月は人々を見ている
永承五年(1050)。
天子は、花籠大社の巫としてその生を受けた。
幼少の頃より霊力の高さが認められ、数々の過酷な巫女修行を課される日々を送っていた。
やがて成長すると、定められた神託に従い彼女は神の元へと嫁いだ。
正統な“花籠の巫女”となったのだ。
天子が十一歳の頃である。
それから五年の年月が流れた。
天子は、遠方から人々が訪れる程の有力な巫女になっていた。
ある時は神託を降ろし、ある時は呪詛を操り、またある時は雨乞いのための舞を踊る。
灯火に群がる蛾のように、人は神秘の力に貪り付く。
力を使えば使う程に精神は擦り切れていったが、これが使命なのだと納得していたし、満面の笑顔で感謝されるとやはり嬉しい。
例えその微笑みが我欲にまみれた醜いものだったとしても。
呪術を生業とする花籠大社を訪れるのは、他者を妬み、恨み、呪わんとする歪んだ者達ばかりだった。
次第に人の業深さに嫌気も差す。
巫女として産まれてきた。だから巫女として死なねばならない。
自分にはそれ以外の存在価値など何も無いのだから。
時折――ふと天子は思う。
どうして自分だったのだろう、と。
神に選ばれなければ、巫女でなければ、ただの村娘だったなら、家庭を持ち子を成す生があっただろうか?
誰かを愛し、誰かに愛される。
もしもそんな幸福があったなら。
花籠の神に嫁いだ日。儀式の夜の出来事をいつも思い出す。
仄暗い本殿の中、天子は神の御前で一糸まとわぬ姿にさせられて蠢く何かに全身を巻き付かれていた。
只人には見えないはずのそれが天子の目にはうっすらと視て取れる。
黒く光る大蛇だ。それは卑猥な動きで這いずりながら、天子の股を大きく開きずくりと胎内を貫いた。
子宮を食い潰されるような痛みに絶叫する。何をされたかなど、当時の幼い彼女に理解出来るはずも無い。
あまりの恐怖で意識を失い、目覚めた時にはすでに神の所有物である刻印が身体に印されていたのだ。
天子には十六年間、月のものが来たことは無い。
この肉体はただの依り代となり、もはや女の機能すら失くしたことを悟った。
生涯、命を産み出せない身体だ。
涙は出なかった。
強気でいれば、強くいられるから。
強く在らねば。自分の内に潜む悪しき想いに飲まれないために。
◆
大きな満月が浮かぶ夜。その月明かりに照らされた山道を、僧兵達が荒々しく駆けていた。
「おいお前、娘は居ったか!?」
「くそっ……こちらには居らんぞ」
「村の家屋は全て探したが、どこにも居なかった。やはり逃げられたか?」
「だとしたら、退路はこの山を越えるしか無い。何としても見つけ出せ!」
次第に足音が遠退いていく。
大木の陰に身を潜める弥七は、天子を抱えて腰を下ろし、彼女の口を手で塞いだ状態のままじっと窺った。
もう人の気配は無い。上手く撒けたようだと安堵していると、甲を軽く叩かれた。
見やれば恨めしげな視線が必死に弥七へと訴えている。
思いの他、強い力で押さえてしまっていたらしい。
内心焦りながら離してやると、天子は胸に掌を当てて息を吐いた。
「妾はもう大丈夫だ、取り乱してすまなかった。婆殿のことは……無念であったな」
気丈に振舞ってはいるが、微かに震える身体を弥七は腕の中で感じる。
彼女はいつもこうだ。人嫌いだと言いながら情深い。尊大な態度で、脆さを隠せているつもりなのだ。
だからあえて何も気付かないふりをして、黙って頷く。
やり切れない様々な感情を押しやるように、天子の身体を抱く腕をより強固なものにした。
大切な人を失ってしまった。
せめてこの少女だけは守らなければ。
弥七は、父親の顔を知らない。
遠い異国の男との間に授かった命らしいが、詳しいことは聞かされてはいない。
目の色と気味の悪い念力のせいで母親にも疎まれて育ち、故郷の村が盗賊に襲われて家族全員を目の前で惨殺された。
何とか一人生き延びたものの、衝撃で口を利けなくなり、あてもなく彷徨っていた所を十亀に拾われたのだ。
同じく流れ者である十亀は、実の息子のように弥七を可愛がった。彼女もまた傷心を抱える者だったからだ。
「何を呆けておる弥七。今後のことだがな、妾はどうにか山を越えて朝廷へ助けを求めるつもりだ。
だが、そなたをこれ以上厄介ごとに巻き込みたくは無い。妾を置いて逃げても良いのだぞ」
歩けもしないくせにまだ強がりを言う。本当に徹底しているな、と弥七は苦笑した。
どのみち今夜は動けない。無闇に暗がりの山中を歩き回るのは危険だし、まだこの辺りを僧兵がうろついているかもしれない。
ここで一晩明かすことになるが、育ちの良さそうな天子が、野宿やこれからの山越えに耐えられるだろうか。
「そなた今、何か無礼なことを考えておるだろう」
じとりと半眼を向けられ明らかな動揺を見せる弥七に、ますます唇を尖らせてそっぽを向く。
「まぁ良い。そなたの言わんとすることは何となく感じるからな。
見くびるでないぞ、妾は修行で山籠りもしていたのだから心配は無用だ!」
お荷物扱いされたと思うらしく、天子は拗ねたように顔を伏せた。
二人の周囲はひっそりと静寂に包まれている。
夜の山は酷く冷える。だから――という訳では無いが、天子は無意識に弥七の腕の中で身じろぐ。
彼女の甘やかな香りが鼻腔に届いて、思わず弥七は奥歯を噛み締めた。
小さく華奢な肢体は、しかし驚く程に柔らかく、布越しに伝わる体温が別の熱さをも呼び起こす。
目にしてしまった彼女の裸身が、脳裏から離れてくれない。
――こんな時に何を考えてる。
と、弥七は自分を罵倒したくなったが、こればかりは本能的なものなので仕方が無いとも思う。
あの日、天子を一目見た瞬間に惹かれていたのだから。
初めて出逢った時は、武装した男相手に噛み付いて威嚇する天子の豪胆さにぎょっとした。
しかし言動とは真逆のもの悲しげな瞳に気付いた後には、無意識に彼女を連れ帰っていたのだ。
みだりに巫女に触れるなど、許されることではないのに。
「……ん」
微かな吐息が聞こえ心臓が跳ねる。
天子は弥七の胸板に頬を寄せて、安らかな表情で寝入っていた。
最初はあんなに触れられるのを拒絶していたのに、と口元が緩んでしまいそうになる。
自惚れるなと自戒しつつも、つい天子の耳朶を摘まんで感触を楽しんでいると、くすぐったいのか甘えるように首を竦めた。
愛しさに喉が詰まる。どうしようもない劣情にも駆られたが、それは耐えなければならない。
彼女は俗世の者ごときが穢してはならない巫女姫であって、朝廷まで無事に送り届けるためにこうしてともに居るだけなのだ。
そう、耐えなければ。
満天の星々を仰ぎながら、弥七は深い溜め息を漏らした。
――夜明けまでは長い。




