毒に似た恋慕
砂漠の地を、黄金に輝く翼を携えた男が佇んでいる。
その背中へ褐色の少女が呼び掛ければ、振り向いた男は何事かを呟いた。
「――――」
かつて神々の意思とともに天上より降り立った彼らは、この未開の地を支配する教祖であった。
彼らのような翼を持つ天使達のことを、古代の人々は畏敬を込めてこう呼んだ。
黄金人――と。
――またあの夢だ。
幼い頃からいつも見ていた、翼人の男と異国の少女の夢。
無性に懐かしくて少しだけ切ないのは何故なのだろう。
朧気な思考の隅でぼんやりと考えながら、天子は重い目蓋を引き上げる。
差し込む朝日に何度か瞬きをしてから、自分の身体を包んでいる温もりに気付いた。
それが誰なのかは――予想がつく。
「…………」
視線をそっと上へ動かすと、前髪で目元を覆う青年が、厳しい雰囲気を醸して遠くを見据えている。
そうやって一晩中、見張りをしていたのだろうか?
自分は一睡もせずに?
途端、胸の奥が強く締まる。息をするのも苦しくなる程に。
天子の身体を支える腕の力強さや、広い胸板の逞しさを今さらながら意識してしまう。
忙しなく鼓動するこの心音を彼に知られてしまうのは、とてつもなく恥ずべきことではないのか。
だから、つい。
「いっ、いつまでくっ付いておるのだ、恥を知れこの痴れ者がぁっ!」
「っ!?」
盛大な平手が弥七の頬を打ち、乾いた音が鳴り響いた。
弥七が呆気に取られて固まっているうちに、天子はすぐさま青年の腕の拘束から抜け出て立ち上がる。
あのまま、彼に包まれる居心地の良さに流されてしまいそうな危機感を覚えたからだ。
そんなことは許されない。
神の妻の身でありながら現世の男にうつつを抜かすなど、巫女として絶対にあってはならないことだ。
微かに熱を持った左頬を手で押さえる弥七は、乱れた前髪から覗く瞳を大きく見開かせている。
何が何だか分からないと戸惑っているのだろう。
その様子に少し、いやかなり良心が痛まないでも無かったので、天子は取り繕うように弁解した。
「いや、えーっと、あの……すまぬ。ちと寝惚けておったのだ。
それより、ずっと見張っておったのか?そなたは休まずとも良いのか?」
こくり、と弥七は頷く。
まだ頬には若干のひりつきを感じるし、そもそも打たれた理由も不明だったのだが、不思議と天子に怒りを感じない。
気まずげにこちらを窺ってくる天子の青ざめた顔が妙に可笑しいのだ。
普段は巫女らしく振る舞っているのに、急にじゃじゃ馬になってみたり。
達観しているかと思えば、無邪気な子供っぽさが垣間見えたり。
強気なことばかり口走っているわりには、常に寂しげな表情を浮かべているのだから。
本当にこの少女は、ちぐはぐだ。
だがそこが堪らなく愛らしいと思うのは、きっと惚れた欲目なのだろう。
「な、何を唐突に笑っておるのだ。ちと気味が悪いぞ」
訝しがるその視線を受け流しながら、弥七は天子を背中に背負う。
また抵抗でもされるかと思ったが、天子は意外にも大人しく応じてくれてほっと安堵する。
弥七は眼前を強く見据えた。
この軽すぎる小さな身体は、命を掛けて守る価値のあるものだ。
◆
――どうしてこんなことになった。
柔らかな野草に天子の手首を押し付けて、夜の帳に浮かぶ彼女の白い裸身を組み敷いたまま、弥七は激しく自問していた。
「や、弥七……?」
天子の額にはまだ新しい掠り傷が付いている。
日中、足元を滑らせ転んだからだ。
ずっと負ぶさって移動するのは申し訳が立たないからと、天子が自力で歩こうとした結果だ。
開拓された歩きやすい山道は追っ手に見つかる可能性も高く、どうしても獣道を行かざるを得ない。
だから急な斜面に足を捕られてしまい、結局はまた弥七が背負うことになったのだが。
生い茂る草木の間を隠れるようにして進み、その甲斐あって僧兵達にも出くわさずに済んでいる。
もう諦めていると良いのだが、何故か彼らは天子に過剰な執着を見せているので用心に越したことは無い。
途中、弥七は竹筒を持って一人で滝の水を汲みに行った。
すると天子が水場があるなら行水をしたいと言い出したのが先刻のこと。
清潔を保つことは邪気祓いにもなるらしく、巫女として大事な努めだと言うので、押し切られる形で天子を滝まで連れて行ったのだ。
それで彼女が喜ぶなら――と。
しかし、すぐさまその選択を後悔することになった。
滝の傍に降ろした途端、天子が手早く白衣と袴を脱ぎ始めたからだ。
弥七が唖然としている間に襦袢すら取り払って裸になると、滝水が溜まる池にゆっくりと入っていく。
天子は腰まで池に浸かり、彼の戸惑いなど気にも止めずに、ご機嫌に鼻歌を歌いながら水の感触を楽しんでいた。
――何でいつもそんな簡単に。
瑞々しい裸体を見せつけられ、くらりと卒倒しそうになる。
羞恥心というか、大切な何かが欠けているのではないか。
いっそ恨めしく思いながらも口を強く引き締め、弥七は眼前の少女から視線を外した。
目の毒にしかならないからだ。
やたらと唾液が溢れてしまい、何度も喉を動かし続けた。
「見よ。今宵も美しい月だな弥七」
「…………」
頭を上げると、昨日と同じ丸い月が煌々と耀いている。
「昔からな、天を眺めておるとどうしようもなく焦がれてしまうのだ。あの場所こそ真に在るべき故郷であるような気がして。
知っておったか?魂は死した後に、天へ還り輪廻するものらしいぞ。
それが本当なら、妾も今とは別の妾になれるのだろうか……?」
天子が身じろぐと水面に波紋が広がり、月の灯りに当てられた肢体は儚い幻影のようでさえあって、憂いを帯びた横顔が夜空を見つめていた。
「本当は……朝廷など行きたくはない。どこにも行きたくはなかった。
どこへ行っても妾は“花籠の巫女”から逃げられはしない。ただ誰かを呪うためだけに生き続けなければならない宿命なのだ。
そんな妾に、十亀と弥七の生涯を狂わせてまで生きる資格があるのか?
いっそ、妾はここで――死んだほうが良いのではないか?」
直後、天子は息を飲む。弥七の放つ気配が変わったからだ。
ばしゃり、と弥七が水に足を入れる。
困惑する天子の身体を荒く抱き上げると、そのまま奥の野原まで歩いて行った。
草の上に天子を転がして、手首をまとめて頭上で拘束し、その華奢な身体に覆い被さった。
前髪の隙間から、ぎらりとした榛色の双眸が彼女を見下ろしている。
「……怒って、おるのか?」
「…………」
「そうであろうな。こんな体たらくな妾なのだから。だからこそ分からぬ。
何故そなたは己の身を省みず、こうして助けてくれるのだ?どうしてそれ程までに……妾を好いてくれるのだ?
そなたの思いに気付かぬ程、 この妾は愚かでは無いつもりだぞ」
「…………」
理由なんて、あるようで無い。
もしも弥七の口が利けるようになったとしても、この感情を表現出来る言葉などありはしないのだ。
「妾のような女はやめておけ。この空っぽの器にどれだけ精を放っても何も成し得ることはない、虚しいだけ。
それに妾の身体は、すでに神によって暴かれた。妾は――穢れておるのだ」
神に捧げた身体であるくせに、その神を“穢れ”扱いするなんて。
何て罰当たりなことを。天子は言いながら自責の念に駆られた。
でも、だけど、だって、そう思ってしまった。
女として大切な価値を全て失くしたのだと、思ってしまった。
「そんな女など……嫌であろう?」
「…………」
弥七は天子にのし掛かって動きを封じ込め、彼女の額の傷痕へ口付ける。
傷の形を確かめるように舌先でじっとりとなぞると、小さな悲鳴が漏れた。
「ひっ」
止まっていた血が滲み出して、痺れにも似た痛みに天子が眉を寄せる。
後で薬草を塗って消毒しなければ――と考えつつ、弥七は戯れを止めることはしない。止められない。
どうしてこんなことになった、とつくづく思う。
こんなはずじゃ無かった、とも。
何故だかこの少女を前にすると、理屈を超えた熱い何かに心を揺さぶられて平静ではいられなくなる。
「だっ、駄目だ弥七、こんなの神が赦しはしない。そなたまで神の逆鱗に触れるやもしれないのだぞ!」
やはりまだ子供だ。そんな言葉で、男の情欲の高ぶりを止められると思っている。
だから異性に対する危機感が薄く、認識が甘いのだろう。
ならばこんな風に間違いが起きても、文句など言えない。
間違いは起こさない人物だ――と弥七を信頼していたならば、やはりそれも浅はかな考えだ。
恋慕の感情は、全ての人間を等しく狂わせるのだから。




