二つの記憶
ホワイティアという北国は、一年の殆どを雪で覆われている。点在する田舎街の一つに、テレジア・マジョリカという少女が暮らしていた。
父親譲りのアメジストの宝石のような瞳と、母親譲りのオールドローズのような淡い髪色をした彼女は、幼少期から高貴なお人形と称されるほど美しかった。
両親は旅道具を扱う商屋を営んでいたが、偏狭な田舎の街へわざわざ足を運ぶ旅人は少なく、生活は裕福とは言えなかった。
だから、両親は娘の素質に目をつけた。
貯蓄を全て投げ打ち、ありとあらゆる手を尽くして英才的な教育と厳しい躾を施したのだ。
こうして、テレジアは立派なお嬢様として仕立て上げられ、僅か十一歳という年齢で次々と縁談が持ち込まれるまでになった。
両親が目論んだ計画通りに事が進めば、多大な『親孝行』によってその生活は豊かになる。
……はずだった。
縁談相手との面会を控えていたという矢先、テレジアは荷馬車の転倒事故に巻き込まれ、ぱったりと意識を失ってしまったのだ。
そして目が覚めた時、少女は自身の異変に気がつく。
――あれ、ここは何処だろう?
朧気な記憶を思い起こせば。
確か、私は地方で開かれるアニメのフェスに向かっていた。
歩道を歩いていた時、突然車が突っ込んできて……まさか、死んだ……?
その事実に身震いする間もなく、テレジアが送ってきた十一年間の記憶が走馬燈のように頭を駆け巡ってきた。
パニックを起こした私は、ベッドの上でのたうち回り、結果的に療養させられることになったのだ。
――前世では二十三歳の大学生、今世は十一歳のお嬢様――。
数日の時間が経っても、私は見知らぬ少女として生きてきた現実を受け入れることができなかった。
前世の記憶なんて、いっそのこと忘れていた方が幸せであったとさえ思う。
初めて見る土地や民族たち、馴れない風習や厳しい寒冷の環境に馴染むことも出来ず、ただただ毛布にくるまって、怯えた子犬ように震えていた。
少しでもましなところを上げるとすれば、西洋風の異世界であっても動植物や食料品が前世とほぼ同じだったこと。そのお陰で痩っぽっちになることだけは避けられた。
それでも美しいと評判だったお人形は、陰鬱な姿に変ってしまっていた。
輝きを完全に失った娘に対し、初めのうちは優しさを見せていた両親もだんだん鬼のような態度で当たり散らすようになっていた。
どうにかして、テレジアの人生を取り戻さなければ。私は焦り始めた。
しかし、体験したこともないお嬢様の生活や舞い方など、平和な世界で暮らしてきた大学生に演じきれるはずもない。
縁談先を紹介されたとて、相手には逃げられる始末。結局、どこにも嫁げぬまま、何にもなれぬまま、月日だけが過ぎていった。
一年近くを家に引きこもりながら過ごしていたが、ついに両親の厳しい折檻に耐えられなくなり、雪の降り積もる路上へと飛び出した。
降り続く雪にまみれながら座り込んでいると、どこからともなく嗄れた声がかかる。
「お嬢さん、どうしたんだい?」
顔を上げると、そこには鷲鼻の老婆が立っていた。
彼女の言ったことを要約すると、「自分は周囲から疎外されており、街から少し離れた場所で生活をしている」ということらしい。
優しく声をかけてくれた老婆は自らの根城へ私を招待してくれた。
暖炉の熱で暖かな家の中は、まるで不思議な空間だった。
占い師が使うような水晶玉に誰のものか分からない髑髏。
液体に浮かぶのは瓶詰めカエル、吊されているのは黒焦げたトカゲ、そんなファンタジー溢れる怪しげな道具が所狭しと飾られてある。
そこは書籍の宝庫でもあった。本棚には日本で言うところのフィクション小説がずらりと並べられていた。
タイトルを順に読み上げてみると、「魔法使いとドラゴン」、「黒茨の罪人」、「中庭の聖霊」、「夢見る暗殺者」、「ブラッド・ムーン」……などと続いている。
どれもこれも面白そうなものばかりだ。
毛足の短い絨毯が敷かれた床の上へ乱雑に積まれていたのは歴史書。その多くが、私に世界の軌跡や文化を学ぶ機会を与えてくれた。
机上や椅子の上に放置された指南書からは魔法、ダンジョン、魔物など異世界の事柄を教えられた。
学ぶ楽しさを知れば、世界を楽しむ余裕が出てくるものだ。多くの書籍を読んだことで、私のどんよりとした意識はどんどん明るいものへと変化していった。
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老婆が所有する書籍の一つに「中庭の聖霊」という物語がある。
辛く惨めな境遇に生まれた奴隷の少女が、とつぜん聖霊を操る能力に目覚め、国を動かすほどの大業を成し遂げるという逆転劇だ。
作中で少女が操っている『聖霊』というキャラクターは架空の存在ではない。
見た目は妖精のように小さく、可愛らしいその姿に似つかわしくないほどの強大な力を有している。
契約を交わせば、主人に忠実な働き者となってくれるが、万人が聖霊を扱う術を持つわけではない。
生涯において彼らと契約できる確率は少ないといわれている。
聖霊を感知する特殊な感覚は必須だし、そもそも姿が見えなければ話にならない。
また、見えたところで会話する術や交渉術、様々な知恵を持たなければ契約には至らない。
そのため聖霊使いは高等な存在として特別視され、様々な場面で優遇されるのだという。
そして極希に、産まれながらに聖霊を宿す者がいる。
自分では気づいていなかったけれど、私がそうらしい。
鷲鼻の老婆はテレジアの才能を一瞬で見抜き、「この娘には聖霊使いの素質がある」と確信したという。
老婆には聖霊を目視できるだけの力があった。だからあの時、彼女に声をかけられたのだ。
私はその話に興味を持ち、すぐ聖霊に関する勉強を始めた。
修行らしい修行をせずとも、聖霊を呼び出すことは容易だった。
もともとこの聖霊はテレジアが産まれた頃から共にあり、『彼女』はたいへん愛されていた。だからその存在を認知しただけで喜んで契約を結んでくれたのだ。
そうして過ごした年月は一年と半月を越えた。
その頃には聖霊使いとして大抵のことは出来るようになっていた。一人で魔物の巣くうダンジョンへ乗り込んで行けるほどだ。
全てが大きな自信に繋がると、心に大志を抱かせるまでになる。
この狭い世界から出て、自分の足で広い大地を踏みしめたいという夢を持ったのだ。
――冒険者になりたいの。
そんな相談をすると老婆は喜んで支援をしてくれた。必要な道具は実家で全て揃えられたので、旅立つ準備は万全だといえた。
私はすぐに荷物をまとめ、クローゼットにあった一番分厚い獣皮のコートを引ったくってから家を飛び出した。
叫声を上げながら引き留めようとする両親を強引に振り切って街の外へ駆け出す。
恩師の老婆へ涙ながらの抱擁とお礼の言葉を残して、ついに故郷へ「さよなら」を告げたのである。