幸福を舐めまわせ
――月が見ていた。
熱い舌が首筋を伝い、唇を噛んで堪える天子をさらに責め立てるように、弥七は彼女の耳朶をきつく啄む。
窪みにまで浸入して生々しい唾液の水音が響いた。頭の中が掻き回される感覚に、ぞくぞくと身震いが襲う。
拘束する手首はそのまままに、弥七は天子の身体に顔を埋めた。
「な!?」
駄目だ、間違ってる。こんなことは止めさせなければ。
そんな思考が過ったのは最初だけで、肌に残る水滴を彼が優しく吸い取るたびに、天子の頑なな心が少しずつ打ち消されていった。
唇が、指先が、触れられた所から彼の思念が鮮明に伝わってくる。
声無き、声が。
出逢った時から天子を好ましく感じていたこと。
天子の憂いを晴らせず、何も言えない自分に無力感を抱いたこと。
天子を守り抜くと十亀の遺体に固く誓ったこと。
だからこそ天子が死ぬと口にしたことは許しがたく、胸を抉られるような悲痛に裂かれたこと。
天子への劣情を抑えられない青臭さに自分でも困惑していること。
しかしそれ程までに、愛しくて堪らなくなっていることを。
「弥七……」
呼ぶと僅かに身を起こし、熱い吐息を漏らしながら天子を見下ろしている。
月の逆光を背中に背負うその姿に息が詰まった。
精悍でやけに男臭く、天子が初めて目にする雄の面持ちだったからだ。
求められているのは他でもない、女である自分自身なのだと理解し、涙が溢れてくる。
これは長年夢見たことではないか。
叶うはずのない、叶えてはいけないのだと自戒していたこと。
巫女としてではなく、女として生きてみたい。
一体どうして彼の想いに抗うことが出来ようか? 喉から手が出る程に欲しかった切望が、ここにある。
「妾は、愛を知りたい……巫女ではない自分をずっと誰かに求められたかったのだ」
天子は細くすすり泣いた。
果たすべき天命を投げてまで情愛を欲する自分の弱さを、情けなさを、浅ましさを自覚したからだ。
神との契りを裏切り、人の男を選ぼうとしている。
これまで必死に保っていたものが音を立てて崩壊していく。それは恐怖であったし、同時に歓喜であったかもしれない。
ただただ、胸が軋んだ。
「…………」
止めなく天子の頬を流れる雫を、弥七が宥めるように舐め取った。
拘束が解かれると、天子は何も言わずに彼の背中へ腕を回す。
彼女に出来る精一杯の了承だ。
そこからはもう、与えられるものに身を任せた。
骨ばった指先に身体が暴かれ、未知なる感覚に全身が戦慄く。
求めてやまないものであるはずなのに酷く恐ろしく、言い様のない後ろめたさが沸き上がる。
うわ言のように神への赦しを乞い、大粒の涙が零れるたびに、弥七の舌先がそれをすくっていく。
熱が互いの波動を溶かして二つが一つに融け合った。
夜風の冷たさも、内側から火を灯された肌にとっては心地良い。
やがて閃光のような強いエネルギーが仙骨から脊髄を一気に駆け上がり、頭から抜けていくのを天子は感じた。
「っ、弥七……」
思わず傍らの草を握り締める。小さなそのこぶしを、弥七は自分の手の中に閉じ込めた。
「……もっと、もっと強く妾のことを抱き締めていて」
幼子のように甘えながら天子が抱擁を強請る。
渇いていた。注がれてようやく気付いた程に、愛に渇いていた。
満たされて尚、渇くばかりだ。
天子は生まれて初めて貪欲の感情を知った。
巫女としての自分を捨て、一人の女になったのだ。
◆
ついに彼女を穢してしまった。
月を見上げながら、木の幹に腰を下ろす弥七はがっくりと肩を落とす。
やんごとなき身分の巫女姫を、衝動に任せて押し倒したのだ。
不相応どころか打ち首に値する重罪である。下劣だ、俗悪だ、獣以下だ。
まさか、自分がこれ程までに堪え性の無い人間だとは思わなかった。
それだけ彼女に焦がれているということなのだが、しかしあまりにも情けなく、激しい自己嫌悪が腹中を蝕んでいた。
大切にしたいと思えば思う程、気持ちばかりが募って空回る。
はぁ、と何度目かの嘆息を付く。
「ええいっ、いつまでもうじうじとシケた顔をするでない!」
行為の後、再び滝水で身を清め終えた天子が近付いて叱咤する。
きちんと衣服を着てはいるが、髪はまだしっとりと濡れていた。
一向に沈んだままの弥七の姿に眉をしかめ、天子は瞳を揺らして俯く。
「それとも後悔しておるのか、妾とまぐわったことを」
「……!」
――しまった、間違えた。
そんな悲しげな顔をさせたくは無かったのに、心を晴らしてやりたいと思っていたのに、余計不安にさせてどうする。何をやっているんだ。
弥七は内心慌てながら首を左右に振りかぶった。
ほっとしたように天子が微笑む。
「なら良いのだ。仏門とは違い、妾はまぐわいを穢れなどとは思わぬ。そなたが気に病む必要は無いのだぞ」
本来、巫女というのは女の身体を用いるものなのだから。
巫女が操る数々の呪術の中には、性交によって相手の波動を増強させる術もあるくらいだ。
古の神道では“性”は“聖”であり、神に通じる崇高な儀式であったと言われている。
天子はまだ実際にはその術を使ったことは無いものの、知識はあり術法も学んでいた。
「穢れとは思わぬが……花籠の神に対しては不敬であったな」
決して後悔はしていない。しても意味が無いからだ。
一度考え始めると果てしない罪悪感に襲われてしまう。
だが同時に清々しさも感じていた。
「もう花籠の巫女ではいられぬ。人と番ったこの身では、朝廷へ上がることも許されぬであろう。そなたの前に居るのは、行き場を失くした出来損ないの女だけだぞ。
だからその……あの……な?」
急に天子の歯切れが悪くなり、頬が微かに赤く染まる。
どことなく落ち着きが無く、視線をあちこちに泳がせていた。
「……?」
「うぅっ、ゆくぞ!」
天子は訝しむ弥七の隣に座ると、彼の頬に両手を添え、ゆっくりと唇同士を重ね合わせた。
途端、弥七は微かに身じろいで逃げ腰になったが、天子がそれを許さなかった。
つかの間の静寂が訪れる。
暫くして離れると、天子は自分の唇をなぞりながら、はにかんだ表情で弥七を見つめた。
「……そなた、先程これはしなかったであろう?」
彼女の身体の様々な場所を愛でたが、弥七は唇にだけは触れなかった。
何故かそれをするのは酷い背徳感を覚えて、はばかられたのだ。
天子が弥七の胸に身体を寄せる。
「そなたが好きだ、弥七……これからずっと妾の傍に居てはくれぬか」
弥七は天子を強く抱き締め、返事の代わりに口付けを落とした。
もう遠慮も負い目もいらない。
触れるだけのものでは無く、深い所まで存分に味わう。
愛していると伝えられないことだけが残念だった。
二人は山並みを何日も歩き続けた。
もはや目的の無い旅だ。何のために旅をしているのか、どこへ向かっているのかすら見出だせないままに。
ただ漠然と、どこか遠く静かな土地で小さな所帯を構えようと決めた。
天子の足は随分と良くなった。
昼はひたすらに歩みを進め、合間に川で捕った魚を食べ、夜は炎を焚き付けながら寄り添う。
そして時々、熱を分け合った。
旅はラクなものでは無かったが、厳しくもままごとのような日々は、二人にとっては幸福と呼べるものだ。
誰にも何にも邪魔されない。
この世界には、自分達しか存在しないとすら思えてくる。
確かに幸せだった。幸せ過ぎてどうしようもない。




