38 残される諦観
「なんてことなの……」
シイナは茫然と
マナとユウがついさっきまでいた空間を凝視していた。
「行かせてやれ。
マナはもう、一人の人間として生きはじめたんだ。
僕等には止められない――」
静かなフジオミの言葉に、シイナは鋭い視線を向けた。
「何を言ってるの、気でも狂ったの!?
マナは唯一の女性なのよ、
彼女だけが人類を滅亡から救えるのに!!」
シイナはフジオミの腕を払い除け、
立ち上がろうとする。
フジオミがもう一度腕を掴み、引き止める。
「どうする気だ」
「決まってるわ。追うのよ!!」
「やめろ!! まだわからないのか、君には」
「あの子は外の世界でなんて生きられないわ!!
ここが、こここそが唯一私達の生きられる場所なのよ。
ここを離れて、どうやって生きていけるって言うの、
あの何もない地で」
青ざめて、
いつもの平静さをなくしているシイナを、
フジオミは憐れむように見つめていた。
「そう、僕等はここからどこへも行けない。
ここでしか、生きられない。
だが、どこにも行けないのは僕等だけだ。
マナは行ける。
全て捨てて、
新たなものに立ち向かえる強さを、
彼女は持っている」
「信じられない。
あなたもマナも、ユウに何かされたの!?
義務を放棄するなんて、
なんて恐ろしいことを――」
「どうして、そうまで未来にこだわるんだ。
もういいんだよ。
カタオカだってあきらめた。
僕も、マナも望んでない。
君も手放してくれ。
今現在のこの瞬間にしか、存在しない。
老いて死ねば何も残らない。
その時間を大切に生きてほしいんだ。
君が君のために生きていい時が来たんだよ」
「――何を言ってるの、あなたは」
シイナの声は震えていた。
理解してしまえば、
自分が壊れると本能で知っている。
だからこそ、
理解しないふりをする。
聞こえないふりをする。
それだけが、
彼女の心を守る最後の手段だった。
それなのに。
「わからないふりをするのはよせ。
君だってとっくにわかっていたんだ。
ただ、気づかないふりをしていたいだけだ。
自分を守るためだけに」
静かな、けれど厳しい言葉に、
シイナは反論できない。
青ざめたまま、じっと彼を見つめている。
何を言われたのかさえ、
理解できていないかのように。
フジオミはそんなシイナの頬にそっと触れた。
「君を愛してる」
竦んだ身体が、
自分の言葉を受けとめたことをフジオミは知った。
「――やめて」
恐ろしい言葉を聞いたように、
シイナは怯えていた。
腕を押さえられて、
動けないまま、
それでも彼女は頑なにフジオミを拒絶する。
「君を愛してる。
ずっと愛してきた。
君が望むのなら、
マナを選んでもいいと思うほど、
ずっと愛してきたんだ」
「やめて、聞きたくないっ!!」
耳を塞ごうと身じろぐ彼女の腕を捕らえて引き寄せる。
「聞くんだ。
この世界には
人間の力ではどうしようもないことが
確かに存在する。
滅びは平等に訪れる。
誰の上にも。
人類が長い歴史の中で何をしてきたか考えてみるといい。
我々は過去にどれほどの種を絶滅に追いやり、
自然を破壊し、
大地を穢してきたか。
そして今、大きな目に見えない力が人類を滅ぼす。
これこそが運命だ。
いくら足掻いても変えられない。
人類が誕生したときから、
決められていたことだ。
僕らは滅びる運命だった」
「そんなの嘘よ!」
フジオミの言葉に、
シイナは今、全身全霊で抗っていた。
認められない。
認められるわけがない。
フジオミの言葉が真実なら、
自分達は――自分がこれまでしてきたことは。
「じゃあ、私達の意味は!?
今、私達のしていることは、
生きていることは無駄なことなの!?
意味がないの!?
滅びが初めから決められていることなら、
どうしてここにいるの、
どうして生まれてきたの――
意味もないのに、
どうして生きなければいけないのよ!!」
フジオミは強く、シイナを抱きしめた。
シイナは、激しく抗った。
フジオミから逃れようと子供のように暴れる。
そんな彼女が、フジオミには愛しかった。
だから、強く強く抱きしめた。
逃れようとするシイナを決して逃がさないように。
「触らないで!
私からすべて奪っておいて、
まだ足りないっていうの!
私にはマナしかいなかったのに、
あの子だけが、
未来に残せる最後の希望だったのに。
それなのに……!」
「マナも苦しんだんだ。
本当だ。
義務と愛情のどちらも選べずに、
彼女は泣いていたよ。
ユウを愛するのと同じくらい、
彼女は君を愛していたから。
マナは確かに、僕等の希望だった。
だが、それも決して永遠に続くことはないだろう。
命ある者がいつか死を迎えるように、
人類にも終わりが必ずある。
僕等は最後のあがきを繰り返しているんだ。
死を恐れる老人のように――」
シイナはようやくフジオミから距離をとった。
だが、それはフジオミが力を抜いたからだということも
わかっていた。
結局、自分の無力さを思い知らされただけだ。
愛――?
そんな見えもしない、
必要でもない感情で、
マナは自分を捨てたのか。
あんなに大事に育てたのに。
あの子なら、全ての義務を果たせた。
あの子なら、最後の希望となれたのに。
深い絶望が
彼女から全ての感情を奪ったかのように
からっぽだった。
「……そうよ、恐かったのよ。
もうすぐ私達は死ぬの。
何も残せずに、ただ死ぬの。
それだけのことが、
どうしようもなく恐ろしかった。
何も残せず死ぬだけなら、どうして生きているの。
意味がないのなら、どうして生まれたの。
あなたはいいわ。
未来を残せる。
その能力がある。
あなたには、意味がある。
私はどう?
女として生まれたのに、
未来に何も残せない私に、意味はない。
私に確かなものは何もない。
それがどんなに虚しく、恐ろしく、孤独なものかは
あなたには絶対にわからない。
私は意味が欲しかった。
今、ここにいる意味が、
無条件に生きることを許されるための
意味が、欲しかった――」
「意味なら、ある」
フジオミの手が、シイナの頬に触れる。
「君は、僕のために生まれてきてくれた。
僕が愛するために。
君が必要だよ、シイナ。
君には、意味がある――意味がある。
僕が君を、愛しているから」
「――」
「僕もやっと気づいたんだ。
今この瞬間に存在している
君を愛してる。
例え何も残らなくても、
君以外、僕はいらない。
愛してくれと強要したりしない。
君がいやなら、もう抱かない。
僕が今まで君を苦しめてきた分の
償いをするから。
ただ、
僕が君を愛し続けることは
許してほしい。
そしていつか、
僕の愛が本当だったと、
認めてほしい。
それだけで、いいから」
ほしいと言いながら、
その声には、求める響きがなかった。
愛し返してほしいという願いも、期待もない。
ただ、そこに在る事実を静かに置くような、
深い湖の底のような静けさだけがあった。
シイナには、その静けさが恐ろしかった。
自分の世界を脅かすのは、
怒りでも哀しみでもなく、
こんなにも揺るがない
信念なのだと気づいてしまうから。
シイナの瞳は虚ろなまま
唇だけが冷たい笑みを刻む。
「――私は誰も、何も愛さない。
あなたを愛したこともないし、
これからも、
愛するつもりはない。
愛なんて存在しないわ。
証明できないものなんて、
無価値よ。
愛なんて自分の中にないものを、
私は認めない。
愛なんて、
私は信じない……」
フジオミはそれでも笑った。
「それでいい」
フジオミはもう一度シイナの手をとった。
シイナは抵抗しなかった。
する気力さえなかった。
何を言っても無駄なのだ。
所詮わかり合えない二人が残っただけ。
そうして、生きていくしかない。
今までもそうだったように、
これからも。
沈黙が、二人の間を流れる。
「こんな簡単なことにさえ、
ようやく気づいたんだ。
僕はずっと、こんな気持ちで、
君と一緒にいたかった――」
穏やかに語るフジオミが奇妙に思える。
壊れたガラスを片付けなければ――
すでに意識は別のところに向いていた。
こんなふうに時間は流れていくのか。
愛など感じず、
今はもう絶望さえ感じず。
呼吸しているから、
鼓動が止まるまで。
そうやって、死ぬまで生きろと――
「――あなたは、馬鹿だわ……」
シイナは瞳を閉じた。
再びの沈黙が、二人の間を流れる。
その沈黙は、
言葉を失ったからではなく、
言葉では届かないところに
互いが立っているからだった。
シイナの涙が頬を伝い落ち、
フジオミの指先に触れて消える。
それでも二人は動けない。
触れているのに、遠い。
遠いのに、離れられない。
その距離のまま、
生きていくしかないと、
二人とも気づいていた。
こぼれ落ちた涙が乾くまで、
そのまま二人は動かなかった。




