでに記憶を手繰り、感慨にふけ、アア、そういえば、尾崎紅葉の名はあけびの部屋の書架で目にしたのだったなと思い出し、尾崎氏の『金色夜叉』は名作中の名作であったなぁ、と懐かしみ、妹の紅葉のような頬をじっくりと見て、なるほど秋生まれの女ならではの性分かと、たわいのないことを点、点、と連想している間もこの妹は未だ変わった様子がなく、頁を指先で愛撫しているのだがそれが、あまったれた目つきで、冷たく硬そうだった口元をとろけるように開いて頁を愛撫しているのだからまるで幼児の指しゃぶりに近い生理現象を思わせる。

 誤解を恐れずに言ってしまうなら彼女の質と運命からしてこのような行為に走るのは想定内であるのだが、というのも、彼女は生まれながらにして父から多様な書物を読み聞かせられていたらしい。風変わりな冗談かと思われてしまうかもしれぬも、これは歴としたこの父親流の教育である。

 あけびだけが父から傾いだ寵愛を受けるに至ったのは彼女の過去に理由があるのだとかで、幼き頃の記憶に乏しい青年であるから真実がそうであった実感はなきに等しいが、幼時のあけびは体が弱かったために体調を崩しやすかったらしく、そんな彼女を両親ともに心配し、特に父の心配ぶりは尋常ではなかったらしい。

 病床に臥せた娘とそれを心配する父親だから、必然的に父とあけびは一緒にいることが多くなった。

 一日の大半を布団の中で過ごしていなければならぬあけびは暇を持て余していた為、父はあけびの傍らにて執筆を進め、空いた時間には読み聞かせをしたり、様々な語らいを繰り広げたりしていたという。皮肉にもその闘病生活が功を奏してか彼女が快復した折には彼女には書物への愛と物語ることへの熱と恋慕とも言えるほどの父への強烈な敬愛の火が灯っていたという。

 全て訊いた話であるし幼少期の記憶は皆無に等しいので実感がないのだが(努力して思い出そうとしていないから思い出せないということもあるかもしれないが)記憶力の良い母から聴いた話なので正確性の保証はできる、と彼は思う。青年としてもつい最近までの父とあけびの互いの偏愛の様子はそれくらいの因がなければ理解し難いくらいであった。

 他方、青年はこの教育を受けていないばかりか形に表れて見えるような教育という教育を一切施されなかった。育児拒否ではなかったが直接的な父親からの教育や躾の類は何も施されなかったように思う。それなのに青年の所作が落ち着いて美しいのは、あれこれ口にせずとも両親の立ち振る舞いを見て真似したせいであろう。

 ちなみに柊の境遇も青年のそれと同じようなもので、いわゆる放任主義的な状況で育ち、あまり相手をしてもらえなかったせいで父を憎んでいるような節があり、皺寄せが度々青年に訪れて面倒なのだが結局の所の妹の要求が不明で何がしたいのか解せぬから、それが余計に妹への対応を鬱陶しいものにする。原因を作ったのは父親であるからどうにかしてほしいものだ、と彼は呟く。

 食卓に座して本を手に取り静かに字を追っていると夕食の時が来た。ここで一騒動あったのだが、それは次女柊の突発的な、脈略無き一言から始まった。

「あのね、今日、お父さんが知らない若い女の人と喫茶店で話しているの見たんだけど、あの人だれなの?」

 柊以外の全員が吹き出した。父と母は茶を吹き出して、青年と長女のあけびは飯を吹き出した。

 席の位置関係から青年と母と柊が顔に被弾したが、このような被害に遭っても眉ひとつ動かさず他人事よ何処吹く風よと柊は、その白い面ざしを米粒で光らせて、視界もままならない姿になっても、なお、口を開いて、

「お父さん駅前の喫茶店にいたよね、話しかけようと思ったんだけど、若くて綺麗な女の人と楽しそうに話していたから、なんか……話しかけにくかったの」

 と嘆息気味に告げたのは話の終わる頃の、なんか、のところから。

 声色はいたって平淡なもので、憂いや気後れからくる調子の崩れなど皆無の妙音であるが、もしかすると青年だけが、次女の心を陰らせた何らかの機微を見誤ったのかもしれないといった疑念に駆られた。

 しかし雪の日に生まれた少女はさすがかな、刹那にして空気の温度を氷点下に変える力を持つ。彼女のあっけらかんとした口調で放られた厄介な言葉はその旋律のみ聴いていると秀でた風韻のある音楽のようであったけれども、やはり言葉が言葉なので騙しが効かず、氷の矢のように皆の心臓をついて一瞬にして空気を凍りつかせた。意図せずとしてか作為的か、我が妹ながらこの柊は思っていたよりも豪胆な人間なのではないか、と青年は薄らと思いながら、その矢先に聖母はすかさず父の擁護に移っていた。

「柳さんは次の作品のために編者さんと打ち合わせをしていたのですよ」

 母性の塊を手渡すような平声は純絹のように床しく、契を交わした妻としての信頼か、それとも﨟長けた女としての自信か、母は突如として浮き上った疑惑に対して動揺を見せない。が、雪降る真冬生まれの次女柊と、紅葉の秋生まれの長女あけびはそれでも納得のいかぬようで、

「でも、お父さんの担当は、男の人だったような」

「確かにそうだー」

「あの熊っていうヒト」

 とこのようにさらりと、自らの娘であるアンドロメダの器量は海の妖精ネレイデスたちさえも凌駕すると口走り海神ポセイドンの怒りを買った古代エチオピアの王妃カシオペアに劣らぬ軽率さで続けて場を壊す妹ふたりを青年は、前歯の裏で舌先を跳ねさせ、その音でしたたかに打つのだった。

「これこれ柊、熊と呼んでいることは秘密にしてたでしょうに」

「常用していたからついつい。あああ、気に入っていたのにもう使えないのねこの呼び方。ならお姉ちゃん次はなんて呼びましょう」

「うんとね、ううん、そうね。いまは思い浮かばないから後で私の部屋に来て頂戴。それからふたりで考えましょ」

 姉妹ふたりはもしや閻魔に雇われた鬼の子か何かではなかろうかと思われてきたところであったがふたりが奔放な性質を受け持ったのは父の教育の弊害であるから、このときも張本人の父は実に鷹揚な調子で笑って、

「あいつが熊とは面白いこと言ったものだ。確かに似てはいるが……と、いうことなら俺は金太郎ってところか」

 と道化風の笑みで固めて、三枚目の役。

「あは、それは思いつかなかった。ははは、私はマダマダ勉強不足みたいだぁ」と長女は自省し、続け様に「ああそう、あのね、そういえばクラスメイトののりちゃんって子が、お父さんの前世は天草四郎かもしれないって言っていたわ。お父さんが天草四郎をモデルにした小説を書いたからあの子は作品にのめり込みすぎてそう思ってしまったのかも。すごいでしょ。

 私はそんなこと思っていないけど、のりちゃんはお父さんの作品を読んでからお父さんの大ファンらしくて、会ってみたいって言うの。でも本物に会うと作品のイメージが崩れるかもしれないから私はのりちゃんはお父さんに会わない方が良いと思うんだけどぉ……」

 人の評判など手前様が気にしても仕方が無かろうし、気にしたとして小娘がどうかできることか、と辛辣な指摘をこの少女に誰か与えてはくれぬものかとぼんやりと思っていたが、しかし当の父はあけびの言葉を聞くと常に鋭いような目つきを柔和に変えて、言った。

「固いこと言わずに連れてくれば良いのさ。ファンの子が会いたがっているなら夢を叶えてやらないとな」

 と鷹揚に言ったが、しかしその言葉はそれが嘘であり演技であるという仮説を青年の頭に打ち立たせるものであった。父の言葉の奥には幾らか作り物を感じさせる軽薄さと人間が事実を偽る時によくしがちな誇張が見受けられた。

「いいやぁ、夢だなんて大げさなことじゃないの、だからそんなに頑張らなくたっていいの、お父さん。それに四十歳を過ぎたお父さんと若い女の子が会って何を話すの。お父さんは若く見えるけれど、さすがに無理があると思うの。……ア……そういえば女の子と話す、で思い出したけれど、お父さんが駅前の喫茶店で会っていたのってけっきょく、誰だったの」

 察しの早い人間達であるからこの長女の言葉の、そういえば女の子と話す、の、話す、の所ですでに五人のうち三人が米粒を吹いていた。青年と母の顔に米粒が被弾し、即席の白い仮面が形成されている。父と母と青年の三人がさり気なくも難所を切り抜け一息つこうと油断していた折に長女あけびは思いかげぬ拍子に話題を掘り返してしまい、アア……秋生まれのくせに冬の寒さを感じさせる妹だなぁ……と辟易しながら、次の瞬間には青年はあけびの、不思議な表情――――あけびの目から涙が、冷たい雪解け水のように溢れだしてしまうような情景を脳裏に映し出していた。あけびからこぼれた何らかの心性の機微が、青年にそのような映像を浮かべさせたのかもしれないが、青年には分かりかねるものであった。

「嗚呼、お米が。お米の神様ごめんなさいね。ああ、もったいない、もったいない」

 青年の長女への一方的な熟視を知ってか知らずか、母は妹たちの告発など気にも留めぬ様子で歌うように話して主婦としての職務を全うするべく席を立つ。ある種の逃避か、それとも母の根元的な性質に極度の現実主義者の一面も持ち合わせているといったことでなければ、説明のつかぬ行為であった。

 この話題……というのももちろん夫の色情関係なのであろうが、母は無暗矢鱈と口を挟むつもりはないようで、終始動揺の色を見せずにさらりと足を捌いて台所から布巾を取って来、食卓に無残にも放射された米粒を拭いた。垂れた前髪の奥から伏し目がちに手元を見つめているようではあるが、青年はその表情から上手く感情を読み取れない。

「お母さん、私もやる」

 と、雑駁な神経の長女でも母の健気な所作に漸く罪の意識を実感したか、台所に駆けて布巾を持ち、母に加勢した。精神の微細さを知っているだけに容姿と相俟ってよけい儚げに映る母であったから、このように俯いて淡々と食卓を拭く姿などは陰鬱な絵として価値があったものの、この時は長女の加勢を嬉しく思ったか、青年が気がつくと母と長女のふたりは笑んでいた。其々でその様子を見届けると、それから顔に付着した米粒を落としに行って、再び食卓に戻った。

 家族が揃って席に着くと父は言った。

「そういうことでこの件は水に流そうじゃないか!」

「残念ながら顔を洗って食台を拭いただけで、この話を水に流すつもりはないから」と次女の柊に切り返される。

「上手いこと言うようになったな。教えたつもりはないが」

「教えてもらわなくても私はお父さんの血を引いているし、いつもおちゃらけたお父さんの相手をしていれば対処の仕方くらい覚えるわ。

 でもいまはそんなことより、知りたいことがある」

「さて、俺があの子と恋仲かどうか知りたいのなら、いいさ、近々その子をここに連れて来てやろう。簡単なことだ」

 すでにこの世に未練は無いか、どうぞ、しなやかに逝っておくれ、と心の中でも無口なことの多い青年であるが、このときばかりはが胸のなかで諳んじた。

「お母さんどう思う? お父さんはまだこんなこと言ってるよ? いいの? 何も感じないの?」

 声量には富むも不安で青く澱んだ震え混じりの次女の声だった。気丈に振舞い続けていたものの、声の震えを声量で取り繕うとする行為が、彼女の動揺を如実に伝えていた。

「あのね、柊……私は柳さんを愛することで、それだけで私は満ち足りているのです。だからね……他に欲することなんて、何もないのですよ」

 水上を滑る霧のようにゆるりと広がる声。脅すわけでも憐れむわけでも無理に諭すわけでもない。

 崇高な光が母の瞳の内で瞬いていた。青年は母の瞳に明確なる決意に裏付けられた自信をしかと見たのだった。

「いつかあなたにも分かる時が来るでしょう。血など繋がっていなくとも私たち人と人は互いに他者の壁を取り払い、自分と同じように誰かを大切にできるようになれるのです。愛を理解した時にあなたの人生からは不安も恐怖も姿を消し、喜びと希望があなたを満たすでしょう。そんな関係を築ける人があなたの人生にも現れて、その人と共に歩んでいけることを私は願っていますよ」

 淡雪に囁きかける如くの穏やかな声で、母は娘の小さな胸に言葉を捧げたのだった。青年にはこの母と女という生物が同じ種を起源としていることがどうにも信じられない。

「榧、明日は仕事が終わったらデートしよう」

 父が目頭を熱くさせながら告げた。

「はいっ、喜んで」

 この浮世には知るべきではないことが山のようにある。真実の過酷さに耐えられずに身を滅ぼす事もあるというなら、己が道化と知らぬまま生きることは幸福なことであろう。無知は罪であるも美徳でない保証は有らず。

「もういいわ、私の降参。お母さんにはまだまだかないそうにないわ。でも、お父さん。私はまだ完全にお父さんを信じたわけじゃないんだから」

「もう、柊ちゃんったら、い、じ、わ、るう」

 照れながら裾と髪を軽く揺らしのお茶目な振舞で母が場を和ませた。場の空気というものは特別なことをせずとも何らかの小さなきっかけでがらりと変わってしまうこともあるが故に、核心に迫りたいところを和やかな笑いに流されて、次女の柊は歯がゆい気持ちになりはしたが、仕方のないものかな、と諦めて、一旦、尖った嘴を引込めたらしい。

「兎にも角にも俺とその子はお前たちが心配しているような間柄ではない。しかし、俺にとって大切な人間であるということは確かなことだ。そのうちきっとお前たちにも……だから今は、待っているんだ。近いうちに連れてくる」

「とても意味深な発言ね……胡散臭いこと極まりないわ」と柊は又もぶつくさと不満な色を漏らす。

「そこまで信じられないというのなら、どうだ、賭けでもするか」

「自信あるのね。早いとこ今からその女に電話して打ち合わせでもしたらいいわ」

「俺はどれだけ信じられてねえんだ」

「有名人だし、お父さんはさぞやおもてになられるのではないの」

「何を言っている。まぁ、いいだろう……もしも、もしもだ。高校の新学期の朝に寝坊して急いで登校している時に食パンを咥えながら走ってきた女の子と曲がり角でぶつかり口論になった後で学校に着いてみると朝のホームルームでその女の子が転校生として教室に現れてさっきのことで喧嘩に発展したが始業式が終わり下校したもつかの間家に帰ればその女の子が家にいて実はその女の子が自分の許嫁だと告げられるぐらいの確率でもし俺の言っていることが嘘でお前が勝ったら」

「焼き肉が良い」

(そんなことでいいんかい)

「良いだろう。もしも俺が嘘をついていたらお前のクラスの友達全員を焼き肉に連れてってやる」

「なんで私は入ってないのよ!」

 この件が食い物くらいで済んだならえらく安いもの。

「ならば今度はなぁ……ピンチにさらされたお姫君を主人公の勇者が間一髪で助けてそのお姫君が主人公の勇者に恋に落ちるくらいの高確率で俺が勝った時は」

「ええ、ドン、と来てちょうだいな」

「俺が勝ったら、柊もう大切な家族を疑うな。人を疑うなとは言わない。どんな世の中でも人を疑うことは安全に生きる秘訣かもしれない、が、俺たちは家族だ、最も近しい者たちを信じられなくなってしまえば、他に誰が信じられる。星の数ほどの家庭があるが、その中のひとつに選ばれてお前はここにいる。俺はそれをたまたまだ思わない。お前はここに存在するべくして存在しているんだ。お前がここにいるのは必ず意味がある。俺たちは互いに必要としてここにいるんだ。今回は色々と心配させてすまなかったな。だが俺はお前たちを裏切らない。それだけは覚えておけ」と縷々、語り尽くす。そこに韜晦の一切は感じられず。

「そんなに言うのなら一応信じるけど……はあ……」

 嘆息と脱力が弥増さるのは、わずかな怨色と反抗と諦めの表れか。

(俺は親父のようには思えない)

 青年も静かにひとつ息をつく。

 徒花が蝟集する食卓はどうにもぎこちなく。

 父がゆるりと腰を浮かせる。

「俺はお前たちを裏切りはしない。だから心配するな。いまに全てがわかるさ。だから今日は早く寝てしまえ」と言って書斎に向かって歩き始める。

「お父さん、どこに行くの?」とあけびが憂いを込めて問うた。

「部屋に戻る。明日の打ち合わせに関して先方に電話を入れないといけないからな」と気だるさを眉根に滲ませながら、口元をへの字に歪ませたが、そばで聞いていた柊は何か引っかかるものを感じて、「電話で打ち合わせですって、誰と、まさか……」と狂騒の一歩手前の、一輪の花が、白、蒼、紅と二転三転して、汗が冷やりと額に滲むのがいやに目に眩しい。

 なのに「さて、それはどうだろうな」と父は知らぬ顔で煽るのだから、柊が奇声を上げて箸を左手で無造作に掴んで野球少年よろしく大きく振りかぶり、父の後頭部に向けて思い切り箸を投げ付けるのは必定というものか。くノ一の刃捌きには遠かったにしても妹が放った箸は凶器と化して父の後頭部へ一直線に飛んで行く。当たり方が悪ければ箸の先は頭皮を突き破ってそこから血がだらだらと流れることもあろうが、父はこなれた足捌きでくるりと身を返し、矢のように飛んできた箸を歯で挟む。鋸を弾いたときのような間の抜けた音がしたと思えば、見事に父の歯に挟まれた箸が小刻みに揺れている。

「こら、何てことしやがる!」

 と父は咄嗟に声を荒げたけれども表情は嬉々としたもので、無垢な少年の笑みを浮かべていたほどである。が、次女の柊は自らの怒りによって父の笑みを嘲笑と誤認し、眉根に縦皺寄せて、奥歯をぎりりと噛み、野良猫のように叫びながら食器のナイフやフォークを投げるのが、くないを捌くくノ一と違って乱暴な。

 娘が娘ならば父も父で、出鱈目に投げられた凶器を容易く口で捕える始末。

「食器を投げるとはこの不届き者! と言いたいところだが、出鱈目ながらも俺の顔目がけて飛ばすとはさすが我が娘だ。筋が良い。その技量だけは褒めてやろう」と嘯く父の視線の先の、精緻を極めた青い花が、自身の優雅を見失う程の憤慨を青年はしかと見た。

 清冽なはずの血潮が激情を孕んで滞留し、外壁を干からびさせて音と共に瓦解へ導く。己の清らかさを投げすてて代償として怒れる魂を得ようとは何と愚かなことだろう、野性的な情動とリリシズムの取り引きなどはなんと割に合わぬ交易だろう、と青年は思い悩み憤る。

 柊の俊足の追跡をかわして父は疾風さながら書斎に駆けこんだ。母と長女のあけびといえば、これまでのようすを見ながらとうとう顔を合わせて、微笑していた、風にそよぐ真綿の如くころころと。

「お兄ちゃん」とあけびが呼びかけた。

「ん、どうした」

「それ食べないなら私にくれる?」

 食べかけの野菜を指さして言う。

「良いけど、なんで。食べたいの?」

「猫ちゃんたちにあげるの。なは」

「ああ、なるほど。良いよ」

「ありがとう。……そういえば旅、楽しかった?」

 青年は旅のことを少しだけ話した。

「いいな、私もしてみたい。自転車の旅」

「体力をつけないとすぐにバテてしまうよ」

「お兄ちゃんでも疲れる?」

「ああ、疲れた。特に今日は長い距離を漕いだから」

「じゃあ元気になるようにお肉食べないと」

 あけびは自分の皿の肉を箸で挟んで、

「あーんして」

「ぬ」

「ほら、あーんは?」

「ぬぬ」

 拒絶するかしまいかと思い巡らせながらも、減るわけでもなしとして口を開くと、

「シャッターチャンス」

 眩しい光が視界に飛び込んだかと思うと、デジタルカメラを片手にあけびがにんまりと笑っている。

「くひひ、お兄ちゃんの面白い写真、撮っちった」

「やめんか」

「ドッキリ大成功だぜ」

「そんなんあっきまへん。許しまへんがな。消しんさい」

「ブー」

 青年が触手のようにカメラに手を伸ばすとあけびは弓を引くように青年からカメラを遠ざける。それでも青年は追い詰める。

「盗撮! ダメ! ゼッタイ!」

「貴重な作品なのですよー! 金蔓、じゃなくて思い出なのですよー!」

「いま金蔓って聞こえた」

「ダイジョブ、ダイジョブだってば」

「何がダイジョブだ」

 なおも譲らぬあけびである。

 さらに青年が手を伸ばした時だった。

「とりゃりゃ!」

 威勢の良い掛け声を上げながらあけびは兄の腕に噛り付いた。もうすぐで肌を突き破るかの痛みがあったから青年も咄嗟に声を上げて痛みに加熱する神経を散らして、それから即座に噛り付き返していた、墨の如き傷痕を残すほど。

 汚い野良猫を踏ん付けたような悲鳴が木魂した矢先には、妹は青年の噛みつきをなんとか抜け出して、両足を回る独楽のように逸らせて、脱兎のごとく逃げ去ったら、いつのまにか皿の野菜は失せていた。長女あけびの摩訶不思議なこれまでの行動に意味を見いだせず辟易する、疲労が溜まる、あばらの痛みも弥増さる。

 さて、長女あけびの起こした、この狂騒めいた騒動も、役者が去ればその名残さえ探しても見当たらぬほどに沈静していた。父と母とあけびの姿はどこにもなく、いまは青年と次女の柊だけが残っていた。広い空間にぽつりと置かれた火薬の燃え滓の如く。

 夕食の一騒動を巻き起こした張本人の柊であったがさすがに疲れていたのか未だ食事の途中とあってさっきまでとは打って変って静々と箸を口に運んでいる。や、静々としているように見えるのは、背筋のぴんと伸びた綺麗な姿勢とその秀でた所作ゆえに頭が軸からと動かぬからであって、実の所その食べ方は急いて、食べ物を詰め込みがちで、噛むのも早く、咀嚼の際の口元はよけいに固く結ばれているように見受けられる。鼻腔から漏れでる息は多分に熱を含んでいて、肩に力が入って苛立ちが見える。が、そうかと思えば時々、瞼がその重みに負けて濡れた枯葉の如く今にも落ちそうで。

 暇潰しがてら、解剖するようにこの妹を見つめる。血肉を透かすようにこの矮躯を視線で貫く。言葉で囲い、切り分け、定義する。高次の存在の冒涜に焦がれる。倒錯した美と背徳への憧れに心が踊る。知恵の実を己だけが食し、一糸纏わぬ恋人の姿を高見から悠々と眺めているような。

「宝石のように美しい瞳というのは誤りで、宝石よりも美しいものを宝石のように美しいというのは道理から逸れる、宝石のように美しい瞳と言い表すならば瞳は宝石よりも美しくないとなってしまう、と宝石が嫌いな者ならばこういった語りをするだろうか。

 ならば加虐的なものを好む者が語るとどうなるだろう。

 子犬にだって噛み千切られそうな小さな鼻に、刺せばぱりんと弾けてなかの液が出てきてしまいそうな、でも飴玉のように甘く、舌の上で転がしていたくなるような眼に、摘まんで引張れば避けてしまいそうな唇に、舌で弄ぶだけで溶けてしまいそうな耳に……これらが、押せば紫の痣が深く染みてしまいそうな白い柔肌に乗っている、がこの描写も極端に過ぎる。

 上向きにくるりと撓う長い睫毛が濃く縁どる大きな目の、灰色がかった虹彩は真珠の如くで、その眼に薄い目蓋を半分ほど被せて、利き手の左手に持つ箸の先端を上に向けて、無意味に、その先端を何ともつまらなそうに眺めている。何とも無意味な、果実の生らぬ美しい徒花でも見るような、憐れみと憧れの同居した心持ちで、青年はこのニンフの如く麗しい次女の箸の先端の指す方を見た。そこはちょうど四方の角で濃い闇が滞っているように見え、闇の中心の、濃くなっている所を探してみようと視線を彷徨わせても、疲労のせいで視神経がそれを拒否しているのかどうしても焦点が定まらず、見れば見るほど大渦に嵌って逃げられなくなるような気がして、焦燥が更なる焦燥を呼びさまし、どういうわけか、青年に顔を背けさせざるを得なくさせた。

 柊は蕾のように薄く小さな唇を硬く尖らせ、鼻腔から息を漏らし、蕾が綻ぶように軽く開いた口から小粒な犬歯を覗かせた。

 西洋風の、クリームのような質の白皙と際立った目鼻立ちはいわゆる美形の象であるが、未だ淑女の色を持つには至らず、その面ざしに愁いを散らせど幼さが隠せずに張りついている。この少女の愁いというのは日の光を待ち侘びる地中の薔薇の種、ないしは海底に沈んだ真珠貝の愁いのような贅沢な愁いのようにも青年には思えてならぬ。中学も三年生ともなればそろそろ大人の女と比較して遜色ない体つきの子もいるくらいだが、この遅咲きの花は母性の証である膨らみも未だ発達の兆しを見せずにいて、山もなければ谷もないが、それが人生ならばそれはそれで素晴らしいことだと青年は思う。

 愛らしく高潔な顔立ちのこの少女の美しき姿は、退廃を予期せぬ怠惰な詩情を持て余しているように思われる。退廃を予期せぬ怠惰な趣というものは青年の劣情を浮き彫りにするもののはずであるのだけれど、この少女が一つ屋根の下で生活を共にする妹であるということもあって、この少女の場合には、その美しさは青年を清廉な気持ちにさせるものとなっている。ただ欲を言うならば、もう少しじっとして黙ってくれていたらよいのにとは思う。

 この少女の美しさは艶めかしさではないから肉欲に通じる類のものでなく、もっと無機質で、感じるより理解するのが妥当な、精密に描かれた絵画を見るような、美文を読了した後の数学的な芸術性を目の当たりにしたときのような酩酊を喚起させる。人の美しさは絵画より音楽に近いものであるのにも関わらず。

 そもそもこの家の女たちには絵画のような美の調子が纏わりついていたのであった。生命は刹那に弾け、物の哀れを感じさせるものであるのに。

 拙い希望が青年の理解に霧をかけようとするが、何人たりとも万物の理から抜け出せぬことは青年にも分かっている。この少女には何か楽しげなことが待っていることも、何か悲しいことが予定されているということも。

 青年の胸の痛みを知ってか知らずか、妹は束ねた髪を眠たそうに弄っている。怠惰にして、美しく。

 たまさかに垣間見える白刃のような美しさに、強い羨望を覚える。作り物のような美しさを彼女たちの美点とするか或いは欠点と定めるか青年は決めかねている。

 彼女は未だ己が如何なる資質を持って生れてきた者か全くの無自覚であるかのように生きていた。そればかりか時にそれを憎み投げ打っているような感じさえあった。それもまた青年の焦燥を煽る火種となっているのであったが、彼女がそれを知っているのかどうか。

 ただただ、彼女は生きているだけだったのだ。それも驚くべきことに、実は彼女なりに精一杯。そんなことを知らぬ青年は彼女の未来に置かれた風景に思いを馳せる。

 これから彼女は如何なる変化を遂げるのか?

 彼女は何にでもなれる。いまは少女で妹だが、いつしか、おそらくは、母か、恋人か、娼婦か、聖人か、裏切り者か、あるいは天使にでもなるのだろうか。莫迦げたことを、と頭を左右に振って自嘲する青年であったが、この高潔な青い瑠璃の横顔を見るとおかしなことに、あながち間違いではないかもしれぬと苦笑した。そしていつものように思うのだ」

(でも俺は……何にだってなれない)

 息切れした肺と涸渇した喉と眩んだ眼で生きられるのは如何なる世界か。あるとすれば其処は暗い海の底だろう。そこで彼は前後不覚のまま遠くを、或いは内を向いてその中をぼんやりと見つめ続ける。

 海の底は穏やかだという。地上のように嵐も争いもなく、静かで、時が止まったようだと。

「…………どうにかしなければ」

 腐乱した気体を吸いたかった。

 ステファン・マラルメの嗟嘆といきという一篇の詩を思い出していた。

「お兄ちゃん」

 急に、

「なんだ」

 柊が青年に話しかけた。

「さっきから何を言っているの。ひとりでぶつぶつ呟いて」

「独り語?」

「ええ、ぶつぶつとモノローグ調でダラダラと」

 柊の頬に仄かな含羞の赤が点した。

「俺が独り語を?」

「言ってたよ、ずっと。五分くらい前から。とてもマニアックな批評とは言えぬ妄想を言語に変換しておられました。よしんばジョークにしても気持ち悪かったですよ?」

「ぬかった……いつから聞いていたんだ」

「パフパフだけでいいからっ、って言ってたくらいからかな」

「んなこと一言も言ってない!」

「柊はロリ整然としていて、のところからだったかなぁ」

「絶対そんなことも言ってないんだ」

「本当はあまり聞こえていませんでした」

「そ、そうなのか」

「でも、ずっとブツブツ言ってたのは本当。ブツブツ言いすぎてこのままお兄ちゃんがフジツボになっちゃうのかと心配したよ」

「いつくらいからブツブツやってた?」

「ふたりきりになった時くらいからかなぁ?」

「思いっ切り前だな」

「だから五分くらい前からって言ったじゃない。それはいいとして個人的には、私は山も谷もない人生も体も嫌かな?」

「ナボコフ先生ならびにルイス・キャロル先生ごめんなさい!」

 合掌しながら椅子ごと卒倒して後頭部を打った。天井の染みが人の顔のように見えた。

「色々誉められていたようで実はひどいこと言われていたような気がしますが、まぁ、許すとしましょうね」

「寛大だな。お前、乳はないが器はでかいな」

 怒るのだと思っていた。しかし柊は怒らなかった。

「……あのね」

 柊が接近する。青年は起き上がる。

「ん」

「ありがとうね。わかっていてくれて」

「なにが」

「私を助けてくれるのは、お兄ちゃんだけだから」

 しな垂れかかり、腕に絡みつく。

 やはり、全てを聞かれていたのだと青年は直ちに了解していた。

「してもらうに越したことはないのだけど、理解してもらえなくてもいいの。それでも私は、お兄ちゃんを理解しているから」

 柊は髪をほどいた。纏めなければ肩の下まで伸びる、滔々としたたる深緑の、海底の藻の如きしなりを見て、青年は身震いした。そこに母と同じ黒髪の長髪を見た。

 曖昧だった理解が闇の切れ間から顔を見せ、衝撃となってこの身を襲う。闇を切り裂くゼウスの雷霆にも劣らぬ衝撃で、認識の甘さを露呈させるものだった。自分が何を言ったのか、耳にしたのか、柊に別れを告げたと思うけれども、そうでもないような。

 戦々恐々、己の足腰が自分のものでないような気持ち悪さを覚えながら、逃げるようにして辿りついたのは自室のドアノブの前だった。頭が痺れ、やはり足元がおぼつかず、踏み鳴らした廊下の板の軋みが、化物の囁きのように耳に痒い。

「――――さあ、おはいりなさい――――」

 声がしたのはドアの向こう側、ということは、青年の部屋の中からであって、しかも耳にしたのは、人の声、それも、か細い女の。落ち葉が毀れるような弱い音だったけれども、重さが肩にのしかかるようなどろりと濃い闇は、両手で掬ったように優しく音を捕まえて、青年の耳にまで声を届けたのである。

「だれか……いるのか?」

 吐き気をもよおす酩酊感。澱のように凝り固まった闇が急かすように背中を押すからか、灯取蟲が光に向って飛ばざるを得ないような本能からか、ドアの向こうの艶な声に淫な情事を期待したからか、気付いた時にはドアノブに右手をかけていた。まるで抗う力を吸い取られてしまうような心持ち、が、そんな力が初めからこの身の内に有ったのか知れず、目も、耳も、両手も、両脚も、怖気け付いてしまい、割れるように、痛み、軋む頭蓋。脳髄の奥の叫び声……まるで未来の己が警告を鳴らしているような、ぎりぎり、と音がする、何かの音。

「アア、まいったね……相当、疲れているのかもしれない……」

 気付いたときには、青年は部屋の中だった。

「莫迦な……自分で開けたのか?」

 ドアが向こう側からひとりでに開いたような。

 部屋に来たからか、ふと安堵して、心が撓んで、しかしどんなものから逃れて安堵したのか忘れてしまい、思い出そうと思っても記憶は掠れ、焦燥が新たな焦燥を呼んで、蜃気楼を追いかけているような途方も無さが脳裡にたゆたって、

「俺は何をしていたんだ――、旅に行き、旅から帰り、おかしな女に会い、親父と話して、母さんのようすがいつもとちがい、風呂に入り、着替えがなく、柊に叫ばれ、あけびに会い、夕御飯を食べ――――アアア……」

 思考が翳り、右往左往していた視線も下方に落ちる。どこかしこにも闇があるばかりだが、床に這う闇は中空のそれよりも濃く見えて、しばし見つめるうちに目と闇が睦めば、蜥蜴や蛇蠍の類が塵芥に埋もれて足元で蠢いているように見えて、その怪しさたるや、鬱、鬱、鬱、として、

「……いかん、いかん」

 独り語が多くなっていたことに気付く。暗い部屋にひとり佇んでブツブツと言っているなんどは偏執狂の烙印を押されてしまっても言い逃れできぬ事で、誰もいぬはずの自室でひとり口を固く結んだ。

 そして少し意識が点綴してくると、自分がどんな思考に固執していたのかなどもう重要ではなくなって、疲れたしとにかく眠くなった。

 布団に滑り、意識も絶え絶えだったけれど、やはりと思って手探り、何かを思い出そうとしたけれど何も掴めず、思考も切れ切れになって黒で埋め尽くされて。

「――おやすみなさい――」

 この夜、自分を妊娠して自分を流産する自分の姿が、眠りにつくまで青年の脳裡に纏わりついていた。


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