愛情深い娘
アズラを自宅へ残して、さっそくイルマの家を訪問した。
玄関の扉を開いてくれた彼女は「待ってました」と言わんばかりの顔である。
「いらっしゃい。さっそくだけど、私の後について来て」
そうして案内されたのは、屋根裏部屋だった。
ブラインドのような板が下ろされた窓から微かな太陽の日が射し込み、湿気と暖かな空気が全身にまとわりついてくる。
埃っぽい室内には色あせた箱の類や、子供が乗る木馬など古ぼけたおもちゃが置いてあった。
イルマは一つの箱を引きずってきてから、鼻の上のそばかすに触れる。
「……ほとんど古い本だからね?」
箱の蓋が開かれたので、わくわくして覗き込む。
イルマは綺麗に重ねられていた沢山の本の中から緑色の表紙の一冊を手にした。彼女はそれを胸に抱き留めながら遠い目をする。
「懐かしいなぁ。これ、子供の頃によく読んでもらった童話なの。お母さんがまだ生きていた頃の話だけどね」
「……そう。大切に仕舞ってあったのね」
「うん、なんだかね。当時は見ているのが辛くて。でも捨てるなんてできないから、こうして目の届かないところに隠しておいたのよ」
そうしてイルマは、わざと本を隠すような動作をした。
しかし、その表情は陰ってなどいない。いつも明るく元気な彼女からは、過去の辛い体験など微塵も感じられなかった。
その強さに惹かれる者はきっと多くいるに違いない。何故そんなことが言い切れるかといえば、私がその内の一人だからである。
「さぁ、テレジア。好きなものを持って行っていいからね」
「でも、いいのかしら。大切な物なのでしょう?」
「うん。こんなところで埃を被るくらいなら、誰かに読んで貰う方が良いと思うから。私も嬉しいけど、お母さんもきっと喜んでくれるわ」
清々しいほど晴れやかな表情の彼女へ微笑んでから箱の中身を見る。
その中に見覚えのあるタイトルを見つけて手に取った。
『ブラッド・ムーン』という物語なのだが、前に老婆宅で読んだものとは厚さが違う。
これはいわゆる児童書、子供向けに簡略化されたものだろう。
「これは、ブラッド・ムーンね。フィアテルでも読まれているの?」
「それねぇ。少し前に市場で見つけたのよ。子供向けだし、読んでみようかなって思ったんだけど、内容がよく分からなくて」
「これはね、血塗られた獣のお話よ」
「そうそう、獰猛な獣が羊を食べたりするのよね」
「まぁ、『食べた』というのは比喩で実際は違うのだけれど」
「そうなの?」
「ええ」
実際、物語の内容はかなりグロテスクだと記憶していた。
この世界の説話というものは大きく二種類に別れている。
犯罪やら疫病などの暗いお話から教訓を得るものと、成り上がりやヒーローものなど娯楽性に優れた大衆小説だ。
ブラッド・ムーンは前者に当たる。とある凶器的な犯罪者の一生を描いた作品だった。
本のページをめくりながらそんなことを考えていると、イルマは「えへへ」と苦笑して栗色の横髪を指に絡ませた。
「実は私ね、分厚い本を読むのが苦手で。文字の量が多いほど眠たくなってしまうの。
だから私が持っているより読書好きの人に大切にして貰いたいってずっと思ってたんだぁ」
それを聞いた私は小さく肩を落とす。ちょっとだけ期待が外れた。
イルマは本をたくさん持っていると言っていたから、てっきり読書家だと思っていたのである。
「もう。イルマってば、読書家じゃなかったのね。今日は一日中、語り合えるかと思ったのにっ」
「お母さんがそうだったみたい。ごめんね、期待させちゃったかも」
テヘッと可愛らしく舌を出すイルマのおどけた様子に笑みがこぼれた。しばらく二人でクスクスと笑い合う。
例え彼女がお仲間でなくても、こんな風に楽しみを共有できることが嬉しいと思う。私にとってはそれだけで幸福な時間なのだった。
二人で選定した本の量は多すぎて持ち帰れそうになく、後日イルマの父親であるトーマスに運んで貰うことにした。
私たちはいそいそとイルマの部屋へと向かう。
彼女の自室はベッドと洋服棚と勉強机だけというこざっぱりとしたものだった。
しかし、ベッドの上には動物のぬいぐるみやクッション、机には貝殻などで飾りつけされた写真立てが並べられていて少女らしいお部屋といえる。
イルマの手作りだというクッションを胸に抱えながら、屋根裏部屋でした話の続きをすることにした。
「私ね、本の内容については語り合えないけど。他のことならテレジアとも語り合えると思うの」
「あら、例えば?」
「そうねぇ。……お仕事か、あとお勉強のことはどう?」
「難い話題ね。もうちょっと別のお話にしましょうよ」
「うーんと、じゃあ。異性の話とか……?」
「まぁ、恋バナね!?」
「なにそれ、色の濃いお花のこと?」
「違うわ。恋愛のお話、略して恋バナよ」
「なるほどねぇ。って違う、違う。そうじゃなくて、私は前からあなたに聞きたかったことがあったのよ」
イルマはクッションを放り出す勢いでこちらへと身を乗り出す。
「アズラさんとテレジアの関係よ。二人ってば一緒に暮らしているじゃない。それで、だから……ほら、ね?」
彼女はチラチラと視線を合わせてくる。もしかして「アズラと付き合ってるの?」って聞きたいのかしら……。
それならば、答えは決まっている。
「アズラはただの友人よ」
そう言うと、イルマは間髪を入れずに「嘘ぉっ」と悲鳴じみた大声を上げた。
「嘘じゃないわ。本当よ」
「でも、家族じゃあないんでしょう?」
「血縁関係はないわ」
「だ、だから。恋人なんでしょう?」
「違うわ」
「嘘ぉ、信じないからね。あなたたち『仲良しさん』じゃない!」
「なぁに、それ。仲良しさんって」
私が笑うと、イルマは「誤魔化さないで」と頬を膨らませる。
「いつも一緒なのに、アズラさんとは兄妹の感じでもないし。恋人でないならなによ」
わくわくとした眼差しを向けられるが、ご期待には添えられそうにない。
私はさらりといした態度で「だから友人よ」と言い放った。
イルマはそのとたんに、腕を組んでプンプンと怒ったような様子を見せる。
「もうっ。私、テレジアと仲良くなれたと思ってたわ。勘違いだったのねっ」
頬を膨らませたままでプイッと顔を背ける彼女。その可愛らしい仕草に思わず顔がニヤケてしまう。
「もうっ。なんで笑ってるの! テレジアってばぁ!」
「あはは、怒らないで。違うの、ごめんなさい。アズラとの関係だったわね?」
イルマは唇を尖らせながらうんと頷く。私はわざと小声で密やかな様子を演出してみた。
「わたくしが勝手に恋をしているだけよ」
イルマの顔がパーッと明るくなっていくのが目に見えて分かった。
彼女はエメラルド色の瞳をキラキラと輝かせながら言う。
「テレジアの気持ちは伝えたの?」
「いいえ」
「それじゃあ。いつ頃、言うつもりなの?」
「伝える気はないわ」
きっぱりと宣言すれば、イルマは「えっ」と驚いた顔をする。このままだと妙な誤解をされかねないので補足しておく。
「だって、年の差があるじゃない。アズラは二十と少し、わたくしは十五よ?」
「そんなの関係ないわよ。十四、五で婚姻する子なんて珍しくないもの」
「いいえ、関係あるわ。彼は大人でわたくしは子供。つまりはそういうことよ。アズラは決してロリコンではないの」
「ろ、ろりこん? でも、そんなの後二、三年もすれば似たようなものじゃないかな」
「それじゃあ、わたくしが大人になる前にアズラが三十代になっちゃうじゃない」
イルマはそれでも「関係ないよ」と言ったが、さすがにこの体で成人相手に愛を唄う気にはなれない。
アズラのことは大好きだし、そんな気持ちが抑えられない時もないとは言い切れない。
しかし、肝心な相手にその気がないのだから、とやかく言っても仕方がないのである。
「とにかく、気持ちは伝えないの。これは秘めた恋なの。はいっ、わたくしのターンはこれでお終い。
それで、イルマの方はどうなのかしら。今度はあなたの恋バナを聞かせて?」
イルマは急に話を振られて同様したように声を裏返えさせる。
「わ、私っ!?」
「そうよ。気になる人とかいないのかしら」
「いないけど」
「えっと、好きな人はいないのね?」
「そうねぇ。強いて言うなら、お父さんかなぁ」
でっぷりとしたお腹を撫でるスキヘッドのトーマスを思い浮かべて首を横に振った。
「冗談はやめてちょうだい」
「だって、本当に思いつかないんだもの」
「そこは、幼なじみとかお仕事の先輩とか誰かいるはずでしょう」
「顔馴染みの人がいないの。タイオウ組合には女性しか居ないし。でも、お父さんは素敵な人よ?」
それを聞いて、つい「このファザコンめ」と口から本音が漏れてしまった。イルマはちょこんと首を傾げる。
「このふぁざこんめ?」
「それはいいの。イルマだって恋したことの一度ぐらいはあるでしょう?」
「うーん、お父さんよりかっこよくて、逞しくて、そんな素敵な人がいいなぁって思うけど。まだ現れないのよね」
「……このファザコンめ」
「さっきから、何よー。なんだかバカにされている気がするけどっ」
不満そうに眉を寄せた彼女を眺めながらぼんやりと思う。
――イルマ。あなた、わたくしの恋に構っている場合ではなくってよ。




