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大地への帰還  作者: 桐生真之
3/56

B 変貌

「光は側にあるはずもそこは暗い洞穴で

 そこをこじ開けると中から蜜があふれ出た

 穴が蠢き入る者を抱きしめ飲み込むと

 侵入者は右にするり、するり左にしながら

 いつしかとろけて果てていた」

 

 

 野蛮な男たちの声が木魂する地獄のような座敷牢に、青年は収容されていた。どれほどの時が経ったであろうと思い巡らせても、流動しているものなどあるものかと思わるる、己の名も性も定かでない場所で過去も未来も消え去って、青年は支配され続けたままである。

「憎い……お前が憎い」と呪詛を呟き、女は袖の袂ついと摘まんで、青年の頬に連火の如くに平手を浴びせかけた。顎が砕けて首を根元から持っていかれるような、首の上から爆ぜるのではなかろうかと慄かずにはおられぬおぞましい衝撃で、一度止んだと思えば、顎を人差し指でついと上げられ、貪るように口付けされた後、青年は美しき眉宇に唾され、またも往復の鬼の平手打ちを受けると、ぶくぶくに膨れた上に血液が凝り固まって赤黒く変色したところに平手を受けたものだから、口腔だの鼻腔だの眼だのから爆ぜたように血がしぶいて女の繊手を点々と染めたもので、

「よくも……よくもこの体を、汚らわしい血で汚してくれたな……」と、玉のように美しかった面を驟雨呼ぶ黒雲の如く禍々しく引き攣らせて見るからに激昂した鬼の女は、青年の手を縛りつけるように男たちに言い残して独房から姿を消した。諸手をぐいと縛られて天井に括りつけられた青年は、そのまま現世の時間にして丸一日も吊るされたまま時を過ごした。男たちや女が立ち去った後も無言の攻めは続き、独房の中心で青年はあらゆる痛みの襲撃をただただ受けるばかり。いつ終わるとも知れぬこの痛みは、全身の打撲と骨折と潰れそうな肺と外れた肩と千切れそうな手首の皮と切り取られた下半身から湧き立ち襲い来る痛みは、彼の大罪への報復のようにさえ思われた。

 いつの間にやら意識を失っていた青年は、気がつくと独房の床に蹲っていた。さていつ両手首の拘束を解かれて天井から降ろされたのか見当もつきはせぬが、痛みは消えて体は元のように再生していたし、そればかりか彼は馴染みのこの場所での年月を思い出して本調子ではないものの明らかに研ぎ澄まされ、白刃のように澄んだ己を見出した。

「気がついたか」

 悪夢の如き悲劇も過ぎ去ったと思えばまた一難の、青年の苦痛の元凶であるところの鬼の女が呼びかけた。牢の外から、嘲笑を浴びせながら。口を袂で隠しているが歪んだ目尻と声調にはいかにも憎々しい相手を手玉に取ったという喜悦が含まれている。その鬼の後ろで佇立している男たちになにやら支持を与えた後、女は牢の錠を解いて青年のもとへと歩んだ。

「ほら、そう落ち込むな」

 この女の声はどうして魔力を帯びるのか、どうも青年の脳髄を揺らすようで、先刻まで回復し切っていたかに思えた青年の体が、痺れるような疲労に襲われて茫然自失とし、青年はまたもや男たちの手に落ちていった。

「これからはもっとひどいことが起こるのだから」と女は告ぐ。神も救済も秩序もなしの、強欲と力のみによって突き動かされる異世界にて、青年は再び止まることのない恥辱の攻めを受けていた。

 意識の乏しき青年は男たちの支配に完敗して己の全てを投げ捨てた。放射状に飛び散る男たちの笑いと青年の叫び声は人のそれではない。人の形を成した獣か魔物の声が轟々と周囲の暗影に響き渡っている。青年はまたしても意識を失いかけたが、しかし青年を凌辱し続ける男たちを遠巻きに見つめる鬼の面が、その笑みが、

(……まさか、そんな)

 母を思わせるほどに罅割れた、その悲しげな。

 この悪性の幻影が脳裡に焼きついて離れぬ青年は突如としてその腕と足腰と臍下丹田に力が呼び戻されたのを感じた。

 青年は弾けた。男たちの哄笑は、とある光景を目にした刹那にはこの世のものとは思えぬ断末魔に打って変っていた。

「……汚いモノ突っ込みやがって」

 青年は口腔に挿入されていた剛直を噛み千切り、足元に吐き捨てて踏みつぶした。剛直を噛み千切られた男は股間から血を流し過ぎたからか、その痛みのせいからか、或いは性器を噛み千切られた精神的ショックからか、波打つ魚の尾鰭のように全身を痙攣させたまま白目をむいて仰臥した。

「あまり美味くはないな」

 倒れた男の腕をひきちぎって二の腕の柔らかい所にかぶりつき、もぐもぐとやって飲み込んだ青年の、朦朧としていた意識は光射す庭のように輪郭を持ち、顔は死期にはほど遠い、活力の漲る色に変質した。

「もたもたせずにはやく奪ってしまえばこんなことにはならずに済んだものを。お前たちは甘かった。紙屑ほどの価値もないくせに」

 仰臥する男を置き去りにして青年に立ち向かいし男ら三人は、支配される者の反抗と仲間のひとりを亡き者にされたことへの憤怒をぶちまけて青年に飛びかかる、が、

「白紙にしてやろうか、塵屑ども」

 青年の一喝に怯んでからは、闘争心も欠片を残すこともないほどに削がれてしまう。後に残ったのは己の全身を駆ける怯えと耳介を愛撫する青年の悪意に爆ぜた笑い声のみであった。狂気の鬼と化した青年は、殺されなければ殺されるといういたって単純明快なるこの場の秩序に則って男らを葬り去った。

 晴れて自由の身になった青年はとろとろと廊下を歩んでいたが、どうにも腹の具合が悪くなって冷や汗たらりとやったらば、やたらと胃から食道からむかむかとしてこみ上げるものがあったから、いっそのこと吐いて楽になろうと嫌悪感と共に吐き出したのだが。

(吐血だって……?)

 脈動に沿って継続的にどくどくと口内から土砂のように流れ出た、その血の多さ。

(違う、これは)

 内臓が破裂しているような痛みでなく、粘液に潤う皮膜が圧迫されて感じるようなじわじわ突き上げてくる鈍痛であって、青年にはそれが如何なる要因によって生み出されたものか、迫り来る痛みの増加によって予感できたのだった。

(これは……破水じゃないか……)

 呼吸もままならぬほどの痛みに耐える青年は、青年の体内の管を外に向かってピタピタと手をつけて腹這いでのそのそ這い出てくるものを感じていた。あまりの気持ちの悪さに耐えかねた青年は、自らの口内に片手を直に突っ込んで喉に迫り来るものを掴み、力を振り絞って吐き出してみると――ぞろり――食道から外界に抜け出したものがある。血に塗れてひやりとした手の甲よりもいまはそら、掌で鷲掴みにした物体の、鼓動と熱が彼を狂気に駆り立てる。

 青年の口から出てきたもの。

 それは赤い、赤い、胎児であった。

 姿形は人間の赤子のように頭の大きくしわくちゃの小猿のようではあるがなんとも注目すべきは肌の色で、赤子というのは生まれたての頃には肌の色が赤く見えるために赤子と言い慣わされてきたのであるが、この赤子はそのような少しばかり赤く見える程度のものではなく文字通りの血の色の赤子である。赤い、赤い、紅の子である。

 いくら赤子の皮膚に付着した血液を拭き取ろうとも、その肌の色が拭えるわけではない。奇怪異様な赤色の赤子の姿に青年は瞠目し、御産の疲労からか再び精根尽き果てて、視界がぐらりと歪んでしまう。膝をついて赤子をその場に置き去りにしたままの青年は、棒になった脚を引きずるようにゆらりゆらりと暗い廊を徘徊しはじめた。すると微弱な念を受信したのか、青年はくるりと向きを変え、方角を定めて、確信したような足取りで階を下りて行った。

 どれほど降りてきたのか見当もつかぬほど歩きどおしであったが、このいつも同じ景色ばかりの牢獄のなかでも階を下りるほどに念がはっきりと受け取られる。階段の果ての最下層にやっと着いて、長い廊をひたすらに歩き通す。糖蜜のような闇が重圧となって襲うような密閉された建物を歩き通して足腰に疲れがたまっているはずの青年であったが、脳裡に訪れるあまやかな声が響くほど、力は漲るようであった。彼は長年抱えていたあばらの痛みを忘れていた。稚気を含んだ期待か、神仏を目前にする畏怖か、初恋の甘酸っぱく青い羞恥か、赤子の如き本能的な渇望か、彼は肌がひりついているのを感じて、火取虫のように前進する己を客観視できぬほど興奮したままに鉄の扉の前に到着していた。

 一目この扉を見るだけでこの扉の向こうが上階の鉄格子の綿々と連なった牢屋とは別格の、籠城するにもってこいの難攻不落の牢獄かと思われる硬い密室であることが予想でき、不図ここが我が主の住まいであることを想起するに至り、恐る恐る扉を開けようとしたらば光が線になって闇を割ったと思えば、光に照らされた壁から緑の新芽がわらわらと萌え出った。

 辺りが光りに侵されていくのに気がついたのと時を同じくして青年は己の輪郭が光りに溶けて行くのを見出し……いつのまにやら大口を開けていた、鯨の亡霊を思わせる魔性の扉は、青年を深く飲み干していった。

 重い扉が音を轟かせて閉まる。

 常のことであるが青年はこの視界に広がる矛盾をどうしたものかと思う。扉の内側は牢獄のような洋館の造りの奇怪さをまざまざと見せつけるものであり、茫洋とした湖のような異界の平地が広がっていたのだから驚きを通して呆れかえるばかりの草木なき廊下や上階とはまるで別世界の、芝生もあれば小鳥の好みそうな止まり木もあるし、どこからかさらさらと耳に届く水の音まであって、空気が冷たく澄んでいる。まさか呪われた女がここに囚われているなんぞ誰が思うであろうの考えを振りきって、念のする先へ面を向ければ、玩具のようながらくたの椅子に身を崩して凭れる小さな女を見出すのだった。

「また……来たのか」

 女やもめには花が咲き男やもめには黴が生えると言い習わすもこの女、男やもめにも負けぬ汚れようで、磨き上げられた紅玉に等しき輝きようであった虹彩がいまでは腐れて潰れた柿のような黒褐色で底なし沼を思わせて暗く澱み、瞳は海面に浮かぶ重油のように鈍く揺れて眼の下は窪み、頬はこけ落ち、内側から月明かりで照らしたように白く美しかった髪は嵐と干ばつに幾度も晒された麦の穂のように枯れている上に、下半身が腐りかけているせいで足腰が立たず仕方なく椅子に凭れている。

 牢獄に住まう者には名がなく、正確には名を奪われていたのであるが、この小さな女も例にもれず何者でもない空虚な個体としてこの渺茫とした平地に踞座しているのだった。

 青年は慈愛に満ちた表情を浮かべた。美とは単純でつまらぬものだが醜悪なものほど複雑で深遠であり、興味がつかぬもの。我が主の晴れ姿を前にして、声をかけようとするも、

「命はいつか滅びるから美しい。なのに私は死ねはしない。滅び損ねたままなのだ」

 女の突然の言葉に制された青年は言葉を詰まらせる。

「こんなところに入れられて、お前に私の気持ちがわかるか」

「いいえ」

「お前は私を裏切るか」

「裏切りません」

「なぜ断言できる」

「あなたを愛しているから。愛の前に裏切りは有りません」

「それではお前が私を裏切らないという理由にならん。その言葉は私がお前に裏切られたときに愛しているから裏切りは成立しないと言うときに使うものだ」

「あなたの心臓には確かな愛が連綿と脈打っている筈です。私に愛と裏切りを説いて下さったのがそのなによりの証拠ではありませんか」

「私は乾いている」

「乾いてなどいません」

「お前には何もできん。誰も私を潤すことなど出来ない」

「私はどんなことがあろうとあなたには忠実でいるつもりです」

「ならば明日までに人間を百人殺してこい」

「……それは」

「できぬのか?」

「いいえ。やります」

「簡単なこと。天使の恰好をしてやってくるのが悪魔というものだ。お前はいつもの通り弱者の振りをして笑顔で人間に近づくが良い。相手が隙を見せたなら首を絞めるなり心臓を突くなり腹を捌くなりするだけだ。大声を上げられるのが面倒ならば口を押さえるか喉笛を切り裂いておけ。逃げられないように足腰に重症を負わせることも忘れるな。あとはお前の好きにしろ」と腐りかけの体を持つ女は乱暴に話を切り上げた。

 恋は盲目、と言い慣わすが愛も盲目でない保証はなく、青年は女の要件を肯い頭を垂れるように頷いた。

「ああ……」と思い出したのと同じく呟いて「殺しに行く前に頼みごとがある。というのはこの館のあちこちに布袋が散乱している。お前にそれを集めて中のものをここで組み合わせてほしい。袋の数は六つ。できるな」

 首肯することしか許されぬ青年は主の命を仰せつかり扉の向こうに転ぶように出で、身に詰まる思いを抱えて右往左往しながら布袋を探し回り、夢中になり過ぎていたのか、青い人間や顔のない人間なぞに出会った気もするが、殺したのかどうしたのか思い出せぬ始末である。そうするうち道の途中途中に偽の袋がいくつかあり掴もうとすると蠅がうじゃうじゃと湧くのがあって幾度か嘆息したが、やっとのことで袋六つともかき集めた頃には青年の体は襤褸雑巾のようにやつれていた。しかし、女から誉めの言葉をもらえるやも知れぬと思えば疲れは癒える、気も逸る。六つの袋を引き摺って女の部屋まで持っていくが袋とてこれは単なる袋でなく、人間ひとりほどの重さなものであるから剛力な青年をもってしても、何十時間も引き摺っていればいくらか疲れたし、袋の中身がにわかにもぞもぞと蠢くから、その運びづらさといったら大変なものであった。

 女の許に戻ると青年は袋の中身を取り出して言いつけ通りに部品の組み立てを任された。部品の形状からして完成後の物体の様子は容易に知れたので、説明も要らず手間もかからず、青年はすぐにばらばらの部品を接合させてひとつの像を組み上げた。組み立てられた物体の表面は暗く光り黒曜石を思わせるも、姿形は青年にもよく似た人の形であった。陶器のようにつるりとした硬質の肌であるが人形ではなく人のようだ。人と言っても四肢と胴体を繋げられたばかりだからか壊れかけの機械のようにぎこちない動作で手足を動かしていた。しばらくして慣れたのか掌を閉じて握るを幾度か繰り返した後に無表情・無言のまま女に一瞥くれて、傲岸な足取りで部屋を出て行ってそれっきり。

「追えと仰らないのですか?」

「追ってどうする」

「…………」

「あれでよいのだ。お前が気にすることではない」

「はい」

「それより御苦労だった。疲れただろう」と女は労いの言葉を述べて青年を手招いた。歩み寄った青年は女の前で跪き、女の牙をその一身で受けていた。

 ぐちゃりぐちゃり、と音を立てながら食われていくさなか恍惚の海に打ちやられる青年は、女の息を肌で感じていたのであるが、それは高次の生物が持つ孤高の悲しみや、誰とも繋がることの出来ぬことを源とした憂いのように思われる。痛みは快楽とふたりの絆の証明でもあった。ただ、女が青年を支配しているのか青年が女を支配しているのか、このふたりには分かりかねた。貪るだけの衝動と、与えるだけの情動が転がるばかりであった。手足を食われ胴体を食われてあとは虚無になり果てるだけとなった頃、青年は涙を流せぬ女の泣き顔を見た。


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