14
次の日もマナは老人とともに時間を過ごしていた。ユウはいつも食事が終わると約束のように地下に姿を消す。
マナはそれを、今でもずっと不思議に思っていたのだが、やはり口にすることはなかった。それに、ユウのいない間に老人の話を聞くことが、マナにとっては楽しみになっていたからだ。
「今日は、海の話をしよう」
「うみ?」
「そう。この地球の表面の大部分を占める太古からの水だ」
「知ってるわ。塩分を多量に含んでいるんでしょ? だから塩辛いって。青いのよね?」
「ああ。とても美しい色をしているよ。マナにも見せたいね。あの美しい海の色を」
マナを見ていながら、老人の瞳は、どこか別の――そう、マナのまだ見たことのない海を見ているのだろう。老人はマナに話して聞かせるとき、よくそんな遠い瞳をするのだ。
マナは正直、それが羨ましかった。
老人の感情を読むことはできるが、見えないものを見ることはできなかったからだ。
「初めて地を覆う濃く青い水を目のあたりにしたとき、涙が出たよ。こんなにもすばらしい光景が、あっていいものかと。
私達の住む星の、なんと美しいことか。
よせてはかえす波のさざめきが、どこまでも続く海。わたる風さえ、命の鼓動をはらんでいた。私の生涯の中で、あれほど美しいものを見ることは、きっともうないだろうなあ」
食い入るように見つめているマナに気づいて、老人はそっと笑ってマナの頭を撫でた。
「今度、ユウに連れていってもらうといい。あの子の力ならば、すぐだ」
「本当?」
「ああ。きっとマナも感動するよ。涙が出るほど、綺麗だと思うさ」
「だといいんだけど」
マナは正直言って、そのように感じられるか自信がなかった。
老人の目と自分の目は、いつもどこかが違うのだと思えてならなかった。
遠い瞳をして、そこにはないものをとても幸せそうに見る老人の目は、きっと、自分とは比べものにならないほど美しいものを感じられるのだと。
「マナ、ユウを頼むよ」
「?」
「あの子は、きっとおまえさんのためなら何でもしてくれる。どんな願いも、叶えようとするだろう。私から言うのも何だが、おまえさんを、この世界の何よりも大事に思っている。それを、忘れないでおくれ」
その言葉に、何故かマナは不安なものを感じとった。
「どうしたの、おじいちゃん? 急にそんなこと言いだして。何だかもう会えない、何処か遠くへ行くみたいに」
「おや、そんなふうに聞こえたかね?」
「ええ。嫌だわ、おじいちゃん。そんなこと冗談でも言わないで。あたしたちをおいて、何処へも行かないでね」
「どうやら、マナにいらぬ心配をさせてしまったようだ。さあ、中へ入ろう。もう日があんなに高い」
老人は杖を持ちなおし、開いているほうの手でマナの肩に触れた。その足取りが、何だかいつもより重そうに見えた。
「ああ。きっともうすぐ……」
一歩一歩、ゆっくりと前に進みながら、遠くを見つめて、老人は呟いた。
それが一体何を意味するのか、マナはまだ知らなかった。
その日に限って、老人はいつまでも部屋から出てはこなかった。
「ユウ、おじいちゃんどうしたのかしら。いつもなら、とっくに起きてくるはずなのに」
「起こしてくる。マナはここにいて」
ユウが老人の部屋へと走っていく。
マナは自分の席につき、湯気のあがる朝食を見つめていた。
しばしのち。
マナ!!
「!?」
突然、ユウの声が脳裏に響いた。触れてもいないのに伝わってくる強い感情。こんなことは初めてだ。
「ユウ!!」
いやな予感がする。マナは食堂を出、老人の部屋へ急いだ。扉は開いたままだ。中へ駆け込む。
「おじいちゃん、ユウ!!」
ユウは老人を抱き上げ、ベッドへと運んでいる途中だった。
「おじいちゃん、どうしたの?」
「倒れたんだ。マナ、薬を。いつものやつでいいから」
「ええ」
ベッドの脇に落ちていた錠剤を、マナは拾いあげた。備え付けのバスルームに行き、グラスに水を入れ、戻ってくる。
ユウは老人の背中を支えて起こしてやると、薬を口に入れてやった。グラスを口に運び、ゆっくりと傾けると、老人は静かにそれを飲んだ。
「おじいちゃん、大丈夫?」
マナが心配そうに問うと、老人は安心させるように笑った。
「……ああ、大丈夫。少し、目眩がしてね。薬を飲んだから、もう落ち着くだろう…」
だが、老人の顔は血の気が引いて、病的に白くなっている。
「何か食べないと」
「ああ、では何か温かいスープでももらえるかい?」
「ええ。すぐ温めて持ってくるから、待ってて」
マナは急いで部屋を出ていった。食堂へと向かう足音が、老人の部屋まで微かに届いていた。
「――その時が、来たの?」
老人に視線を向けずに、小さくささやきが洩れた。
立ったままのユウを見、老人は椅子に座るよう促した。
「ああ、そろそろ、いかねばならんようだ」
「おじいちゃん――」
「わしがいなくなっても大丈夫かい…?」
血の気のない渇いた指が、椅子に座ったユウのそれに重なる。ユウは取り乱したりせず、落ち着いていた。
「――大丈夫だよ。わかってたから。何も心配ない」
「そうか……」
老人は悼ましげにユウを見つめた。まるで苦痛を堪えるかのように。
「おじいちゃん?」
「――おまえは、いつも哀しみを内に閉じこめてしまう。私達は、おまえに、心をそのまま伝えるということを、教え忘れてしまったのかもしれないなあ。
でも、ここにはマナはいない。私達だけだ。心をそのまま表してもいいんだよ」
ユウが困惑したように老人を見る。
「どうしてそんなことを?」
「おまえが、とても可哀相に見えるからだよ。いつも、決して手に入らないものを求めすぎているように、とても可哀相に見える」
老人の言葉に、ユウは一瞬目を瞠り、それから痛みをこらえるように、一度ぎゅっとかたく目を閉じた。
「ユウ――」
「おじいちゃんの言うとおりだ。俺には、何も手に入らない。いつでも、俺は独りだ」
老人はかすかに首を振る。
「独りではないよ。おまえは、決して独りではない」
「――だって、おじいちゃんは逝ってしまうじゃないか。どんなに俺が頼んでも、みんな先に逝ってしまうじゃないか!!」
「ユウ――」
「いつだって、俺は独りだ。みんな俺から離れていく」
涙の伝うユウの頬を、老人は引き寄せ、横たわったままの胸に抱いた。
「ユウ。私が死んでも、おまえは独りにはならない。マナがいるよ。あの子が、おまえの傍にいてくれる」
ユウはかすかに首を振る。
「――マナだって、いなくなる」
「いいや。マナはおまえを選ぶよ。きっとずっと、マナはおまえといてくれる。私達が与えてやれなかったものを、マナが、おまえに惜しみなく与えてくれるだろう――」
マナが部屋にいても、老人は眠っていることのほうが多くなった。
起きていても呼吸が荒く苦しそうに見える。
量が増える薬は、老人の体力を奪わないように深い眠りを与えてしまうのだ。
「おじいちゃん、いつになったらよくなるの? あたし、何かできない? どうしたら苦しいのがなくなるの?」
珍しく起きていても楽そうに見える老人に、マナは問うた。
「ありがとう、マナ。でも、これはもう治らないんだよ」
「どうして? 病気なんでしょ? だったら原因がわかれば治せるはずだわ」
「マナ、これは病気ではないんだ。寿命なんだよ。年をとりすぎて、命がつきるんだ。死ぬんだよ、もうすぐね」
穏やかな口調にそぐわない内容だった。
マナはじっと老人を見つめていた。老人は横になったまま顔だけをマナに向けていた。
「――死ぬって、どういうこと…?」
聞きたくないように、小さな声だった。わかっているのに、何だかそれはまだマナにとって理解できるものではなかった。
生命活動が停止すること。それが死。
知識としてはわかる。だが、それが自分にとってどのような作用を及ぼすのか、見当もつかなかった。
「もう二度とこの目を開けないということだよ。もう二度とユウやおまえさんとこんなふうには話せないということだよ。
死とは、永遠の解放でありながら、時には残酷だ。愛しいものとの永遠の別れも、確かにそこには在るのだから」
「いや……」
マナは首を振った。
「マナ」
「いや、そんなのいや」
マナは老人の死という言葉をにわかに理解した。もう会えなくなるのだ。もう、話せない。この瞳が、マナがあんなに憧れた美しい思い出を遠い眼差しで見ることがなくなるのだ。それは想像でも耐えられないことだ。
「おじいちゃん、いやよ。どこにも行かないで」
涙が、マナの頬をとめどなく流れる。
「マナ、哀しんではいけない。残される者の哀しみが強いと、死んだ者は心安らかにはなれない。いつまでもそこにとどまり、安らぎの場所に向かえなくなるんだよ――」
「そんなのわからない。あたしたちをおいていくの? ここにあたしとユウを残して逝ってしまうんでしょ? そんなのいやだもの」
溢れる思いを止めることはできなかった。
今、老人が死を迎えようとしている。彼女の大好きな老人が、死のうとしているのだ。
「いや、いや、おじいちゃん。死んじゃいやよ。何でもするから、お願い、死なないで」
「マナ…」
「嘘でしょう、おじいちゃん。何処にもいかないで」
涙に濡れるマナの頬に、老人はそっと手を伸ばした。だが、その手は震えていた。挙げることさえ、もうやっとなのだということが、マナにさらなる恐怖を与える。
「マナ。自分が何であるのかを見極めるのだ。生きていること、今ここに在ることだけでは、意味はない。意味とは、自分が決めるもの。自分で見いだすもの。それがあれば、どんなになっても、きっと生きていることはすばらしいと思える。
私は幸せだったよ。とてもすばらしい人生だった――たくさんの仲間達と、そしておまえさんたちとすごせて、本当に、良かった」
老人の呼吸が、浅く、速くなっていく。
「おじいちゃん!?」
震える老人の手を、マナは必死で握った。少しでも震えを止めたい。そうしないと、存在がすりぬけていってしまいそうに思えた。
「マナ。おまえさんはいい子だ。本当に、いい子だ。おまえさんとユウは、私の生涯の中で、一番あざやかな色だった――」
老人は、マナの背後にじっと立ち尽くすユウを見た。
「おじいちゃん……」
「ユウ。マナを守りなさい。全ての苦しみと哀しみから、マナを守るのだ。それができれば、おまえも幸せになれる。きっと」
「おじいちゃん、でも、俺は――」
「幸せになりなさい。二人とも――」
静かに、老人は目を閉じた。
それきり、動かなかった。
「おじい、ちゃん…?」
答える声は、永遠に失われていた。
「いや……」
永い凍えた沈黙の後、マナの声がかすれて漏れた。
「いやよ、こんなのいや。おじいちゃん、目を開けてよ。ねえ、起きて。約束したじゃない。もっとたくさん、いろんな話をしてくれるって言ったじゃない!!」
「マナ」
「いやよ、いやあっ!!」
「マナ!!」
ユウがマナを強く抱きしめた。その瞬間、混乱したマナの中に、自分のものではない、もっと強く、もっと深い哀しみが入り込んできた。息がつまる、激しく、心の中だけで渦をまく感情の嵐。
こんなに深い哀しみを知らない。
こんな哀しみを、自分は持てない。
これは、ユウのものだ。
「マナ、仕方ないんだよ。おじいちゃんはもう、十分生きたんだ。人間は、いつか死ぬんだ。おじいちゃんにも、その時が来ただけなんだよ」
マナは顔をあげ、そう言うユウを見つめた。
彼は、何処か虚ろにも思えた。
マナはユウの背に手を回し、しっかりと彼を抱きしめた。
「ユウも泣きたいのね。泣いてもいいわ。一緒に、泣きましょう。そうしないと、ユウのほうが、壊れちゃうわ」
「――」
「苦しいの。これから、どうすればいいの。大好きだったのに。ずっと一緒にいたかったのに」
マナは肩に、ユウの熱を感じた。押しつけるようにマナの肩に額をあて、彼はずっと黙っていた。
それでも、ユウは泣かなかった。泣けなかった。
深く激しく、その心の内は泣き叫んでいるのがわかるのに、その感情は、決して表には出てこない。
冷たい壁に押さえつけられているように、ユウはただ黙ってマナを抱きしめていた。




