03
突然のエマージェンシー。
この時、〈学習〉を終えたマナを迎えて、フジオミとシイナは研究区のレストルームでコーヒーを飲みながら休息を取っていた。
初め、三人は驚いたものの、ちょっとしたミスだろうと深刻には考えなかった。
だが、一分を過ぎてもやまない警報に、徐々に彼等の内に奇妙な不安が沸き上がる。
「何が起こったんだ?」
「わからない。事故かもしれない。ここから動かないほうがいいわ。管理区域に通信しましょう」
シイナが、机上のコンソールで管理区域への通信を始める。数秒してスクリーンとは違う壁面の大きなモニターに、クローン体の職員の姿が現われる。
「何があったの?」
『侵入者です。何者かがラボの通風口から侵入しました』
その耳慣れない言葉に、マナが息をのみ、フジオミが問い返す。
「侵入者? そんなものが、外から来たって言うのか。馬鹿なことを言わないでくれ」
何処かのんびりした問いにも、無理はなかった。自分達を取り巻くこの世界に、外敵がいようはずもない。彼らはそれを事実として知っていたのだ。
『ほ、本当なんです。そちらに向かっています。早急に退避してください』
「動物じゃないのか。ある程度知能があれば、通風口に入り込むこともある」
「生体反応を確認したの!? 監視モニターが捕えたものをこっちにまわしなさい、はやく!!」
苛立たしげにシイナが叫ぶ。
モニターが切り変わり、侵入者の姿を映しだした。
「!!」
その瞬間、モニターのディスプレイに大きな木製のテーブルが投げつけられた。同時にスクリーンの風景が消え、窓のない部屋は人工燈の明かりだけが浮き彫りになる。
「きゃあ!!」
マナの悲鳴。
モニターに気をとられていたシイナとフジオミが振り返る。
「――」
薄暗い視界の中、ぐったりとしたマナを抱きあげている者に、フジオミは愕然とした。それは、未だかつて彼が目にしたことのない、不思議な容姿だった。
抜けるような白い肌。銀糸のような髪。見据える瞳は薄闇でもそれとわかる、炎のような赤だった。マナと同じくらいの少年だ。声も出せずに、フジオミはその少年を凝視していた。
「ユウ!!」
シイナが叫んだ。
それがフジオミにさらなる驚愕を与える。今、シイナは少年の名前を呼んだ。彼女は彼を知っているのだ。
赤い瞳が鋭くシイナを睨んだ。だが、すぐに踵を返して部屋を出ていった。マナを抱いたまま。
「待ちなさい!! マナをどうする気!!」
シイナが後を追う。フジオミが数秒遅れて続く。マナ一人を抱えているというのに、少年の速さは二人を凌いでいた。
「シイナ、君はあの子を知っているのか? 何だ、あの異様な姿は――」
シイナは彼を見ようともしない。ただ前だけを見つめていた。その顔色は心なしか青ざめていた。
「実験体よ。まだ生きていたなんて――」
忌ま忌ましげな呟き。走りざまに、シイナは廊下に備え付けられた非常時用のエマージェンシーコールをメインコンピュータに送り込む。彼らの前後で、両脇の壁から出てきた扉が廊下を仕切っていく。
彼らの前の通路も仕切られていくが、シイナは手慣れた手つきで扉につけられたコンピュータパネルを操作し、前へ進む。
フジオミはシイナに従い、ユウと呼ばれた少年とマナを追うが、途中奇妙なことに気づく。
非常時には、通路を仕切る全ての扉とエレベータは自動的にロックされ、特別なコードでなければ開かないようになっている。だが、最初の扉以降、シイナが開けるより前に開かれた扉は、壊したふうもなく、真っすぐに非常階段へと向かっている。内部構造に詳しくなければ、こんなことはできない。
これは事実だ。
明らかにあの少年はここを熟知している。
シイナは少年を実験体だと言った。
(しかし、一体何のだ。なぜ、そんな少年が、よりにもよって〈外〉からやってきたんだ?)
このドームを離れては、我々人類は生きられないというのに。
そんな疑問が頭の中を駆け巡る。
普段はめったに使わない非常階段をかけおり、シイナとフジオミは一階を目指した。
一人で逃げるのとはわけが違う。少年はマナを連れている。出ていくとしたら、入ってきた通風口からは不可能だ。
そして、それ以前にシイナはよくわかっていた。
(これは報復だ。自分に対する)
だからこうして、追ってこいとでも言わんばかりに逃げている。
一階へ着くと、奇妙な騒めきに満ちていた。外へ通じる扉の前には、少年がいる。そして、作業員であるクローン達は、それを遠まきに見ているだけ。無理もない。誰もこんな事態を予想だにしていなかったのだから。
「マナに傷一つでもつけたら許さないわ!!」
シイナの叫びにも少年は無言だった。信じられないことに、ロックされたはずの扉を手も触れずに開け、外へ消えた。
「マナ!!」
シイナが開け放たれた扉へとかけよる。吹きつける風は一瞬奇妙な渦を描いたが、すぐに止まった。
「――」
そして整備された敷地の遥か彼方の草地にすら、シイナとフジオミは二人の姿を見つけることはできなかった。
「なんてことなの…マナがさらわれるなんて…」