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大地への帰還  作者: 桐生真之
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1 帰還

 古来、人類は数多の手段を用いて愛を伝え続けた。神代の民から現代浮世に生きる民、現存した全ての人間を含めるならば愛の数は計り知れなく、動物の求愛行動さえも含めるならばそれは眩暈のするような数である。愛の世界に差別はなく、愛情表現は人それぞれであり、全てが等価値のはずであるが、しかし愛を表現された相手がそれを好むか好まざるかは別の話であり、ならば己の愛情表現はどうだろうと気にするのは何ら可笑しな話ではなく、例えば目前の甲虫にこの狂恋は届いているだろうかと思い巡らせ春愁を持て余すのも必定であろう。

 焦点を合わせて好機を探る。逡巡の暇なぞありもしないのにもかかわらず、被写体の力強い鍵爪から飛び立つ気配は感じられず、梢にしがみ付き、鋳型に嵌められた挙げ句に金槌で打ち据えられた合金のようにその場に確固として存在している彼女は、自然界随一の美形であり、角度によって様々な表情に変わるため、これも多様性を極めた彼女たちの持つ魅力なのだろう、と思う心と敬慕の念は尽きず、所有欲が刺激される。

 防腐剤を使用し、形を整え、ピンで止め、出会った場所と年月日と彼女らの名を記入し、鑑賞する。彼女たちを半永久的に独占できる喜びに恍惚となるが、しかし残念ながら、今回は器具を持って来ていないのだ。

 馬が嘶くように高く鳴き交わす声が耳に快く、天を仰ぐと、飛鳥を背に視界が弾け、晴々とした蒼穹が広がる。冷えた大地と寂しい空の境で佇む青年の肉体が、空の一部のように錯覚される。青年は再び自転車に跨った。

 三月上旬、高校卒業を終えた青年は長期休暇を使って旅に出ていた。電車、バイク、車の類は禁物の、自転車と船のみ使用を許された独り旅である。アルバイトを詰め込み、資金を貯め、二月下旬に旅を始め、現在は帰路を辿っている。本日、最終日である。

 世界は美しい揺籃であるべきだと彼は思う。シャッターを切るように強く瞬きして、美しい情景を瞬間にして脳裡に貯蔵し、綺麗な思い出だけを刺青を彫るごとくその身に刻む。世界が完全に滅び、何もなくなってしまう前に。

 地球を覗き込む月は果たして、世界が滅びゆく瞬間を見ているだろうか。欠けては満ち、満ちては欠け、滅んでは生まれ、生まれては滅ぶ、銀色の月は、今日も優しく夜を照らす。いつも月を見ているわけではないが、月はいつ見ても変わらぬ優しさを感じさせる。闇に包まれた世界でしかはっきりと姿を現わせないが、いつもこの星の周りを延々と回っている。そこが自分の居場所であるから。では彼の居場所はどこか。自分の居場所は、心の中にあれば良いのだ、と彼は思う。

 夜闇が空を塗り固める頃、小太刀の一振りように短く、氷河が溶けるまでの間のように永かった旅の高揚感は、喧噪や、街の匂いと混ざり、やがては薄れて消え去った。五感すべてが日常を思い出す。元のリズムに戻される。それでもよかった、旅の余韻だけは胸の奥深くで、しんと横たわっていた。

 いくつもの旅を共にした愛すべき自転車と共に、春の匂い霞める桜並木の風を切る。街を越えて路面電車の線を右に外れる。しばらくすると石段が見える。いつもの長い石畳と獣道もどきの山道の中を自転車を押して屋敷に到達する。

 淡々と佇み朽ちていくのをのんびりと待つ屋敷の影はいつもより淡く膨張して曖昧な輪郭を纏っているように見えた。屋敷と周辺の空間を分かつものがない感じの、おとぎ話にでも出てきそうな、現代的家屋の様式から隔絶された、恰も数々の哀話が物語られたような様相に干乾びて、人々が生活した時の流れや、彼らの想念などが血糊のように張り付いて染み込んだこの家屋は、時を経て朽ちていったなりの完全さを装っており、完全であることは終局を意味している、と青年は思う。

 石段が途中で途切れている上、土や苔が露わで滑りやすく危険で、獣道のように曲がりくねってさらには岐路にあふれているので、道を知らなければ遭難してしまう恐れがあり、勾配も場所によって区々であるなどして、言わずもがな、人の通るべからざる難所・魔処、道の両脇に垂れた木々が道を覆って、森の木々が光を飲み、影を生んでいる。湿った長い階段を登ると重々塗り固められた背の高い門があり、その門を潜り抜けると大きな平屋がある。そこが彼の生まれ育った家であり、この屋敷は一度も取り壊されることなく長い年月使われてきたものらしく、修復したり、修復を重ねたりしているものの、時間の蓄積が屋敷の内外に染み付いてしまって、庭に大きな空間があり、広さを持て余している。森の奥の、時の流れに残されたような日本家屋は、山の途中をくり抜いたような土地にあるために、敷地の周りは山の木々に覆われて、隠れ家のようになっていた。

 庭の壁沿いに並べられた六本の木のうちのひとつは桜の木であり、これは青年の父が二十年程前に植えたものらしいのである。今まで春になろうと満足に咲いたことがなく、青年が幼い頃より長年の間は花見なんどできたものではなかった。

 しかし世の中は三日見ぬ間に桜かなとはよく言ったもので、旅から帰り久方ぶりに実家の門を跨いで青年の瞳に真先に映り込んだのは、満開に咲いた桜花の綾なしであった。

 渦を巻く風に乗り、桃色の花びらが華麗に舞い上がる光景は淑やかで……とこんな具合に呑気でいれたら良いものだが、実を言えば、即座に庭の変化に気付いたわけではない。というのも青年、下を向いて石段を歩いて門を抜け、仰向くと、粉々の、優しい淡雪にはとても似つかぬ淡紅色の礫の群、嵐や小石や雨や霰の空襲が一斉に落ちる、雪崩のように落ちる、蝗の大群のように押し寄せる。とそんな状況に巻き込まれたと思ったが、片手を額に翳して、太陽を見るよう眩しそうに目を細めて、畏れと稚気な酔狂の混ざったような心持ち、微笑む青年の頭の上、礫は地を穿つ烈火の滝と化して落下するはずであった。けれど、いくら待っても淑女のあえかなる指の先で愛撫されるごとく、頬がやわい風に触れられるばかりで一向に礫の空襲に遭うことなぞは無く、不思議に思い、細めた目を十全に開くと、蕚から千切れた桜花が樹上を核とし宙でぷらぷらと回転しながら美しさを燃やしているではないか、それと時を同じくして、花弁の群れの微かなあわいから暗黒の夜が見え、その表面に星が鏤められているのが見て取れる。墨色の空は獲物を飲み込む底なしの悪魔の口腔、旅の道中にて幾度も目の当たりにしてきた絶望の象徴、月のない夜の海を、そのまま映し出していた。播種されたように山海のあわいに羅列した屑星の集いなぞは、これから海底へ引き摺りこまれるのを受け入れた死刑囚のようであり、己のこの先の運命を憂いているのもいれば恍惚の表情を浮かべて常軌を逸した安らいを見せているものも、嬉々として残り少ない命を燃やす事に専念しているものもいるように思われる。

 舞踊る桜の花びらに眼を奪われたのか青年はしばらく立ち尽くした、倒れた自転車そのままで。それほどまでにこの桜に見惚れていたわけであったが、その理由というのも単純明快で、青年が桜を好んでいたということに帰結する。青年は薔薇より桜を好んでいた。腐っても首を落とさぬ薔薇よりも、堕落の前に命を絶つ桜こそ貫徹された美への理想と規則を持ちそれに従順であると思う。言い換えるならば更には、美への殉教らしい矜持がひとつひとつの花弁から見て取れるのだ。よってこれが礫でなく桜花の舞だと知ったおりには温かく素直な気持ちでこの情景に平静を感じていた。

 桜の花弁のような暗涙が青年の頬へ零れる。塩分を含んだ雫が砂礫に呑み込まれると白砂には血痕のような染みが黒くついていた。

 これほどに美しい桜を目にしたのは初めてのことで落莫としていた気持ちがいくらか好転し胸が晴れたような気がしていた。それは長年の不遇に負けぬ巨樹の息を、咲き乱れる葩々を介して網膜に焼き付けたせいであるかもしれなかった。

 遠鳴りがして、風が来て、それが冷たくてまた涙が出る。眠る樹海に唸りをあげさせた夜風をここへ誘ったのは、真冬の風花のごとく空に舞う花吹雪の神聖か。薄桃色に散り散りになった幾多の花弁が宙にたゆたって、視界もろとも天を飲み込み円を描いて大きなうねりを生み出している。蝶のように気ままに(と言っても蝶には蝶道というのがあり、蝶独自の道を正確に通過しているため、気の向くままに飛んでいるようでも実は決まった道を飛んでいるのだが見えぬ秩序は知ったことかと青年は、いまはただ例えようもない美しさに圧倒されていた)風の中を滑る花びらに触れそうになり、青年はあわてて身を避けると、

「お帰りなさい、正樹――――」

 聞き覚えのない声が戦ぎ、花びらの合間を縫って鼓膜を揺らしたのが、白馬の鬣を滑るような涼しい声音で、胸にひやりと染み入った。この透明な響きは羊水の中でまどろみながら聞いた母の子守唄のようにも思えた。胎児であった頃の記憶など常人は持ち合わせていないものだが(妹のあけびは覚えていると言い張るが)そういった確信が心中で大きく育っていった。

 さて、あの涼しげな音は人の声であったろうか、それとも異なるもので、汎霊説なんどがまかりとおるのであれば花弁のささめきなんぞといった怪奇的かつ霊的な現象だろうか、と思うもやはり、単なる雑音がなんらかの偶然の一致によって言葉のように聞こえたのだろうと思量する。耳に触れた言語らしき音の羅列が人の声だったという保証が誰に出来るであろう。鼓膜の中で響いたのは何であったか判然とせぬけどそれにしても、

「俺の名前を、呼んだ……?」

 高咲正樹、これが青年の姓名であるがいかさま奇怪なことに耳慣れぬ声がその名を呼ぶのは名を間違われるのと同じように気持ちの悪いこと。しかしそれでも巡らせた数多の懐疑がどうとでもなってしまうくらいの、これは妙音――耳に心地の良い音色であった。さやかな空気の深山だからか、草木の眠る夜のせいか、声は極めて透徹して、持ち主の凛とした性質が期待された。知らない声のはずなのになんでか懐かしいその音色。知己の声ではないはずなのにもかかわらず、町の喧騒に疲労した耳朶を癒す豊穣な、女の人の声。

 視線を巡らせた玉響にとあるものが目に映り、声の源に人の背丈ほどもあるかと思われる真っ赤な薔薇が、桜の梢に縄掛けて首を吊っていたように思ったが、それは誤りの、奇怪な物体ではなく、否、怪奇ではあったが見知らぬ女がひとり地に足をつけ佇んでいるのを見出す始末。耳にした音はやはり人間の声帯を震わせて生まれたものらしい。それでも胸の蠢きと寒気に変わりはなかったが。

 この女は右耳を桜の木に密着させて木に抱かれるように身を預けている。つばの広い夏の雲のような白の帽子が、つぶれて繊細な形を崩してしまわぬよう女の左手に納まっている。しおらしく、鬢の、風を含んで暴れているのを、艶な指先で梳かす。

 やわやわとした微風に身体感覚は浚われる。女は優しく微笑み随分と時間かけて――多分、時間をかけたのだ――瞬いた。暗がり故に女の造作は明々と見ては取れぬが、月明かりの降りたここでは女の白い頬ばかりぼやけて浮き、その様は刹那に燃える蛍の生命に通じ、女の弾むような血潮の水勢を手に取るように感じさせ、きっと女の頬は燃えるように熱くなっている、という確信を青年に抱かせた。しかしその確信が正しかったとてそれが女の性質を判断する何の根拠にもならぬことも明白で、というのもこの女の存在は青年にとって不明すぎるのだった。

(こんな人間は知らない)

 旅の余韻に浸った心を浚うよう、強めの風が吹きつけた。女の、血のように赤い深紅のワンピースが風に添ってはためく。深紅は女の中に流れて漲る生命力を思わせる。赤を越えた深紅という名が相応しい、血の池から汲取ったかのような深い赤は甚だしく突出してその情景に映え、影さえも染めてしまいそうなほどで、その、濃厚な、真っ赤な、血の色は、

「どうしたの?」

 二度と快癒することのない悲哀が集積されて生まれた死病と瘢痕と、黥のごとく身に纏わり付く、死をもってしても治せぬ呪いと表に曝け出された女の恥部を見ているような気にさせ、これら不快の要素が、彼に女から目を背けざるを得なくさせたのだった。

 そう、この女は一見、婉然であるから華々しい姿に映りはするけれど、目を細めてよく見るとこの妖花は、胸底に鬱々とした重い腫瘍の如き影を患っているように思えて仕方がないのである。

 桜の木から身を起こした女は純白の帽子を徐に被り、背筋を伸ばして真直ぐに青年へと向き直り、首を軽く傾けてやわらかく目じりを下げ、温かみの滲み出た笑みを双眸に馴染ませた。

 その表情に何を思ったか脳細胞は強い刺激を受け、長期記憶貯蔵に蓄えられた永遠に消えぬ思い出になりうるあの人間の記憶を映像として呼び起こす。記憶は禍々しいほどの熱い感情に付随していた。はっとする。どういうことだろう。

(それは……母さんの仕草じゃないか)

 つばの大きな純白のハットはこの夜とは不釣り合いに清らかで、銀色の月明かりに照らされて人魚の鱗のように妖艶にしなる漆黒の髪の輝きをその純白はより一層引き立て、腰まで届く長い髪は太古から深海に潜む活魚の尾鰭のように慎ましやかに揺らめいている。月光に照らされたこの女の影は細く洗礼された輪郭である。

 青年はこの女を懐古のなかに置き忘れてきた者のように思ったが、しかしどこの記憶をたどってもこの女が誰なのか皆目見当もつかぬ。知己の人物にこのような女性がいた記憶はないと思うが、さて。

「すみませんが、どなたでしょう」

 鋼の翼と見うる蝙蝠も、緩慢なる気流を孕めば軌道を失い風にじゃれる蝶々のように長らくぶらぶらとした。それを見て初対面のふたりはすでに倦怠期入りを果たしているのだと思い至った、少なくとも正樹だけは。

「――――――」

 返されるはずの言葉がない。無言は精神に擦過傷を与える力を持つに至り、核を貫く力はないとしても、暗澹たる迷宮に引き摺り込まれるように、分かっているのに半ば夢見心地で半ば怖気気味となっている。雑多に紡がれた糸のごとくの岐路に立たされた者は始めの一歩を踏み出すさいに、何を基準に行くべき道を選ぶのか。言葉の歩みは千鳥足とはかくあるべしの、着地すべき所が何処なのかも分からぬままで、さだめし定型文をしぼり出したように思う、溜まりに溜まった膿を吐き出す如くの言葉の吐瀉物であったばかりか、実に気分が悪くなってきた彼は吐き気を催し始めた。

「……なにか、御用でも?」

「――――――」

 言葉の吐瀉物を顔面に浴びたというに言葉は可視ではないためか女は何も答えず、淡々と微笑したまま風にさらされるばかりで、録画した映像を繰り返し再生するも同然の光景が、ただただ目に映り込む。この浮世に生まれ落ちて幾星霜、話しかけられても微笑を維持し続けるという奇異な態度なんど目にしたことのない青年である。奥歯を噛んで堪え、奥歯に溜まった疲労を現実と目前の未知の世界の懸け橋にして、

「あの。道に迷われたのでしたら、ご案内しますが」と言う。だが、茂みの木々が闇の中で揺れるからか、天に満ちた星々が瞬くからか、冷たい風に大地が身震いするからか、身も心も声もどことなく無力に思え、果たしてこの言葉がこの病んだ生花の耳元まで届いているのか疑わしい。

 しかし成果はすぐに見られたようで、女の典麗な口元がようやく再起動する。なのにどうしてか、脳と心のそれぞれの見解に、とある一点についての対立が生じる。

 脳は女の弓なりに歪んだ口もとの動きを笑みだと認識した。だが心はどうか? 笑んでいると目には見えても、その笑みはまるで……無表情。微笑を作りたもうたというよりか、にやけに歪んで、妖しく口元がつりあがったという表現が妥当であるように思われる。

「そういえば私のことはまだご存知なかったのですよね。でもそれは仕方のないこと。なにせ私がこの姿で貴方にお会いするのはこれが初めてなのですもの」

 無視した方が良かったと後悔してもしきれない。全てが遅すぎた。しくじった、と青年は思った。

 青年は心情を悟られぬよう精神に粉黛を塗布した。胸の鼓動を、いまさっき登った坂道のせいにした。

「この姿とは?」

「――――――」

 青年は退路を断たれたような心持ちになった。花で埋め潰されて、漆黒の顔を桜色で覆い隠す空が見える。

「どこかでお会いしたことがありましたか」

「いいえお会いしたことはありません。でも私はあなたの事をよく存じ上げております」

「会ったことがないのに……なぜ僕のことを」

 また問いかけると、

「そうですね……ならば驚いてしまうかもしれませんけれど、改めて自己紹介させていただきましょう」

 と言って、語り出す幽玄なる蝋細工。次は確かなる微笑を明眸に含んで。

「実は私はこの木に宿っていた精霊なのでございます。話せば長くなってしまうので割愛いたしますと、私はいままでは精霊としての力を十分ふるうことができず姿を見せることができなかったのですが、今年になってようやく初めて桜が満開になり、魂を形にできるようになったので、こうやってあなたにお目見えできたのです。ですから私はこの姿になるまえから長い間この庭からあなたの事を見守り続けてきたのです。ああ、私はずっと、あなたに……こうやってあなたに会いたかったのです、正樹」

(冗談…………)

 嗚呼、嘆息しようと現状は悪くなるばかりと分かっていても後悔は尽きず、面倒なものに巻き込まれてしまったとつくづく辟易した。頭も心も重くなって呼吸が浅い。思考に脳を使って呼吸を忘れがちになっていた。無意識からの酸欠との知らせが青年に深呼吸を促す、すると仄かに甘い女の香りが。思う、やはりこれは現実なのだろう。

「誰かに用事があるのでしたらどうぞお入りください。お帰りになられるのでしたら上着をお貸し致します。この夜にその装いでは冷えるでしょうから」

「ああ、待ち切れない。待ち切れないわ」

 まともな会話は無理と分かりながらも、こうまでなるとあばらまでが痛み出す。

「なにがでしょう」

「だって、春が――――」

 青年も、女がするように仰ぎ見て、上空の斑紋が回転しながら各々移り変わる姿で万華鏡を象るのが輪廻だとか魂の循環だとかを連想させるが、遠い未来に思いはせるより目前の拷問をどうにかしたいが、

「――――来るのですもの」

 この渦巻く奥処で舌舐めずりをしているのは、腹を空かせた蟻地獄であろう。

 金色に固く光る透明な膜に包まれたような心持ちになろうと試みたが、いかんせん不安は茫洋とした荒野の中でさえも跋扈し、膜の外は自分の世界ではないような気がしていた。内と外を結ぶ紐帯なしにはこの肺は酸素を失い身が滅びてしまいそうな。

 ごほんとひとつ空咳打って、軽佻浮薄を装った。それはしかし黄色い匂いやかな花々を敷き詰めた花籠に七色の重い輝きを甲冑に滲ませ項垂れる甲虫をそっと寝かせるような悲壮さに満ちていた。

「妹たちの友達ではなさそうなので、遊びにいらしたのではないように思いますが――何のご用事でしょう」

「残念ながら、事情があって申し上げることが出来ません。ですが近いうちにまたお会いできるでしょうから、その時に非常にじっくりとお話しさせて頂きます。今宵は差し当たって退散いたします。正樹、あなたとふたりきりで話せてよかった。正樹――それではよき日を。もう今日は終わってしまいそうだけれど」

 と女が先ほどから使う不自然な敬語で、秘密主義的な事柄を述べた。

 結局はこれである。金色の膜に守られたようなのだ。

 涼やかなる声を擁して、しめやかなる言葉付きで語る者は、その身のこなしまでもが妙なるものに相違無い、と思い込んでいたら、これが妙ちきりんで、己の常識を覆すのは、宛ら猪のようなという譬喩が連想される、それこそ獣のように地球を蹴り庭の砂塵をぼろぼろ撒き散らし、熊に育てられた美貌の女傑アタランテにも劣らぬ俊足で、門を破るよう抜けて樹林に紛れて庭から姿を消してしまったあの見知らぬ女であるからまさに真相は薮の中。

 遠目から女の脚を細くて弱々しいばかりの脚だと決めつけていた青年であったが、地を蹴る時の女の脹脛に琴線を走らせたような細かい切れ込みが編まれたように入っているのと、高くつき出した膝の皿の上の肉置きを認めて、その脚をとてもよく動く脚だと思った。両脚の躍動するさまはチベット高原に生息するヤクの剛健な四肢のイメージを脳裏に浮かび上がらせる。脚がそうなのであるから髪だって、闘牛の尻尾のように柔靭かもしれん、と勝手に妄想を膨らませて青年はわずか笑んだ。

 ひとつ吹いた強い風が消えた女の背中を追い、桃色の大河となり、轟々唸りながら門を抜けて町の方まで下りて行く。風に混じっていた残り香が肺に厭な蜜を落とす。いくら己の実体を精霊などと偽り虚言を撒き散らそうが、女が残していった生々しい人間の匂いはその体内を隆々と奔る紅い血の証明である。が、ただ一つ気にかるのは、あの女とはどこかで会ったことがあるような気がしていたということであった。

 誰だかは皆目見当もつかぬ妖しく不気味で不思議な女。未だに鼻腔では女の甘やかな余香が揺曳している。兎にも角にも青年は、あの女が再来した折には黙殺に徹するべしと固く胸に誓った。

 さて、視線を石段にへばりついた苔を舐めるように這わせていた青年は、とある蠢く物を発見したのだが、これが端的に物とは言い難い代物で。執拗に動いているこの物体は、胴体から切り離された蜥蜴の尻尾で、石段の苔の生えていぬ所で悶えるように暴れている、びょびょ、びょびょびょ、びょびょびょびょびょんと。

 濡れた蟇の指先で、ゾゾゾ、と背を愛撫されたような悪寒が体中に這い回り、この尾の千の束が胃の中で暴れているのを想像してしまい、否も応もなく眉根に力が籠ってしまう、嘔吐の予感に胃がざわつく。しかし目は呪われたように蜥蜴の尻尾の一点のみで凝り固まる。恐いもの見たさというものであろうか、青年がしばらく凝視していると、爬虫類も爬虫類らしく、ぬらぬらと暗く青光りした背と腹が幾度もでんぐり返る、それが水面に現れて日の光を弾く魚に見えて、進化に要した悠久のときの長さに思いを馳せさせるが、乾いているはずの鱗が月光に妖しく照らされているせいで粘性を帯びて見えるのがやはり陰鬱で不快な印象を与えるばかり。もしもこの尾を見続けた因でゲロゲロゲロと戻せば蛙で、蜥蜴と良い勝負ではあるが……いや、よそう。

 ただこのぬらぬらとした鱗の、のた打ち回るような不規則な蠢きには人を引き付けるものがあって、挙句には慣れが生じて、不快な気持ちは消え去っていた。

 本体から切り離された尾を見ながら青年はかく考えた。この尾は勝手に蠢いているが命あるものと言えるのか。切り離されたときがこの尾の死なのか、それとも動きの止まったときか、まさか始めから石なんどと同じような物として考えられ、生命の観念から外されているのではあるまいな、とか何とか、つらつらつらと考えて、そうしているうちにいつのまにか切れた尻尾が動きを止めたので、アア、肉になったのだと改めて思い正し、それから青年は幼き頃に祖母の亡骸に出会ったことを思い出していた。

 両親のどちらの母か覚えはないが、葬儀で眼にした祖母の亡骸のあからさまな死肉のようすが、生命ある人間の肉体より幾らも迫ってくるような現実味があった。

 当時の青年は血と魂の絆で繋がれた親類が亡くなったということを機械の電源が切れて機能が停止したといった類の無機質な認識でしか記憶していず、そのまま今に至っている。

 彼と祖母が顔を合わせたのは皮肉にもこの葬儀が初めてのことであったが、しかし祖母と青年とに面識が無かったということが彼に祖母の死の薄弱な感じを抱かせた理由だとは一概に断じられず、その理由の最たるは他者に対する興味の薄さという先天的な心の資質に起因されてしまうという考えを、蜥蜴の尻尾が力尽きてしまったところで思い出した。

 帰ろうとして足を上げると冷たい鉄の棒で背をじわじわと押しつけられているような感じを覚えた。冷気を含んだ視線が背後に纏わりつくのを感じる、と、石段の脇の葉叢との境にしゃんと座した猫がいる。灰色の和毛の、別々の血と血が混ざるところまで混ざってしまった感じのする雑種であったが、目つきは野良猫にありがちなぶっきらぼうなのではなく、真直ぐとしていて兵の如き気概を感じさせる。どこから来たのか誰も知らぬような風てんの根無し草のここいらではよく見かける類の猫で、こういった逞しいのがこのあたりに集っては、ここの住人に愛でられている。一匹として襤褸布のようなのはいず、皆それぞれ凛として逞しく野性味に溢れているのだが、それもこれもいつもの姿で、そもそもがここは深山幽谷の、猿もいれば鳥もいる、蟇も蜘蛛も蛭すらも、鹿、狗、猫、兎、なんでもござれの自然の城であり、往来を行く人のように獣たちと出会ってはたいてい草木を見るように気にも留めない青年らも、ここの獣たちとは何ら変わらぬ歴としたこの森陰に隠れ住まう異界のものたちなのである、が、さて、目前の猫はどうしたものか、とまた一考。

 青年の身に刺さる視線に逡巡の一切は感じられず、そればかりか独立した別の生物――蝸牛の体内に巣食って脳を操る寄生虫のように映えて、いったん射竦めればそれからはぎょろぎょろぎょろと蠢くこの瞳は敵の品定めでもしているのだろうと言ったところで、猫目石(Cat's Eye Chrysoberyl)には似ても似つかぬ、むせ返るほどの生々しき容貌で。だがまたしばらくすると猫の表情が変わったとか瞳の形が変わったとかたいしてどこが変化したとかいうことはないのに、一瞬のうちに猫の両の眼が肉食獣の目そのものに変わったことを直感した。自分と猫のあわいにとある決定的な関係性が形成されたように感じる。

 同じ目つきで見返し猫の炯眼と睨み合う。六秒経ち瞬きひとつする、とたったそれだけのことで彼はこの猫に対し持っていた興味を無くし階段を登り始めた。どのような心理作用が彼を満足へと導いたのか、互いの持つ尊厳を玩弄し貪り合い、尚も分かり合えたような、楽しかったような気さえ。互いに奪い合う間柄では、明確な優劣は成り立たずに、交わるならば破滅のみが訪れる、無駄に命を削りたくないという気持ちがあれば、手を引くという行為にも正当性が生まれる。

 去り際に舌を鳴らして猫を手招いてみたがこの灰色の猫は青年のその姿態を見つめたままで微動だにせず、彼が去るのを待っていた。門を潜る前に再び猫の方を振り返ったときに初めて、猫の右前脚に捕らえられたまま暴れている尻尾の取れた蜥蜴に気が付いた。この猫――妖艶なる待ち伏せ捕獲者――との邂逅は、未知なる宴を予期させる逢瀬のように思われた。

(それにしても目が衰えた。最近はめっきり虫を見つけにくくなってしまった)

 疲労と憂鬱が心中にて呟きとなる。

 庭で桜を眺めていると聞き覚えのある声が耳に飛び込んだ。

「久しぶりだな。旅はどうだった」

 声のする方に視線を配ると父親が縁側の柱にもたれかかり腰を下ろしているのが見えた。腕を組み胡坐をかいて右膝を立てているが、さて、いつからそうしていたのやら。

「良かった。島そのものが生きてるようでね」

「そうか、何か面白いものでも見つけたか」

「何か面白いものを見つける目的の旅ではないからただぶらぶらしていただけさ。

 しかし旅の感動なんて精霊のおかげで消し飛んでしまった。あれ、妖精だったかな」

「妖精……さてはお前、旅先で頭でも打ったのか、変な病気でももらったのか、それでなけりゃあ、怪しい団体に脳を洗われたのか」

「どれもハズレ。小説みたいに奇々怪々な出来事なんかそうそう起きてちゃたまらんよ」

「冗談々々。が、妖精がどうのってのはなんだ」

「さっきそこの桜の木の下に変な奴がいたんだ」

「こんな所に……おかしなやつだなぁ」

「おかしな女さ」

「詳細は」

「年は二十歳前後、自分の事を桜の木の精霊だとかなんとか言っていた」

「不思議な奴もいるもんだ」

 父が視線をとある一点に移すとつられて青年もその後を追った。時の流れから隔絶されているようにひっそりと佇む桜の木が目に留まるばかりで何もなく、視線のやりどころは固まってしまった。

「妖精か……もしや榧と見間違えたんじゃなかろうな。あいつはいつまでも若く容姿も愛らしい。妖精といっても過言じゃあない」

「親父は母さんのことが本当に好きなんだな。

 けれど、母さんの外見は常軌を逸して若いが、中身は見識に優れた人格者だ。俺が見た異常者とは住んでいる世界が違う」

「そうだろう、可愛いだろう。お前もあんな嫁を見つけるこった」

「俺は誰かが可愛いなんて一言も言ってないぞ」

「はてな」

 惚けた顔。少しだけ疲労にやつれているが未だ若い精気を蓄える男が、目を点にしている。作為的ではないような印象を受ける。

「それにしてもあの女は精霊というよりは妖怪のほうが合っている。上田秋成も吃驚の妖怪さ」

「だれが妖怪でい!」

 矢が放たれる一瞬の殺気の閃きを思わせて、父が憤慨した。

「あの女とは知り合いなのか?」

「いや知らん。ところで他に詳細は」

「……服は赤のワンピースで、つばの広い白のハットを被っていた。手足が細長く、身長はあけびより少々高め。だいたい百六拾五糎くらいだろう。短時間だったせいで情報はそのくらい。

 そういえばまた会うことになると言っていた」

「なんなんだろうなその子はよう」

「さあ、知りたくもない。あんなのと関わっても面倒なだけさ」

 あ、と思い出す。下らぬことではあったが、それでも泥にまみれた砂金のように何か重要なことのような気がした。

「彼女、話し方に少しばかり特徴があった。標準語のように話してはいたが恐らく彼女は地方の人間だ、それもこの辺の地域の。しかしこの辺りの地域で育ったとは思えない。彼女は標準語を真似し切れていないばかりか、レ、の発音は英語のエルが混じったような音で、それに加え、ウ、は唇を丸めて口の中にこもらせて発音する英語やフランス語に似ている。

 あと、ふ、の発音も気になった。普通、日本人が、ふ、の音を出すとき口は、う、を発音するときと同じ形をしているものだが、彼女の場合全てではないが度々英語の、F、のように前歯を下唇に近づけその振動音で、ふ、と発音していたんだ。これによって、ふ、ではなく、う、を濁らせたような音が生まれるわけだけれど彼女はそれを、ふ、の代わりに用いていた。さらに文法と語彙に少々翻訳じみたニュアンスがある。敬語の使用法にも不可解な点がある……意外と、彼女の第一言語は日本語ではなかったりして。そして気になるのは、彼女のような服装の人間はこの辺りでは珍しいということだ。ああいった派手な格好をしていればこの近辺どころか日本ではひどく浮いてしまう。だから……彼女は帰国子女なんじゃなかろうか。推測の域を出ない観察遊びだけれどね」

「分析としては突飛だが……まぁ、真相とお前の仮説を照らし合わせてみたいところだ」

「ハハ、冗談さ。ただの勘だよ。」

「そうか、ま、とりあえず家に上がれ。旅から帰ってきたばりかで疲れているだろう」

「そうだな……ああ……」

 あばらを刃物で貫かれたような痛みが走り、枠を切りとられたようにほつれて体の調和を失うが、そっ、と臍下丹田に力を込めて崩れかけた芯を立て直す。

「荷物を置いたならさっさと風呂に入ってしまえ」

「ああ」

「じゃ、俺は仕事に戻る」

 という父に、思い立ってひとつ声かけた。

「まさかとは思うが」振り向きざまに父、お、と何の気なしに呟いて、

「いや、なんでも」青年は警戒を取り止めた。それで、「牡丹に餌、やっただろうか?」と他愛無いことを一芝居。

 実のところ別の件を問うはずであったが、尋ねたとて父は嘘をつくだろうし、或はあの女は父の好みの女ではないと思って、聞く必要はないと自己完結。

「心配なんてしなくても餌ならうちのかわい子ちゃんたちがやっていたぞ」

「それなら良いんだが」

「これだけの人数だ。餌なんて誰かがやるのさ」

「それもそうだし、そもそもあれは餌くらいじゃ満足できないだろう、山で何か食ってるはずだ」

「そうだな。じゃあ、俺はもう行く」

 高咲柳、この父はその名の通りの揺れる柳の枝よろしくという態で、軸の入っていないような細い体を左右に揺らしながら青年に背を向けて歩き、屋敷の影にするりと消えた。

 夜風に煽られ擦れる叢樹の囁きは耳に床しく、桜の花びらが風から守られているように凪ぎの中舞い落ちるのは細雪かくあるべしの様で、見とれ、どれほど時が経ったかわかりもせぬ。没我の境地そのままに、奈落に堕ちるのを誰かが引き止めた。

「早く風呂に入れよー」

 夜の岩礁から海蛇が顔を覗かせるように濃い闇に父の顔がにょっきり生えた。闇が重くのしかかるこの家のなかでは相手の近くへ寄らなければなかなか声が届かぬようで、閑寂とした無音の廊は音の流れを鈍くした。それを分かってこの父は声を張って伝えるより踵を返して庭に戻って来たのである。

 この父は世間的には著名な物書きであるのだが息子や娘の目からはだらけた中年の不良のようにしか見えず、奇妙なことを訊ねたりしてはひとり唸りして書斎に消えるのが常だという。父の奇人さを語るうえで欠かせぬのはこの家で飼われている犬の存在で、牡丹という雅な名の飼い犬は散歩に連れて行けば通行人の注目を浴びること必定の木曽馬並みに体の大きな真白の尨毛の狐面の立ち耳の犬種のわからぬ温和しい忠犬であるが、この山で拾った子犬がいつしか雪原のように大きくなってしまったのが後の牡丹なのであるが、母は、自分が名を付けたこの愛犬はその体の大きさ故に前世で父を乗せていた愛馬なのかもしれぬと嘯くことがあり、父は本当にそうかもしれぬと言いながら牡丹に乗ってご満悦といった塩梅で、またこの父は少しばかり変わった気質の愛妻家であり子煩悩で未だに妻をちゃん付けで呼ぶこともしばしばあり、家では言葉使いこそ奔放であるも外では――外出そのものが稀有ではあるが――己の子を大げさに誉めているらしくつまりは親莫迦なのだとか。と言ってもそのような場を青年はかつて一度として目にしたことが無い故に真実と認められそうにないのであるが母が言うので不承不承、納得はする。いやいや考えてみればそういった場面を彼は幾度も見かけてきたのだったが、しかしそれが己の身には起こらなかったために心地よい記憶として色濃く刻まれていないのだった。

 高咲家の三人の子供、長男の正樹、長女のあけび、次女の柊のこれらのなかの長女のあけびに対してのみ父は掛け値無しに甘く、恰も彼女だけを偏愛しているような感じさえ抱かせるのだ。高咲家には規則なんどないようなもので父から口うるさく叱責を受けることなどということが過去にあったのかも判然とせぬほど極めて稀であるし、子供等も基本的に咎められるような悪事をするはずがないために平素では何も注意を受けることなどあるはずもないのであるが、希に他の家庭なら叱責を受けるような過失――例えば、柊が暴れたり、柊が暴れたり、柊が暴れたり――を犯した場合でもこの父に関しては和やかに興がるのみで咎めたりせず、裂帛の声を上げるなんぞは奇跡に等しく、喋れども冗談に始まり冗談に終わる。野蛮人では困るけれど個々を抑制しすぎるのは好ましいことではないということで青年としては父のそういった政策は悪いようには思ってはいないのだが、しかし、父はあけびが何をしてもひたすら誉め、感嘆の声は常套句であり彼女が何か良いことでもしようものならば目も当てられず賛称なんぞとは次元を異にする珍事が催されるために、そのせいかあけびは父の全てを諒解したような風体で、十六の歳になったというのに父の胡坐に座っていることが多々あったくらい。

 しかしそれもいまとなっては全て過去の事で、

(ああいった珍事が日常化したのはいつからだったろうか)

 と過去を懐かしむこともあるが、そもそも青年には妹たちが産まれたときの記憶がないばかりか母の御産に至るまでの経過が如何なるものであったかの思い出という思い出がなく、目に見える程度の経過ならば最低でもひとりにつき約半年間は母胎を膨らませたはずであるが、記憶の何処を探しても該当する場面が見当たらなかった。

 人間には思い出せぬ記憶があるがこれは忘れて思い出せないでいるのであり失っているわけではない。が、幼い頃に階段で転んだときに脳細胞から記憶を溢してしまったのだろうかと思うくらいに、妹たちは気が付いたらいつのまにかいた。と言っても人間の脳は不思議なもので昨日の晩に何を食べたのかを忘れているくせに去年の夏の夜空に見えた流星群に柊が長々とお願いしていたなんどというどうでも良いことを覚えていたりするので幼少期の記憶が断片的で多くの部分が欠如しているのも一応の納得はできる、ということで青年は深慮も飽きがきて思考停止し玄関に向かう、と傍から調子の外れた父の声が母を呼び、声の届き辛さなんぞという障壁はふたりのあいだではものともせぬほどの小事かと思われ、母が絡むと間の抜ける父の声に青年は溜息を洩らす。鈍重な溜息とともに自然と重い呟きも漏れてしまいそうな。

 すると非常に稀有なことが。

「本当ですか柳さん! 正樹が帰ってきているのですか? 何処に? どこですか! 正樹!」

 平常の調子とは異なり久方ぶりに耳にした母の声は悲壮感を含ませ耳を貫いた。青年の思う母は夕凪の草原を漂う蜻蛉のように優雅な人間であり、涼やかなる笑みを保ち涼やかなる声で話す、青年の魂が最も落ち着く声で。

「正樹! 嗚呼、私の! 私の正樹!」

 名は高咲榧という、月を愛でることを好む能書家である。庭に佇立する息子の姿を見ると迷子のような顔に弾けるように花が咲いた。この母は青年期たけなわの息子のいる年齢に適わぬ容姿をしていた。小柄で、幼さと若さの微妙な均衡のもとに佇むこの母は、中学生の柊と歩いていても親子とは思われず、柊の友達からどこのクラスの子かと問われたと聞く。驚くべきはその若さのみではなくその麗しさたるや清浄さと処女性の美点を一点に集めた聖母のごとくであり、いつのまにか三日月型に形を変える大きな目のなかには百合の花のような肌の白さのために余計に黒く映える射干玉の大きな瞳が溢れるほどの優しさをたたえていて、その心性の敏感さゆえか瞳はよく濡れているようだった。つつましくやわらかにくびれた腰まわりでは冬の夜の小河のように深緑を塗り重ねあげた長髪がゆらゆらとして、その面差しと身なりの神聖さはまこと天上の飛天霊を思わせた。なだらかな眉は彼女の慈悲深さを表し、ちょんと慎ましげについた玩具のような鼻は砂糖菓子、極端に小さな口はぽってりとして瑞々しい淡紅色に彩られ、その内部には真珠かと見紛うような可愛らしい乳歯のような小粒の歯が行儀良く並んでいるのである。かつて母の子供時代の写真を見た青年はその異常なほどの変化のなさに「く、くりそつやないか……」と洩らしたもの。

 似ているも何も本人なのだが。

「ただいま。どうしたの。そんなに声を上げて」

「ずっとずっと待っていました。心配で仕方ありませんでした。でもようやく、ようやく帰ってきてくれたのですね」

 哀歓入り乱れる言葉を皮切りに矮躯が胸に埋まり、溶けるように身を任せる愛玩動物のような母の、驚くほど小さな頭蓋がさざ波を湛えているのが視認できるが、例え彼が盲目であろうと母の震えは身を通してわかってしまい、うろたえの不思議さに動揺してしまい目を白黒させるばかり。

「そんなに心配することない。いつもちゃんと帰ってくるじゃないか」

 かぼそい両腕が胴周りを鍵かけるようきつく抱きしめるから動揺に拍車がかかる。

「旅は、どうでしたか」

 肩に手置いて、虚弱かと思うほど華奢な体躯を身から離し、優しく、

「良かった。良い旅だった。長くなるから後で話そう」

 聞いて安心したのか、母は胸に手を重ねて小さくため息をついた。胎内の不安と緊張を吐き出したものと思われ、緊張に硬く閉じていた華奢な肩は心身の弛緩に伴い緩やかに降りた。

「そうですか、よかった。とても楽しみです。旅のお話、後で聞かせてくださいね」

「たいしたことじゃないけどお楽しみに」

 母は笑む。

「はぁい。私は夕御飯の準備に行きますからお風呂に入っていらっしゃい。それじゃあね」 

 ふたつの視線が睦み交差が絶えてしまうのが惜しくてたまらないが柔らかく手を振った。

「柳さんどこですかぁ」

 小さく叫び子供のような小さな足で踵を返しぺたぺたと廊下を駆けて行った母の背を、廊下の先の暗がりまで見送って、視線ごと思考を切り離す。疲労が溜まっているせいか、あばら骨が痛み軋むせいか、この場を動く気になれず、縁側に腰掛けしばらく桜を見ることにした。

 すると声が。

「おい」

 振り返ると、高咲柳がそこにいた。ざっくりとした短髪の、文士の格好なぞするかといった風情の、清爽な白シャツと細長のジーンズの。

「そういえば、常々おまえとは会話が少ないと思っていた」

 再び現れてとつぜん何を言い出すか。

「突然、何を」

 先刻まで話していたというのに。

「会話をしようぜ」

「なんなんだ」

「お前に話しておくべき大事なことがあるのさ」

「なんだよかしこまって」

「エロビデオを買うときパッケージを見て選ぶよな」

「話しておくべきことってエロビデオのことかよ」

「だが実際に買って動画を見てみるとパッケージよりもチョイブサなことが多い」

「はあ――」

「それを詐欺だと思う奴は多い。わからんではない。実際に、見栄えがいいように加工しているのだからな。だが俺は別にそれでも良いと思っている。パッケージの見栄えをよくするなんて売り手の心理を読めば当然のことだ。しかし買った方はパッケージと動画の違いを見て落胆する。だったらパッケージだけ見て楽しめと思ったりもする。だがやはりそれでは虚しい。だから俺はパッケージでも楽しみ動画でも楽しむのが正しい作法だと思っている。

 だが……そういうのは、パッケージを編集する人が疲れるし、会社自体も、それに被写体もバッシングを受けやすくなる……」

「器がでかすぎて意味が何もすくえない」

「ご教示ありがとうございました」

 銀鈴の音が庭の中空へ吹き込んだものかと思われたが、妙音の正体は母の声帯を介して放たれた言霊だと言うことが知れた。雲の立ち込めた朧月夜に映える七竈の実のごとく母が暗闇を背景にして、縁側に紅く硬く引き締まって、なっていたのである。濃墨含ませ鞣したような深緑畳なわる髪は風の奔流に散っている。鬱然とした茂みから鼻先ちらつかせた子兎もかくあるかの母が、乱れた髪を手で割って顔を覗かせている。

「榧ちゃんいつからいたの」と父が道化る。

「いま来たばかりですよ。ふふふ」と赤子の小指に紅つけてちょんと撫でたような唇が美妙な形に撓う。あえかにひき結ばれた唇の細密画を見るようなこの世のものとは思えぬ精巧さに青年はいくらか瞠目したけれども、造花めいた狷介の一切を感じられぬ唇は温かな情味だけを受け取った花弁のようにほころんだ。

「言いたかったことはそれだけだ。俺は再び仕事に戻るとする」などと言いつつ、二、三会話した後、踵を返して書斎に戻る父であった。

「エッチなビデオのお話をしてたです?」母が言う。追究を予感させるわけでもなし、咎め立てを連想させる語気でもなし、楽しそうに自然な会話を期待させるもの言いに青年は胸を撫で下ろす。

「まあ、そんなところかな」

「でもね、実は柳さんはああいったグッズ、もってなくってよ」

「何で知っているのとは言わない。主婦だからね」

 優れた主婦は、名探偵であり医者であり商人であり外交官でありシェフであり会計士であり忍者であり心理学者でもあるのだから。

(だがこの様子からだと秘密はばれていなそうだ)

「うふふふ」

「風呂に入らせてもらうとするよ。ちょっと疲れているんだ」

 近年、睡眠時間は十分にとっているはずなのに眠く、寝ても疲れが取れていない。

「お風呂に入って、それからご飯にしましょうね」

 久方ぶりに家に上がり自分の部屋に辿りつきドアを開け部屋に入ると畳の匂いに圧されたが、しかし不快ではなく寧ろ好きだった。蛍光灯を点けずにカーテンを開けて月の光を出迎える。月の光が銀の砂のような粒子だったらと夢想するも、夢見る資質なんぞ己には欠失していると自嘲的な苦笑を試みる。

 が、口元の筋肉の働きがどうも泥む。香りと静けさに親しみながら椅子に座して読書でもと思ったが、やはり旅でかいた汗は不快であったし腹も減っていたので机の引き出しにカメラを仕舞って風呂に行くことにした。が、しかしあるものが月光に照らされて煌めいたのが見えて、そんなものいつもなら気にも留めずにおくのだけれどなぜだかとても気になって気になって仕方がなく、蛍光灯のスイッチ入れて、カーテン閉めて、改めて月光を反射したものを探す。机上の光線。

 机上には読みかけの本と目覚まし時計と母から貰ったお守りが点在している。もちろん彼が置いたものたちであるが本の向きがわずか旅に出る以前と異なり五度ほどよけい右に傾いていることに気がついた。

 本を手に取ると懐かしい重さと大きさと形が手に馴染む。続きを読みだそうかと思いもしたがすでに幾度も繰り返し読んだことのあるものだし今はそれどころではない、視線を外して思考を探索に回すと、すると意外簡単に探し物は見つかった。本を机上に戻そうとした玉響に裏表紙に付着していたものが落ちたのだった。

「君が犯人か」

 摘まんで目線の高さに引き上げまじまじとうかがう。見つけた場所は本が置かれていた所なのだが机上に落ちて本の下敷きになりその間に挟まっていたのが半分くらい顔を出していたのが月光に反射して青年の目に映ったのが、あの光の正体のようで不思議なことにないはずのものがここにある、長さにして一尺の赤の雑じった天然の焦げ茶色をした兎の毛のように柔らかな少女の毛髪が。

(ここに入ったのか)

 逡巡の一切なく思考を巡らせこうなった経緯を推測する青年だがヒントもなにもヒントが答えのようなもので解を導き出すのは造作なく、これを落とした人間は本に関心のある、肩に付くか付かぬくらいの長さの栗色の無造作な頭髪の少女の、我が妹の高咲あけびである。

(あいつくらいなら別にかまいやしない。が、あまり部屋には入ってほしくないものだ)

 何せ少しばかり見つけてほしくないものがあって。警戒のレベルは安全の青だったものの身に刻まれた習慣として部屋を点検し始めた青年は、旅に出る前に鞣すように毛並みを揃えておいたカーペットに自分の足裏で付けたものではない窪みを見つけ、医者が診察する時でさえここまではしないのではないかというほど顔を近づけて診察した。思った通りに窪みの正体はあけびの足跡であることを判定すると他にも彼女の服の緑色の繊維を見つけた。緑色の服を着るのはこの家では彼女しかいないからだった。しかしこれらは然したる問題ではなく、机上で見つかった彼女の髪の毛を思えばこれらの証拠は当然の産物であった。

 では襖はどうだろう。襖に針で穴あけて詰めておいたシャープペンシルの芯が折れて落ちているのが誰かがここを開けたことを示唆し、警戒のレベルを黄信号に上げる。奥に隠している段ボールを点検する。ここでも茶髪と緑の糸屑とが見つかる。

(あいつはいったい何を?)

 暗色が去来したのは一瞬で、すぐにくすと笑いが零れる。

(これを見つけたのなら、度肝抜かしただろう)

 悪性の稚気が口の端で戯れあう。彼女にばれたとて構いやしないばかりかいつものように思うのだ、隠しカメラでも置いていればさぞ面白いものが見られただろう、と。あの妹が自分の部屋に入るのは稀であったが、犯人がわかった所でこの件の詮索は終了した。彼女くらいの人間が入ったとて怖じけることはないと彼は大して気にしなかった。

 部屋に荷物を置き終わり脱衣所でさっと脱いで風呂場のドアを開けると湯煙で目の前が見えず、窓を開け放って、蔦を伸ばす蔓草の如く壁を這う湯煙の後を眼で追いながらしばらくぼうっと佇んで、ざっと肩から熱い湯を流し、弧を描く動きで四肢の末端から泡で汚れを祓い、湯に浸かって疲れを溶かす。冷たい外気に触れた湯気は色を濃くして竜のように天へ上った。いつもなら湯には長く浸かっていられるが今日はわりと早く芯まで温まり、のぼせるより前に湯をあがった。外気は硬く冷えているのに体が赤く火照っているせいか肌の水気を拭っても熱さは拭えぬ、とぼんやりとしたまま諦めてじっとしていると替えの下着が無いことに気がついた。人を呼んで着替えを取ってくるよう頼もうと思いはするも声は影に溶けて耳まで届かぬ、ならば腰に布でも巻いて部屋まで行って着替えればよかろうとの考えもあろうが半分上せ頭の青年は、脱衣所に布を打ち捨てそのままの姿で湯気の如くゆらりと廊下へ立ち入った。

 古来この国では建造物の暗がりには精霊が住み着いていると言い慣わされ、この家も伝統的な日本家屋の類に漏れず、ややもすれば小鬼めらのひそめき声なんぞくらいならば聞こえてきそうな気もするも、廊下の遠くから聞こえてきたのは小鬼のひそめき声どころか慌ただしげな足音であった。明かりのついた風呂場の周辺ばかりが明るいだけの暗い廊下の遠くからばたばたとした足音が近づいているのがわずかな床板の振動からも分かり、耳にうるさくなるまでに高まると、この家に住まう小鬼の顔が露わになった。小鬼は長らくこの家に住み着いたせいでいかに廊下が暗かろうと速く走っていようと危なげなく角を曲がってみせ兄を見つけ、

「あ、お兄ちゃん。帰って来てたの。お帰り」と笑みで迎えて走り去った。

 高咲家の次女、高咲柊。小鬼である。

「ああ、ひさしぶり」と声を返すも聞いているのかいないのか、お帰り、と投げはなった後もそのままの速さで走って行ったから、その後姿を見て呟いた、「寒がりだなあ……」の言葉も妹には届かずじまいだった。

 冬に生まれたせいでその季節に身を貫いた世界の冷たさが肌の奥に残っているからかこの妹は常に長袖を着て過ごしていた。中学三年生という青春の只中の、自己の有り方に迷走するが故に他者の目を盲目的に気にし過ぎる時期にあるこの次女は性を意識するには十分な年頃であるが、兄とはいえ男の裸に示す反応も皆無とは、我が妹が兄を見ながら男の生理に慣れているが故か、それとも性に奔放なこの悲しき時代の推移の故か……もしも後者であるならば妹にとっては如何なる毒消しが試されよう、と黙然としながら巡らしていると、泥のようにぬめりとした暗闇が音を伝わりにくいものにするのに、そのはずなのに、あの次女が走り去った向こうから爆ぜるような音が届いた。

 自室のノブに手かけた青年が聞いたのは、どら猫を踏み潰したような悲鳴であったが、遠方から聞こえてきたので、この家のなかでこの音量ならば音源ではいかほどのものか、地鳴りのようであろう、ギリシア神話の嘆きの川コーキュートスにて氷漬けと化す裏切り者の慟哭のようであろう、と青年は思い、思っていると腹が鳴った。兄の裸を見たことに後々気付いた小鬼の悲鳴なんど気にはせず、そそくさと着替えて部屋を出る、すると居間までの道のりで、遠方に線を成した光が見えるのが、常の様子とは違っている。

 ――――こっち、こっちよ――――。

 不穏な声まで木魂するかのようで、

 ――――さあ――――。

 灯取蟲よろしく雪崩れるように赴いた。

 ――――おいで、おいで――――。

 と、脳裡にたゆたう音が妖しげで、己が鼓膜を震わせたのではなく弦を弾くようにして、神経というか脳髄に直にうったえたような気もするが、明確な意識にのぼらずに掌に落ちゆく雪花のように溶けて散る。曖昧ながらも声のしたであろう方に歩んでいくと矩形に切りとられた硬い闇が足元に転がっている。夜闇に埋もれて姿形は満足に見えぬが、足元にあるのは堆く積まれた書籍の山であった。父の書斎の傍には部屋に入りきらぬ書籍が積まれており、積載量の最たるところでは最遠の、青年の佇む場所をはじめとして、父の部屋までこの本の山脈は続いている。膝の高さに始まり人の背の高さに終わる本の山脈の、最果てはさながら活字中毒者の住まう根城、読書廃人の館らしい書斎で。

 要塞の防壁の如き重厚な扉がこのときばかりは珍しく開いており、僅かばかりの光が漏れている。濃縮された光の線が廊の木目の並びに撞着した線を作って闇を切りとり、空中を照らす絹のような光りの帯の中を塵芥が漂い煌めく。光りの当て方によって見えぬものが突如として存在を露わにすることがあるが、この宙に漂う塵屑がまさにその類であったというもの。

 扉の向こうで原稿用紙を睨み付けながら静かに鏤刻する、その父の横顔は日中家族に見せる表の顔とは別人の、まめまめしく働く人間の顔であり、多面的な人間の質を浮き彫りにしている。その姿を息をひそめ見ていると、生暖かいものが首筋に触れた。

 振り向くと何もおらず、振り向いたせいで起こした衣擦れの音を聞いた父がこちらを振り向いて、

「誰かいるのか?」と問いかけるが、青年は影に滑り入るように父の視界から避けて、難というほどではないものの、厄介な問いから逃れていた。

 首に触れた温かなものはなんであったろうかと詮索すれば、次は何かが足に触れる、足元で何やらごそごそと蠢く。

「なんだ、猫か」と父が言うのに対して、「なんにもいないの」と足元から調子はずれな猫撫で声が。下方、声のする所を見ると、青年の首筋と足元に悪戯しながら尚且つふざけた猫なで声まで鳴らした犯人が、まこと猫の如くゴロゴロと床に背を付けて転がっているではないか。姿を見つけたのは遅れたが、首筋に少女の息が触れる前々から青年はこの少女の息吹を感じとり、放置していた。幼い娘から発される悲劇とは無縁のような日向の香りと、あと少しの狡猾さを秘めた悪戯好きな視線と肌を揺らす好奇心の塊を。で、これが常のことであったから、青年は今日も早々と高咲家の長女であるあけびの姿を足元に見出していた。芋虫のように転びつ、右手で腹、左手で口を押えてこみ上げる笑いを必死で抑えるこの妹こそが首筋に生温かい息を吹きかけて怪奇的な現象を装い青年に悪戯を仕掛けた張本人である。

 先刻青年が父と言葉を交わしていたのはまこと珍奇なることで互いに一月もまともに言葉を交わさぬことくらいざらにあるが、しかしこの妹と父の間は円滑のようで、なかなか皆が寄り付こうとしないこの父の書斎にこの妹だけは飄々と現れて語らうという。間接的に耳にしたので確証を得ぬが、話の中身は本に纏わることに過ぎぬらしいと、青年が知っているのはそのくらいで。

「久しぶりに見ても変わらないね、あけびは」

「お兄ちゃん何してるの。お父さんのお仕事の邪魔しちゃらめよ?」 

 童謡でも唄うようにのほほんとした口調で話すこの妹は洋の東西を問わぬ甘いもの好きでいつもお菓子のような甘い匂いがしていた。彼女の存在を把握するには視覚も聴覚も肌の感覚も要らず嗅覚のみで事足りた。

「お前は、何しにこんな奥まで」

 意図的にか、戯画的とも思えるほどに大袈裟に含羞しながらこの妹はその訳を言う、その静かな眉の面には鄙びた可愛らしさがある。

「お父さんとご本の話をしたいな、と思ってたの」

 それこそ仕事の邪魔ではないかと言うより前に、この女童は青年の背中をゆるりと押して父の書斎の前まで促し、青年を盾に背後に隠れ、爪先立ちで背伸びして、青年の右肩に凭れ掛るように顎を乗せ、旋毛を外に傾けて、青年の肩越しに扉の隙間から書斎のなかを覗き見た。

 単なる戯れ合いではないような奇妙さを感じた青年は妹のほうに目を向けたが、視界を埋めるのは妹の柔らかな顎の線と頬と目と、さらには前髪の、日本刀に模した髪留めが目を引くばかり。

 平素同じ屋根の下で共に暮らしていながらもこのように互いの体が密着したのは記憶に遠く、鼻先を撫でる彼女の首筋から沸き立つ若葉の香りがまるで他人のように思われる。又、妹のものと思わなければ、幼い食虫植物のような危険性を帯び始めた甘美な香気にも思われて、どうも他人行儀な心持になりそうだった。

 それを承知してかおらずか青年は、肩に乗る頭蓋の軽さを感じながらとあることを思いだし、「あけび、僕がいない間に部屋に入ったかい」と何の気なしに尋ねるのだった。対する妹は「あぁ……うん。じつは、はいっちゃったんだ。えへへへへ」と驚きの一色、困惑の一色、快活の一色の、でも澱みない笑い声と、続け様の含羞。

「旅に行ったこと忘れていたのか」

「いやいや」と夢見るようにゆらゆらとかぶりを振る。無造作な天然の茶髪が遠心力に負けて散ったのが、寝起きの子猫のように無邪気な小動物めいたものだった。

「それはですね、あのですね」と言い、小さな頭蓋の狭い後頭部を掻き掻きする妹に対して、そのように狭い後頭部のどこが痒くなるのかと問いたいが、適当な問いでもないかと流した青年は自己完結で、思いを巡らせていた玉響に長女あけびは、「ごめんね」と言って、舌先をちろりと出して、「お兄ちゃんのCD、勝手に借りちゃったのだ」と告げた。

「そんなことなら別に良い」

「ありがとう、聞いたらすぐにかえすから」

 と語尾を待たずしてとあることに気がついたから、恋人に愛撫するためでなく幼い己が娘に靴下を履かせるような父性的な義務感を持って、おい、と声かけて妹の側頭部に手を伸ばし、弱いものを壊さぬようにそっと撫でた。二つしか齢の違わぬこの妹だが、彼には十も年の離れた幼子のような気がしていた。彼女は神経症的な青年の張詰めた心を緩和させる穏やかな風体の持ち主であった。彼女は人工の瑪瑙のようだった。

「え、なに……?」

 警戒か緊張か、上空を飛翔する猛禽類をその目に捉えた二十日鼠のようにあけびは体を硬直させるが、しかしそれには構わず、「寝癖」と軽く指摘して、ささくれのように跳ねていた髪の束を宥める青年である。

「なんだぁ、あはは、うっかりうっかり」

「衣服の乱れは心の乱れと言うが、その寝癖も同じ事。あけびは怠惰も個性になりつつあるね。もう少しちゃんとしなさい」とは言うものの、そんなだらしなさも可愛さと相俟って、こちらを朗らかにさせるものではある。

「ありがたき御言葉頂戴致し、恐縮至極にございます」

「誉めてない」

「ぼへえ」

 喜劇的に吐息を漏らしながら、あけびは小さな穴の開いた風船のように萎んだ。この妹は母の几帳面さをあまりにも引き継いでいなかった。蝶からミノムシが産まれたような異端児でありボヘミアンの極みである。

「次からはちゃんと断ってから入ることにする」と言いながら波斯猫のように笑んだが、この妹には似合わぬ笑い方である、と彼は思った。

「もう言うことは無い」と会話を断ち切ろうとすると妹も「あいあいさ」と舌足らずに返したが、しかし去り際にくるりと兄に振り向いて、思い出したように問いかけた。

「そういえば、あのね。とつぜんだけど」と眉を撓らせ困ったように笑いながら、何のことかと尋ねる青年の声を待たずして素朴な問いを投げかける。

「友達に恋人ができたとたんに性格が変わっちゃって、自分が自分じゃないみたいって言うの。お兄ちゃんにもそんなことってあるかな」

 人称を友人にすり替えて自分の問題解決の応えを受け取ろうとするのは気の弱い人間のすることであり阿保の妹には珍しいことだが、深刻な悩みごとかもしれぬと読んだ青年は、

「そんなこと僕にもある。寝起きが悪いときは夢と現実の区別がつかずに度々自分が自分ではないような気持ちになるしね」

「そういうことじゃなくって」

「寝起きじゃなくても自分が自分じゃなく思えたりすることもたまにある。が、そんなことお前を含め皆も経験することだろう。珍しいことじゃない。そもそも自分らしさなんてものは」と続けようとして、突然面倒になり、

「蓑虫は自分が蛾になることを知っているだろうか。蝶になれると思い続けた蓑虫は自分が蛾になったときにどう思うのだろう。虫は不思議だ。蝶は蝶で、蝶であることを隠し続けて樹皮に擬態したりするんだ」と冗談じみた言い方でわけのわからぬことを言って話を逸らせると、妹はもちろん解せぬ様子で首を傾いだ。このような時や話を聞くときに傾ぐ首は彼女の愛らしさに拍車をかけた。母の癖とは形こそ同じものであるが内包する心理要素は正反対の母性溢れる母の仕草に対してこちらは稚気そのものの。

 後は一言二言かわしてどちらともなくその場を去ったがこの妹はとうとう書斎には入らなかった。

 居間に着くと青年の興味は一点に絞られた。青年の裸を目にして奇声を上げた次女の柊が蝋を塗ったような目をしてテレビの砂嵐に焦点を固まらせたままに放心している。

「さっきは悪かった。ああするしか方法が無かったんだ」

 蝋の膜を張った瞳が横顔からちらりと覗かれる。大粒の虹彩に仄かに波が立ち、視線を此方に移す。虹彩の掠れ方は恰も窓越しの濃霧立ち籠める深い森か、それとも神の杯がとくとくと零した濁り酒か。

 柊はひとつ年齢に不相応な溜息を故意について、

「ええ、わかっているわお兄さま。人は皆もともと裸のまま生まれたのですから、だからお兄さまのあの姿は人間の原点なる最も自然なお姿。何もおかしなことではございません。それに、私思うんです。男がいて女がいる。お兄さまも私も男と女なのですから、こういうことが起こってしまうのも極めて自然なこと……」と、このようなことを言われて耐えられる青年ではなく、「気持ちわる」とぶちまけると、がらがらと音が鳴るように少女は瓦解した。

 我に返った次女はべそを掻きながら母のいる隣の台所に逃げ込んだ。母の背中にしがみ付き瞳を潤ませて膝頭を小刻みに震わせながら怨敵を見るような目で母越しに青年を見ている。唯でさえ背の低い妹がさらに背の低い母の腰にしがみ付いてえんえん嘘泣きしているのは可愛さ余らず憎たらしいばかり。

「あら、ふたりともどうしたのです」

「お兄ちゃん基この変態が、権力を振りかざした一方的なセクシュアルハラスメントを強行してきたの」

「柊、それでは相手の思うつぼよ。そういう人はこっちが騒いだりするほど喜んで、もっとやる気を出してしまうのですから」

(諭すところ違う、ようで的確だ)

「着替えが無かったから仕方がなかったんだ。許してくれ」

 とは言ってみたのだが柊がどう反応するか気になったので、とりあえず青年は威風堂々、自身の下半身を下着の戒めから解放し、見せつけた。

 耳を刺す叫び声と首ごと薙ぐような平手打ちが共にこの妹から飛び出したために、

(サウスポーだったのを……忘れていた……)

 裸になった下半身ばかりか脳髄まで涼しくなり、ぐらりと歪み暗くなる視界のなか、目に涙を溜めて自室の方角へと駆け行く妹の姿を見てそれっきり。


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