眼を見開け
アエトスが私の頭に手を置いて、宥めるように髪を滑らせる。
「理花、私の記憶とは何のことだ。何か――観えたのか?」
「ううん……何も。ただアエトスと一つになれた気がしただけだよ」
きっと先程のあの白い鷲はアエトスだ。酷いことを沢山されて、人を呪いながら死んでいった。
だから彼は私以外には冷たい。今でも人間を憎んでいるのだ。
じゃあ何で私を助けてくれるの?
そもそも彼の正体だってもっと早くに問いただすことだって出来たはずなのに、それはしなかった。
私自身が、深く考えることを放棄していたから。
私は――――彼を知っている。
昔、どこかで逢ったことがあるような気がするのだ。
本当は最初から気付いていた。だからその異形な姿に驚きはしても、怖いと感じることは無かった。
でも、いつどこで出逢ったのかをどうしても思い出せない。
知りたいのに何故かそこには触れてはいけないような気さえして、彼にもずっと聞けないでいる。
アエトス――私の騎士。
自分のことを“呪い”だと言う。それがとても切なくて、泣きたいくらい悲しかった。
彼の過去に、一体何があったというんだろう。
(これで……良かったんだよね?)
そっと首筋をなぞると、血どころか傷の感触すら無い。そういえば痛みも引いている気がする。
驚きつつアエトスの顔を窺えば、彼はどこか満足げに頷いた。
「良く似合っている」
「えっ?」
私はアエトスから離れて周囲を見渡し、床に散らばった銀のスプーンを拾い上げて鏡の代わりに覗き込む。
そこにはやっぱり傷なんてどこにも無くて、蓮の花のような印だけがくっきりと浮かんでいた。
(わぁ、ちょっと綺麗かも)
少なくとも不気味な眼より全然良い。
贅沢を言うなら、もう少し目立たない場所にして欲しかった。
……と考えていると、咬まれた時の生々しい感覚まで一緒に思い出してしまって頬に熱が集まる。
今さらだけど実はものすごく恥ずかしい行為だったんじゃないかな。
だって、男の人が女の人の身体に印を残すことをキスマークって――
「わあぁぁっ」
「理花?」
すぐ背後からアエトスの気配。手からスプーンがぼとりと落ちた。
恐る恐る振り返ると、どこか怪訝そうに首を傾けている。
――顔をまともに直視出来ない。
「で、結局お前らどうするんだ?」
ぽうっと惚ける私に向けて、自分の腰に手を当てたマーヤが訊ねる。
「ここから逃げ果せたとしても、行くアテなんか無いだろ。ウチらはお前達が異界を渡ったと知っている。だからこうしてわざわざ迎えに来てやったんだぜ」
「……どうして?」
彼女達はどうして私のことを知っているんだろう?私を連れて行こうとするのは何故?
そしてその“答え”は、信用しても良いものなんだろうか?
眉を寄せていると、マーヤの隣に立つエリックが付け加える。
「僕らは世間で新興宗教団体〈ノア〉と呼ばれています。実態は少し違うのですが……まぁとにかく、君が今日この街に現れることは“予言”で分かっていたことなんです。
君には是非その予言者――我らが母に逢って貰いたい」
「いずれにしても理花が決めることだけどニャー。ボクちんは、全てを知ってからでも遅くはないと思うニャン」
ベリエールが片目を瞑って、また下手くそな目配せをする。
全員の視線がこちらへ寄越される。
ここは自分で決断しなければいけない、ということだろう。
だけど選択肢なんて――あってないようなものだ。
「さっきアエトスに逃げようって言うつもりだった。……怖かったから。
でも逃げる場所なんてどこにも無いんだって、本当は分かってたんだ。分からないふりをしていれば、向き合わなくて済むと思いたかったの。
だけど、今は知りたい。何で私ここに居るんだろう?
だって私がこの世界に来なければ、この人だってこんなことにはならなかったかもしれないでしょう?」
私はまた馬の獣人の所へ行き、その身体の隣にしゃがみ込んで彼を見つめながら言う。
鼻の奥がつんと痛み、唇を噛んだ。今ここで泣いたら駄目だ。
強く握ったこぶしの中で爪を立てながら、マーヤを真っ直ぐに見上げる。
「あなた方と行きます。本当のことを知るために。その代わり、アエトスの傷の手当てをして下さい」
「どっちかっつーと世話が必要なのはお前のほうだと思うが……まぁ良いだろう。お前達には、最低限の手助けぐらいはしてやる」
一瞬眉を寄せてから頷いた後、マーヤは思い出したように言う。
「念のため言っとくが、その馬は連れては行けねぇぞ。奴隷獣の身体に埋め込まれてるブツは、GPSの役割も担っているからな」
「……はい」
この人の遺体を、このまま捨て置かなければいけないのだ。
焦げ茶色のしなやかな被毛は未だその輝きを放っていて、なのにいざ触れると固く、冷たくなっていた。
「…………」
彼の顔を焼き付けるように見つめていると、襟の隙間から十字架のペンダントが覗いているのに気付く。
最初に見た時は、首輪の存在感のほうが勝って分からなかった。
十字架は、人が持つ“原罪”への戒めの象徴だといつだったか授業で学んだことがある。
彼は何を想ってこのペンダントを身に付けていたのだろう。
「一緒に、行こう」
私はペンダントのチェーンを外して、自分の首へ掛け直す。十字架の部分は服の中へ、隠すように仕舞った。
立ち上がり傍らの鳥人を見上げる。
「アエトスも来てくれる……?」
「聞くまでも無い。私はストーカーだからな、例え断られても付きまとうつもりでいる」
悪戯っぽい口調で双眸が細められたから、嬉しくなって私も微笑みを返す。
細やかな目の動きと、抑揚の無い言葉に潜むほんの少しの情緒が、アエトスの心を教えてくれる。
契約してから、それが鮮明に感じられるようになった。
マーヤ達に視線を向けると、通信機のようなもので誰かと話している。
「あぁ、そうだ。ウチらはそこに居るからすぐに――」
その時、凄まじい轟音を立てて一台の車が店内に突っ込んだ。
「っ……!」
アエトスに肩を引き寄せられる。その銀色の車はガラス戸を盛大に破ってから、テーブルを次々となぎ倒しながら私達の目前で停止した。
もともと散乱していた店内は、ついに半壊状態になった。
車のドアから颯爽と出て来たのは、金色の髪を持つ壮年の男の人で、上質そうなスーツからは派手なフリルの付いた立襟のシャツが覗く。
その人は優雅な所作でドアを閉めると、ふうっと息を一つ吐いて前髪をかき上げる。
「やぁ、随分連絡が遅かったじゃないか。待ち焦がれるあまりつい本来の目的を忘れて、街で見かけた素敵な女性とデートを楽しんでしまっていたよ」
そう言って、真っ白に輝く歯を見せながら微笑した。




