episode.ブラッド・ムーン【外伝】
その獣は餓えていた。
家畜を襲っても足りない。
ダンジョンの魔物でも足りない。
両親、恋人、友人、隣人、何もかも足りない。
その瞳はギラギラと輝き、欲望を満たすための道具を探して動き回っている。
そして本能に従い続けた結果、それは命という代償を払う事となった。
処罰の夜。磔となった獣の背後には激しい血潮のような満月が昇ったという。
【episode.ブラッド・ムーン】
「――それとも、群の仲間がいなくて寂しいの?」
雇い主である少女が何気なく発したその言葉は、エーヌの内蔵を簡単に貫き、鋭利な凶器で内部を抉られるような気持ちの悪い感覚を誘発させた。
彼女から放たれた悪気のない一言によって、足下から地盤を崩されるような幻覚を覚えたのだ。
「マスターのバカ野郎おおお!」
全てを誤魔化すために、そう吼えるしかなかった。
逃げてきた足で馬車に乗り込んだ。ダンジョン区域であるプィーラーまでたどり着くと、ふらふらと身を揺らしながら広場をさ迷う。
今日の雇い主を探さなければ……。
使命感だけが己を奮い立たせていた。
よろよろと歩き始めれば、ドンと誰かの肩が打つかってしまう。
冒険者らしき男から怒声が上がった。
――気をつけろ、獣人が!
男から発せられたその内容を理解してから気がつく。
いつの間にかフードを被っておらず、人族ではないという証の耳が露わになっていた。
脳内で、少女の悲鳴じみた声がする。
――いやぁ、獣に襲われるわ。逃げなきゃあ!
脳内で、少年の嘲笑めいた声がする。
――おい、あの血まみれみたいな毛色と瞳を見ろよ。今に家畜を襲うぜ!
それらは過去からやってきた忌まわしき産物だった。耳を塞いでも鳴り続ける幻聴に、世界がぐるぐると回転するような錯覚に襲われた。
冷たい石畳に両手をつく。
「おい、大丈夫か?」
誰かに声をかけられたようだが、エーヌには違って聞こえてくるかのようだった。
先ほど浴びせられた「獣人が!」という怒声が何度も耳から進入してくる感覚……。
「クソッ、俺に構うな!」
気づいたときにはそう叫んでいた。心配そうにこちらを覗き込んでいた人々が一瞬にして遠ざかっていく気配がする。
己に貸せられた使命の力だけで、立ち上がった。
今日の雇い主を探さなければ、俺は運び屋なのだから……。
その意志だけがボロボロの心と体を動かし続ける。
エーヌが足を向けたのは迷宮区の入り口だった。
誰も雇ってくれそうな者がいないので、仕方なくこの辺りで待機しようと思ったのだ。
しばらく佇んでいると冒険者らしき二人組、男らが声をかけてきた。
「獣人族とは珍しいな。バックパッカーか、雇ってやってもいいぜ」
フードを被る気力すら失われていたのだと気づいた。絶望感に打ちひしがれながら冒険者の後に続く。
三人で森林を進行していると突如、どこからともなく金切り声のような獣の咆哮がした。
気持ちの悪い獣が目の前に出現している。その巨大な魔物の正体をエーヌは知っていた。
――キマイラ。
そう呟いた時には、獣はこちらに狙いを定めていたらしい。
エーヌは毒ヘビの尾に弾き飛ばされて、地面へ衝突した。
そこからの記憶は朧気で正確なことは覚えていない。
誰だか分からない冒険者の叫び声。「今の内に逃げよう」、「獣人族を囮にすればいい」というような内容だった気がする。
記憶が明瞭でないのは、ヘビの口から噴射されていた毒霧が原因だ。
それを大きく吸い込み、エーヌの意識は途切れた。
***
子供たちが輪になって歌っている。
――ぶらっど・むーん、ちぬられたけもの。ぶらっど・むーん、ちぬられたけもの。
これはエーヌが子供の頃に体験した記憶だった。
子供たちから発せられる無邪気な攻撃から身を守る術を、この頃はまだ持ち併せていなかった。
だから、泣きながら逃げるしかなかったのだ。
逃げ帰った小さなログハウスの中、ベッドの上で白髪の老父が横になっている。
その力なき姿へ、すがりついて眠りにつくのが日課だった。
『また虐められたのかい、エーヌや』
いつの間にか、老父の暖かな手が頭に添えられていた。
それでもエーヌは怯えたように竦み上がっていた。
耳を垂らし尻尾を腹に巻きながら『うん』と震える声を漏らす。
老父は宝石のような翠玉の瞳を瞼で隠しながら、穏やかな言葉を紡いでいく。
『気にしなくても良いんだよ。お前はわたしのような人族とは少し違うが、大切なものに変わりないのだからなぁ』
『じいちゃん。お、俺。血塗れオオカミだって。みんなが言うんだ。赤毛だし、目の玉だってそうだから。物語に出てくる『ちぬられたけもの』だってみんなが言うんだ』
そう泣きつくと、老父はいつも決まって無き妻の遺品であるという手鏡を持ってきた。
『見てごらん。どこが、血にまみれているんだい。よく見てごらん、エーヌ』
『い、いやだ。こわいっ!』
『なら、お前は家畜や魔物を襲うかい?』
エーヌは「ううん」と小さな頭を横に振った。
『なら、お前は飢餓に苦しんで他者を襲うのかい?』
『ううん、そんなことしない』
『じゃあ、お前は血塗れた獣なんかじゃないよなぁ。はははっ』
老父は年の割に豪快な笑い声を上げる。
そうしてじいちゃんが笑い飛ばしてくれるから、エーヌの傷ついた心でも愛を感じられた。
いつでも少しばかりの笑顔を取り戻すことが出来た。
『なぁ、エーヌ。お前は強くなるんだよ。いつかわたしのような運び屋になるのだろう?』
『そうだよっ。俺は、じいちゃんみたいな、凄腕の運び屋さんになるんだっ!』
『よしよし、お前は良い子だなぁ』
その暖かな手、しわがれ声、綺麗な翠玉色の眼差しも大好きだった。
奴隷の身分だったエーヌを拾い上げてくれた優しい人だった。
――なぁ、じいちゃん。
俺は運び屋になったんだよ。
だからさ。また「良い子」だって、頭を撫でてくれるだろ……。
ぼんやりと視界が開ける。
そうして目が覚めた時、初めに分かったのは紫水晶のように輝く双眸だった。
「雇い主だ」とぼんやり思った刹那、彼女に苦しいほどの勢いで抱きしめられた。
「良かった、エーヌ。本当に良かったわ、エーヌ」
やめろと言いたいのに口が渇いて声が出ない。
首を横にゆっくりと振って見せるが、彼女はその行為をやめなかった。それどころか、ぐりぐりと頬まですりつけられてしまう。
体に鳥肌が立つ。「げぇ、気持ち悪い」と思ったが、抵抗する力は沸いてこなかった。
仕方なくベッドへ体を預ける。
抱きついて離れない少女の嗚咽だけが響く中で、「俺は昔の夢をみていたんだなぁ」と過去に思いを馳せた。
今まで、多くの困難があった。
じいちゃんが居なくなってからの人生はグダグダで、嫌なことの方が圧倒的に多くて、もう駄目だと何度も挫けた。
他者から傷つけられることには馴れているはずだったのに。
それでも少女が言った確信めいた一言で、全てが終わってしまったような絶望感がしたのだ。
寂しさなんて、誰かと抱き合う嬉しさなんて、遠い昔に置いてきたはずなのに……。
気がついたらじんわりと涙が溢れている。
それに気づいたらしいマスターが、頭を撫でてきやがった。
「よしよし、ずっと『寂しん坊』だったのよね。でも、あの時、わたくしも酷いことを言ってしまったわ。ごめんなさい、エーヌ」
再び苦しいほど抱きしめられた。それでも抵抗できなくて、長い息を漏らしてから静かに瞳を閉じる。
頭を撫でるその暖かい手は、まるで懐かしい愛情を思い起こさせてくれるようだった。




