心の在処を探れ
静まり返った廊下を這うたびギシ、と床板が軋む音が響く。
(どうやら堂内の人間は皆、出払っておるようだの)
周囲に余計な雑念が無いぶん、弥七の気を探し出すことに集中出来る。
彼の居場所が何となく分かるのだ。
むしろ、この身から神が消えた途端に霊力が増している気さえする。
神を身体に宿すには相応の対価を支払わなければならないため、自身の霊力を分け与えていたからだ。
奪われる必要の無くなった力が内側からみなぎるようだった。
ようやく外へ出ると、天子は草むらに身を隠し注意深く辺りを窺う。
だだっ広い境内にもやはり人の姿は無く、遠く本堂のある方向から夜風に乗って怒声だけが届いていた。
皆、火消しに追われているらしい。
天子はほっと安堵した後、草むらから出て這い始めた。
本堂の反対に建つ建物の一室へと。
腕力だけで進むのは体力の消耗も激しく、なかなか自分の思う通りにいかない身体に気ばかりが焦る。
次第に息が上がり、汗が吹き出て、這うたびに純白の襦袢が土で汚れる。
そこら中に転がる小石が皮膚に食い込み、血が滲むのにも構わず腕を力任せに動かし続けた。
「あの拷問に耐えたのだ、これしきの痛み何ともないわ。妾は弥七と一緒なら、いかなる苦難にも負けはしない」
必ず弥七を見つけて共に逃げる。
二人で生きるために。こんな身体になろうとも、彼とならきっと乗り越えられるだろう。
弥七への想いだけが天子をひたすら前へと突き動かしていた。
どこまでも強くなってみせる。
だってもう独りではないから。
◆
「……あらお姫様。本堂で火事があったようだけど、混乱に乗じて逃げ出すなんて勇敢ね。貴女のことはヤコブに一任してあるはずなのに、あの人は一体何をやっているのかしら?」
その部屋の襖を開けた途端、突然背後から四体のグレイが姿を現した。
グレイ達は無表情で天子の身体を強引に押さえ付け、うつ伏せたまま身動きが取れなくなった。
顔だけを上げると、妖艶な裸体姿で男の胡座の上へ跨がるフィーネが可笑しげに呼び掛ける。
「まぁ大方、人間達を率いて消火に追われてるんでしょう。彼らに任せて置けば良いものを。面倒見が良いというかなかなかに苦労性だわ、あの人も」
視界に飛び込んで来た光景に、天子は目を見張った。
フィーネの裸身を抱えながら座る男は、法衣の衿を大きくはだけさせて彼女の豊満な胸に頭を埋めている。
男の目元は長い前髪で隠され、表情を窺い知ることは出来ずとも、その人物を見間違えるはずなんて無い。
「やし、ち?」
天子は上擦った声で彼の名を呼ぶ。
心臓がどくどくと嫌な脈を打ち、凍りついた頭はまともに思考することさえ出来ずにいた。
分からない、解りたくない。
あまりにも信じ難い。彼が他の女と抱き合っているなんて。
「何故だ、弥七……どうしてそのような女を愛でておるのだ……」
「無駄よ、脳の回路を操作したから。この男はお姫様はおろか、自分のことすら覚えていないわ。
だってあたくしのペットに自我なんて必要無いでしょう?」
「偽りを申すでないわ、弥七が妾を忘れたなどと!」
「本当よん。貴女を好いていた彼はもう居ないの。今だって貴女のことなんて見向きもしてないじゃない」
「っ、弥七、しっかりしろ弥七!」
どれ程叫んでも、まるでここに天子の存在など無いかのように弥七はフィーネと抱き合ったまま微動だにしない。
それどころか顔を合わせようとすらしないのだ。
「弥七――……」
言葉を失った天子から視線を外すと、フィーネは口許を緩く綻ばせた。
「あたくしが欲しいのはこれよ」
フィーネが弥七の首に両腕を絡ませて唇を重ねる。
深い口付けに応えるのと同時に、弥七の掌が彼女の身体を滑っていくのを見た天子は驚愕した。
「何、をっ」
ふと唇を離した後、フィーネはうっとりと吐息を零す。
「あぁ……やはり純粋で若い男は格段に美味しい。生殖行為から生じるこの痺れるような生体電流に勝る悦びなど、ありはしないのだわ。
心を不要なものとして排除し、常に自らを造り変えて来たかつてのあたくし達は、失って始めてそれが命たるものであることを知った。
情動を司る機能を消すのは簡単。でも再び取り戻すのは難しい。だからあたくしは心を知るために、この仮の器を使って命の実感を得ているのよ。
そうしなければ……悦びを感じられなければ、一体どうして自分が生きていると言えるの?」
かつてオリオン星系は怒りや憎しみなどの荒んだエネルギーが蔓延する領域だった。
星の内外でも大きな争いが絶えず、ついには母星ごと消滅させてしまったという苦い歴史がある。
過ぎた化学力に溺れ、感情を制御することが出来ずに翻弄されたのだ。
感情こそが進化を妨げるものであると結論付け、自身のDNAや神経回路を改変して、合理的な思考能力を得られた所までは良かった。
だが、最終的に行き着いたのは進化ではなく退化という結末である。
種としての生命力も弱まってしまい、もはや自身の力では繁殖すら不可能なのだから。
ヤコブとフィーネは母星を失った後、宇宙空間を漂ううちに地球という惑星を見付け、人間に憑依して様々な調査を行ってきた。
しかし誤算だったのは、器として利用している肉体の影響で二人に情動らしきものが芽生え始めたこと。
この作用はフィーネを歓喜させた。
例え偽物の身体であろうと感情も快楽も感じられるのだ。
生殖行為を通して、確かに自分がここに生きているのだと思い出すことが出来る。
“命”でいられる。
「――それってとても素敵だもの」
宇宙で散り散りとなった同胞のためにも、わざわざ人間に乗り移らなくて済むような地球環境での生存方法を考えなければならない。
やがてはこの惑星そのものを手に入れる予定なのだから。
もちろん、既存の人間達は奴隷か全滅させる他ないだろう。
高度な文明を持つ者が、知能が低い別の生物を喰い物にするのは当然の摂理だとフィーネは考えているのだ。
「それにしても何故ヤコブはまだ貴女を生かしてるのかしら、とっくに用は済んだはずなのに。
あの人、最近変だわ。貴女を殺すなと釘をさして来たり、妙に呆けて考え込んでいたり……まるで何かに囚われているかのように」
フィーネは真剣な面持ちで思案していたが、すぐに興味を無くし弥七の頭を撫でながら言う。
「どうやら貴女が居るとこの男の精神が乱れるみたいなの。あたくしの洗脳が解けることは無いと思うけど……邪魔なのよねぇ」
「弥七……やはり、妾のことが分かるのか?そうなのであろう!?」
「困るわ。せっかくあたくし好みに仕立て上げたペットなのよん?」
天子を軽く睨み付けた後、フィーネが再び弥七へ口付ける。
「……っやめよ!」
艶かしい水音を響かせ繰り返されるそれに、天子はぐっと奥歯を噛む。
耳を塞いでしまいたい。見たくないのに、眼前の男女から目が離せなくなる。
飢えた獣のように弥七はがむしゃらにフィーネの柔肌を貪り、フィーネは白銀の髪を揺らして悩ましげな声を漏らした。
「弥七……っやめ……」
まるで見せつけるように彼と愛し合っているその姿が、天子の視界一杯に映し出されていた。
「こんな……嫌だぁ……っ!」
瞳から熱いものが溢れ出る。刃物で全身をずたずたに千切られているかのような鋭い痛みに襲われて、天子はこぶしを固く握り締めた。
息が苦しくて堪らないのにせり上がる嗚咽が止まらない。
「く……ぅ、っ」
細く骨張った弥七の指先も、少しかさついた薄い唇も自分だけのものだ。
他の誰にも触れて欲しくないのに。
彼の抱擁を受けるフィーネが恨めしくて憎らしくて堪らない。
深い悲しみと同時に、どす黒い何かが心の中を充満する。
――何て穢らわしい悋気だ。
ただ這いつくばるしかない自分が酷く惨めで情けなく、悔しい。
一体いつからこんなに脆くなってしまったのか。
涙を流すことなど滅多に無かったのに、強く在ろうとしてきたのに、弥七と出逢ってからは泣いてばかりだ。
愛することは幸福だと思っていた。
誰かを愛するからこそに辛く苦しく、醜い心に侵されていくなんて知らなかった。
一度それを知ってしまえばもう、無欲で何も知らなかった頃の自分には戻れない。
ああそうか。
愛とは、穢れなのだ。
「それでも……妾は巫女よりも女としての生を選んだ」
神への崇仰を捨て、巫女の役割を捨て、欲深い俗世にまみれることになったとしても、彼とともに生きることを願ったのだ。
天子は滲む視界で弥七を見据える。
「妾はそなたが居なければ生きてはゆけぬ、一人では生きる理由が無い。二人でなければ意味が無いのだ。
弥七、妾の声はそなたに届いているか?何故……こちらを見てくれぬ。
妾はこの世の誰よりもそなたのことを愛しく思うのだ!答えよ弥七、そなたの心はどこに在る!?」
直後、弥七と口付けていたフィーネがくぐもった悲鳴を上げた。




