この先には破滅しかない
泣いている。悲痛なその叫びが、青年の朧気な意識を揺らした。
ああまた間違えたのか、と彼は思う。
また彼女を不安にさせているのだと。
いつも酷くもどかしい。大切な想いを何一つ伝えられないから。
恋情を囁くことも、慰めの言葉を掛けることも出来ないならせめて行動で示したいのに、自由の利かない身体は彼の言うことを聞いてはくれない。
『――――』
救いたいか、と誰かに問われた。
その代わり彼の身体は朽ち果ててしまうのだと。
救いたい、と彼は応じる。
あの少女のためならば自分の命など何も惜しくはない。
『でも、その自己犠牲が必ずしも彼女を幸せにするとは限らないよ。
だって彼女は君と“二人”で生きたいと言ったのだからね……』
声の主は、穏やかな口調で彼の脳内へ語り掛ける。
『それでも決意が変わらないと言うのなら……良いだろう。ボクが特別に、君に施されてしまった脳の制限を解除してあげよう。
数多の時間軸を覗くうち偶然君を見つけて興味が沸いてね、これはほんの気まぐれさ。
君はプレアデス星が太古に造った結合種の子孫の一人だし、ボクらプレアデス人の力を強く継承している』
青年は暖かな感覚に頭を包まれるのを感じた。
靄のように覆っていたものが消え去り、思考が鮮明になっていく。
その直後、強烈な頭痛に襲われる。神経を炎で焼かれるような鋭さに汗が吹いた。
視界が赤く染まり、手足が小刻みに震え、腹からは熱い胃液が押し上がって来る。
恐らく自分はここで終わるのだと、痛みを噛み殺しながら彼は理解した。
だが、その前にまだやるべきことがある。
まさか――あり得ない。
フィーネは、自身の唇から血液が垂れるのを感じながら眼前の青年を見やった。
深く口付けたまま彼女の舌へ噛み付く弥七の両頬にも、瞳から流れ出た赤い血の涙が伝っている。
(洗脳を解こうと過度な負荷を掛け過ぎたせいで、血管が耐えきれず破裂したのだわ。
けれど何故……抗おうと思っただけで簡単に抗えるものでは無いのに)
脳は生物にとっての司令塔だ。そこを操作されれば意思の力など無に等しいはず。
今も脳出血で倒れても可笑しくはないのに、弥七はフィーネの舌を離そうとしない。
彼女の身体を固く抱き、身じろぎすら許さないと言うように拘束する。
ぎり、と舌を食い千切ろうとする力がさらに強まった。
「……っ!」
まさか飼い犬に手を噛まれるとは。
実際に噛まれたのは舌であり、人間として生きている今のフィーネには致命傷にもなり得た。
肉体が滅べばフィーネの魂も拠り所を失い、この物質宇宙に存在することすら出来なくなる。
新しい器を探すといっても、波長の合う入れ物を探すのは容易ではない。
ようやく見つけた相性の良い器を失う訳にはいかないのだ。
フィーネは、天子の身体を拘束していたグレイ達へ思念を送る。
『この男を引き剥がしなさい!』
生気の無い顔のグレイ達が、天子から離れて不気味な動きで弥七のほうへと向かって行く。
彼らは、有機性の肉体に電子頭脳を埋め込んだ人造生命だ。
設定したプログラム通りにしか動けないし、大した戦闘力がある訳では無いが小間使いとしては役に立つ。
グレイ達がフィーネと弥七の周囲に群がり、そのうちの一体が爪先を長く鋭いものに変形させる。
鋭利な熊手のようなそれを、ずぶりと弥七の背中へ突き刺した。
「弥七っ!」
天子が叫ぶ。他のグレイ達も同様に爪を尖らせて追い打ちを掛けた。
苦痛に唸る弥七がフィーネの舌を離すと、フィーネは瞬時に彼を突き飛ばして立ち上がる。
そして座敷の奥に脱ぎ捨てていたボディスーツの上の扇子を取り、弥七を見下ろしながら扇子の先を向けた。
「駄犬がっ、よくもあたくしの器に傷を付けたわね。決して許しはしない。生きたままじっくり解体して粉砕して、細胞になるまで潰してあげるわ」
その時、弥七の頭の中から先程の男の声が聞こえた。
『そうそう、脳の可動範囲を十パーセント広げて強化させたから、身体能力や動体視力が一時的にかなり向上しているはずだ。ついでに――』
フィーネが目を見開いて驚愕する。
扇子からは意識を飛ばせる程の強力な電磁波が照射されているのに、それを浴びたはずの弥七が起き上がりフィーネの前に迫ったからだ。
『――電磁波を遮断する特殊防護膜で君の全身を覆っておいたのさ。
おめでとう、今から君は“超人”だ』
肩で荒い呼吸をしながら、弥七は扇子を持つフィーネの右手を掴む。
常人離れした腕力がフィーネの抵抗を阻み、より力が込められる。
すると鈍い骨の鳴る音が響いた後、彼女の手首はだらしなく伸びた。
拍子に扇子が手から落ちる。弥七はそれを拾い上げてフィーネに向けた。
「このっ……何をやっているの!早くこの男を殺しなさい!」
潰された右手を庇いつつ、フィーネが周囲のグレイ達へ声を張り上げた。
気絶させた後で弥七をいたぶってやろうと思っていたが、逆に手首を折られて武器を奪われる始末。
侮っていた。突然別人のように豹変した理由も気になる。
身体を貫かれても倒れず、電磁照射が効かない人間など見たことも聞いたことも無い。
グレイ達が弥七へ飛びかかった。
人並み外れた機敏な動きで全てをかわしながら、弥七が扇子の先をグレイ達へ向ける。
持ち手に隠された小さなスイッチを押すと、グレイ達は金切り声を上げて畳に転がった。
弥七は傍らに倒れた一体の腕を引き千切り、その腕から生える鋭利な爪先を利用して他のグレイ達を次々と刺し殺していく。
全てに止めを差し終えると、扇子も腕の残骸も投げ捨てて、唖然と立ちすくむフィーネに近付いた。
「何て奴っ……お前みたいな獣風情にあたくしが!お前はただの結合種ではないわ、一体何なの!?」
フィーネは叫んで後ずさる。
無言の弥七の手が、壁側へ追い詰められたフィーネの頭上に伸びた。
「……あはん、本当に良いのかしら」
唇を歪ませてフィーネが呟く。
「この身体は元々、辺境の村に住む女のものだった。あたくしを殺すということは、何の罪も無いこの人間を殺してしまうということなのよ?」
一瞬、弥七の手が止まる。
しかしすぐにフィーネの頭を両手で抱え上げると、渾身の力を込めてそれを捻った。
「ぐぁ、ァッ!!」
潰れた悲鳴が洩れ、フィーネが涎を垂らして必死に弥七の手を引き剥がそうとする。
こんな所で、こんな奴に。霞み始める意識の中でフィーネは紫の瞳に涙を滲ませた。
(あたくしは、必ず――……!)
そのまま弥七が勢いに任せて首を思いきりへし折ると、ゴキゴキと手首の時よりも盛大な音が響き渡った。
しん、と一瞬の静寂が訪れる。
「…………」
手を離した途端、畳に崩れ落ちる女の身体を眺めながら弥七は思う。
天子のために死ぬ覚悟なのだから、人を殺す覚悟も当然しているに決まっている。
それで彼女を守れるなら鬼にでも何でもなってやろう、と。
「や、弥七……」
天子が僅かに身体を起こして弥七を呼ぶ。
ゆっくりと振り返った青年の法衣は彼自身の血で濡れて、大量の汗を吹きながら荒い呼吸を繰り返している。
前髪の隙間から見える白目も赤く血走っており、爛々とした鋭い眼光に天子はびくりと肩を強張らせた。
まるでそれは――鬼のようで。
天子に近寄る弥七へ、気遣わしげな言葉が掛けられる。
『あまり長くは持たないよ。物理的な手術とは違って、別次元から無理矢理に覚醒させたようなものだから。
君の身体はその急激な変化についてはいけないだろう……だから急いだほうが良い』
すでに、弥七の左側の視力は失われつつあった。耳もどこか遠く感じる。
だが天子の姿は見える。天子の声は聞こえる。それだけで充分だ。
「弥七……そなた一体……」
聞きたいことは山程あるのに何も言えず、天子はただ眼前の弥七を見上げていた。
茫然とする彼女の身体を抱き上げた弥七は、足早にその座敷から出た。
声の主の言う通り、もう時間は残されていないことを自覚している。
早くここから逃がさなければ。天子だけでも生かさなければ。




