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 六話途中からの分岐となっております。

 薫は身体を離し、まっすぐにこちらを見つめた。

「無愛想で我が儘な私を、見捨てないでくれて………………死んでからも、ずっと想い続けてくれて………………きっと世界で一番の幸せ者よ、私。………………今少し浮気をされているようだから一万番くらいかしらね」

「………………………………そうか」

「いやね、泣かないでちょうだい。男の子でしょう?」

「ああ、すまない………………」

「まったくもう………………」

 呆れたように笑って、薫はこちらへ顔を寄せた。

「ん………………………」

 唇に触れた、優しい感触。

「………………………大好きよ、室田君。私のこと、好きになってくれてありがとう」 

「………………………こちらこそ。お前と出会えて、本当によかった」

「そういうセリフは、涙まみれの顔で言われても困るわね」

「すまん………………………」

「また謝る………………………もう………………………」

 泣きじゃくる俺を、薫はずっと抱きしめてくれた。

 涙を掬うその指先は、彼女の顔が向こうに見えるほどに透けていた。



七話



「これなんてどう?」

「いいんじゃないか?」

「これは?」

「いいと思うぞ」

「…………………………」

 ブラウスを前に当てながら、薫はこちらを睨みつけた。

「何故睨む」

「だって、何見せても同じ反応じゃない。選び甲斐がないわ」

「……………どれも似合うのだから仕方ないだろう」

「っ…………………………」

 彼女は身を震わせた後慌てて己の手に目を向けた。

「…………………………ちょっと透けたわね」

「………………………………………そういうことは、目の前で言わないでくれ」

「馬鹿ね、照れるくらいなら言わなかったらいいのに」

「…………………………言わなくていいのか?」

「………………………………………」

「……………服屋で時間を潰すのは勿体ない。そのブラウスにしよう」

「勿体ないなんて言ったら駄目よ。店員さん睨んでるじゃない」

「違う、あれは俺が昨日連れていたのとまた違う女を連れているからだ」

 あれだけはしゃいだから嫌でも覚えてしまったのだろう。

「…………………………ああ、そういうことね」

「分かったらはや…………………………」

 言葉の途中で、薫は抱きついてきた。

 顔を胸にうずめたまま、こちらが痛くなるほどの力強さで抱きしめながら、震えた声が耳に届く。

「今日だけは……………私の室田君、よね?」

「…………………………ああ」

 つい一時間前、約束したことだ。

 もしもを、実現させると。

「…………………………ふふ」

 胸の中、薫は微笑みをこぼし、それから試着室へと駆け込んだ。

「のぞいちゃ駄目よ?」

「フリか?」

「……………どっちがいい?」

「…………………………」

「顔真っ赤よ、このスケベ」

 ベーと舌を出してから、カーテンの向こうへ消えていく。

 そのままいなくなってしまわないかと気が気でなかった。


「美味しいだろう、ここのピザ」

「ええ、あなたのチョイスにしてはなかなかね。雪にでも教えてもらったの?」

「いや。……………一人でしか来たことがない」

「なら、二人で来るのは私とが初めてなのね?」

「本当に好きだな、そういうの」

「ええ、好きよ。大喜び。だからご褒美をあげるわ。……………はい、あーん」

「……………あーん」

「おいしい?」

「俺の選んだ店だからな」

「素直じゃないわね」

 くすりと微笑み、薫は目を伏せた。

「……………ねぇ」

「なんだ」

「周りから見たら、私たち、恋人に見えるのかしら」

「…………………………見えるさ。見えるだろうよ」

「…………………………そう」

 顔を上げ、彼女は大きく口を開けた。

「あーん」

「ピザでいいか?」

「スパゲッティがいいわ」

「分かった」

 適当な量を巻き上げ、フォークを口へと運ぶ。

 慣れた手つき。

 もう何十と繰り返した動作は、おおよそ半年のブランクを経てなお一瞬の乱れさえ見せず完遂した。

「…………………………おいし」

「ソース付いてるぞ」

「拭いてちょうだい」

「…………………………仕方ないな」

 紙ナプキンを口元に当てると、薫はくすぐったそうに悶えながら目を弓にした。

「もう一口お願い」

「えぇ……………」

「ほら、早く」

「…………………………」

 今度は汚さぬようにと気をつけていたのだが、口元へ到達したところで向こうから接触してきた。

「……………おい」

「また汚れてしまったわね。拭いてもらえるかしら?」

「……………子供か、お前は」

「子供よ。まだ甘えたい盛りなの」

 得意げな顔の彼女に溜息を吐きながら、今一度ナプキンを手に取った。



「室田君室田君」

 デパートの中、ファミリー向けのゲームセンターで薫は俺の袖をついついと引いた。

「これ、何?」

 指差した先、アクリル板で四方を固めた筐体の中、動物のぬいぐるみが所狭しと溢れている。

「UFOキャッチャーだな」

「UFOなの?」

 小首を傾げる薫に愛しさを感じながら答える。

「UFOのような形をした腕の付いたクレーンでぬいぐるみなどを掴み上げる。あの穴まで運べたら景品はお持ち帰りだ」

「へー……………」

「そういえば、初めてだったか」

「そうね。あんまりこういうところには来なかったから」

「……………ストイックだったもんな、お前。喫茶店にだけは嬉々としてついてきたが」

「先生にも言われたわ。お前はヴァイオリンと甘味と、あと…………………………」

「あと?」

「…………………………室田君にしか興味がないみたいだ、って」

「…………………………ありがとう」

「………………………………………」

「これ、やってみるか?」

「取れるかしら」

「無理だろうな」

「そうよね……………簡単に取れたら儲からないものね……………」

 口では分かったようなことを言いつつも、その目はファンシーなユニコーンのぬいぐるみから離れない。

「…………………………少し、やってみるか」

「別に欲しいとは言ってないわよ」

「遠慮しなくていい」

「…………………………なら、遠慮なく。取って、そのお馬さん」

「任せろ」


「意外と手こずったな……………」

「千円で取れたわけだけど、原価はいくらくらいなの?」

「六百円か八百円を越えない景品しか置けないと聞いたことがあるが……………」

「それなりに損してるわね」

「そういうものだ」

「それに景品だから随分と作りが甘いわね」

「そういうものだ」

「…………………………お前が取れと言ったんだろうが、とか言わないの?」

「そこまで大切そうに抱きしめられているのを見るとな」

「…………………………」

「店でもっといいものを買い直すか?」

「これでいいわ。あなたが一生懸命取ってくれたものだから」

「……………本当なら、百円か二百円で取ってかっこつけるつもりだったんだがな」

「かっこなんてつけなくていいのよ。……………自分のために頑張ってくれる姿に、女は弱いのよ」

「…………………………そうか」

「ええ、そうなの」

 右腕にぬいぐるみ、左腕に俺の腕を抱きながら、薫は頷く。

「両手に華ね」

「華か?」

「…………両手にクレープね」

「だいぶ満足してくれているんだな…………」

「クレープが食べたくなったわ」

「だろうな。言うと思った」

 

「どれにする?」

「苺とチョコがいいわ」

「……………………二つも食べるのか」

「あなたの分も合わせてよ。食べ比べするの」

「……………………まあいいか」

 デパートの屋上、店員にオーダーを告げベンチへ腰かける。

 隣に座り、こちらへ頭を預けながら、薫が口を開いた。

「晩御飯、何にしようかしら」

「食い意地張り過ぎだろうお前…………」 

「違うわよ。この後買い物に行くでしょう? ならそろそろ考えておかないと」

「……………………いい嫁になれそうだな、お前は」

 苦笑交じりに言って、それからひどく後悔した。

「すまん……………………」

「……………………いいわよ。でも、ちょっと傷ついたから、一つだけお願いしてもいい?」

「……………………ああ」

 頷くと、薫は微笑交じりの顔をこちらに向けて、

「……………………今から、あなたのお嫁さんになりたいな」

「……………………まだ十七なんだが」

「っ………………………………そういう意味で言ったんじゃないわ。気分だけでいいから」

「……………………なんか、すまん」

「……………………あと一年遅かったら、そういうこともできたのね。残念」

「そう……………………だな」

「……………………冗談よ。これ以上、あなたに背負わせたくないわ」

「薫………………………………」

 泣きそうな笑み。

 凛とした表情を崩さぬようにして、薫は立ち上がる。

「ほら、そろそろクレープできたんじゃない? 取りに行きましょう……………………ええと、あなた」

「……………………いつもと変わらないな」

「そういえばそうね。……………………あなたもずっと私のこと名前呼びだし、なんだか実感がないわ」

「……………………そういうものなんじゃないか?」

「物足りないわね……………………」

「……………………クレープ半分食べていいから、それで元気出せ」

「元からそのつもりよ。ご飯前なんだから、あんまり食べちゃ駄目よ」

「それはお前もだろう」

「私はいいのよ、女の子だから。甘いものは別腹なの」

「太るぞ」

「お腹には行かないからいいのよ」

 

「……………………ねぇ」

「なんだ」

 帰り道。

 夕焼けに染まりながら、彼女は俯き、歩みを止めぬまま呟いた。

「…………今の私たち、新婚さんみたいじゃないかしら。二人でスーパーの袋持って歩いているなんて」

「……………………そうだな」

「……………………なんだか、夢みたい」

 薫は、ついと空を見上げ、言葉を紡ぐ。

「…………平日は、あなたが会社へ行っている間に私は家事をして、それが終わったらヴァイオリンを弾くの。家で弾いたら近所迷惑になるから、練習場や河原に行って。あなたが帰ってくる前に戻って夕飯の支度をして、ご飯が炊けたところでちょうどあなたが帰ってくるの。事務仕事に飽き飽きしたあなたは抱きついてきた私をこれでもかとばかりに抱きしめ返して、それから照れたように笑って。一緒に夕飯を食べて、お風呂も入って、あなたの胡坐の上でのんびりして、眠くなったら布団に入るの。…………休日は、家で一日中過ごしたりもするし、こうしてちょっとお出かけして、二人で夕飯の材料を持って帰ったりして」

「……………………………………………………」

「長いお休みがもらえた時は、どこか遠い所へ行くの。春にはピクニックに行って、夏には海へ泳ぎに行って。秋には紅葉狩りに出かけて、冬には温泉に行って。人の多さにげんなりとしながら、二人ではぐれないように手を繋いだりして」

 前を向いたまま、薫はつぶやく。

「……………………ねぇ、室田君」

「……………………なんだ」

「……………………あったのかな、そんな未来も」

「……………………ああ。あっただろうさ」

「……………………ずっと、一緒だったのな」

「……………………そうだろうな」

「……………………そう」

 彼女は頷き、

「……………………それを聞けただけでもよかったわ」

「……………………………………………………」

 しばらく沈黙が続いた後、俺は口を開いた。

「……………………薫」

「なに?」

「ちょっと、止まってくれ」

 隣、不思議そうにこちらを見つめる彼女の前で、俺は買い物袋を下ろし、ポケットからあるものを取り出した。

「っ………………………………それ……………………」

「お前が手洗いに行っている間に、出店で買ったんだ。…………安物ではあるが、気分は出るだろうから」

 俺の右手にあるのは、小さな銀の指輪。

 何の装飾もない、シンプルなそれを持ち上げながら、逆の手を差し出す。

「…………左手、出してくれ」

「……………………いいの?」

「ああ。……………………今だけでも、嫁になってくれるか?」

「っ……………………………!」

 言葉を失った彼女は、勢いよくこちらへ抱きついてきた。

「嬉しいっ……………………!」

「……………………それは、よかった」

 精一杯抱きしめ返してから、改めて向き合う。

「……………………つけるぞ」 

「……………………ええ」

 薫が見守る中、辛うじて輪郭を保っていた指先に指輪がはめられる。

「………………………………」

 銀に輝くそれを見つめる彼女に問う。

「……………………どうだ? 実感は、出たか?」

「………………………………」

 薫は何も言わず、ただ柔らかな笑みを浮かべてこちらへ唇を寄せた。



「ん………………………………」

 胡坐の上、パジャマ姿の薫は眠たげに瞼を擦った。

「そろそろ寝るか?」

「いえ、もう少し……………………」

 くぁ、と小さく欠伸をしながらこちらの胸へ背を預けてくる。

 そのままぎゅうと抱きしめてやると彼女は満足げに目を弓にして、

「……………………もう、手が見えなくなってきたわね」

「……………………そうだな」

「……………………安い女ね、私。抱きしめられるだけで幸福なんて」

「……………………どうだった、今日は」

「ええ。……………………きっと、私が生きていたらこんな感じだったのでしょうね」

 もしも、薫が生きていたら。

 最後に薫は、それを実現したいと言った。

『せっかく生き返ったんだもの。それくらいしてもいいじゃない』

 そんな風にさらりと、自身の死を宣誓した。

「……………………でも、よかったわ。今日だけで死んでしまわなくて」

 輪郭さえ朧な指先を見つめながら、言う。

「明日までもってくれないと、学園生活を味わえないし」

「ここ数日で十分しただろう」

「あなたと付き合っている状態での生活ではなかったもの」

「………………………………それもそうか」

「分かってないわね、本当に」

 溜息を吐きながら、薫は軽く立ち上がり、体の向きを変え正面から抱きついてきた。

 首筋へ鼻を擦りつけてくる彼女を撫でつける、その手に触れる髪の感触さえ、不確かになっていた。

「……………………暖かいわね、室田君」

「……………………興奮しているからな」

「……………………ムードが台無しよ」

「……………………すまん」

「……………………本当に、こういう時は駄目駄目ね。昔から、何も変わって、ないんだから……………………」

 肩に、雫が落ちた。

「……………………ねぇ、室田君」

「……………………なんだ」

「私……………………消えちゃうの?」

「……………………」

「室田君と、離れ離れになってしまうの?」

「………………………………」

「やっと、思いを伝え合えたのに?」

「………………………………」

「……………………室田君」

「……………………ああ」

「最後だから……………………これで本当に最後だから……………………あなたに、甘えさせて」

「…………………………………ああ」

 頷いた直後、彼女は静かに、顔を上げた。

「好きよ、室田君」

「……………………ああ」

「初めて出会った時から、ずっと好き」

「……………………ああ」

「初めて食事に誘ってくれたことも、体育祭で応援してくれたことも、クリスマスイブのコンサートに着いてきてくれたことも、全部全部嬉しかった」

「……………………ああ」

「あなたがいるだけで、幸せだった。あなたが隣にいてくれるだけで、どうしようもなく嬉しかった」

「……………………ああ」

「幸福だったわ、私。死んでしまった私を蘇らせてくれたって知った時も、ダメだと思ったけどすごく嬉しかった。それだけ想ってくれてるって、そんなにも私のことが好きなんだなって、嬉しくて嬉しくて仕方なかった」  

「……………………ああ」

「あなたみたいな優しい人に好きになってもらえて、本当に幸せだった」

「薫……………………」

「ありがとう、室田君。本当に、本当にありがとう。…………これから、幸せになってね。たくさん辛い思いをさせてしまったみたいだから、その分、たくさん幸せになってね。大丈夫、あなたなら絶対に幸せになれるから。私のことなんか忘れて、幸せに……………………」

 言葉は次第に小さくなっていき、耐えたかと思った瞬間、

「……………………駄目ね、私」

 ぽつりと、声が漏れ出た。

「ちゃんと、応援しようって思ってたのに……………………頑張ろうって、最後くらいは甘えないようにしようって思ってたのに……………………」

 背を抱く力が強まり、そして、

「忘れて、ほしくないなぁ……………………」

 堰が、切れた。

「ずっとずっと、一緒にいたかった。皮肉や嫌味を言い合って、それでも離れないように身を寄せ合って。ことあるごとに甘えて、あなたを困らせていたかった。たまにはこっちが甘えさせて、照れるあなたを眺めていたかった。……………………ただ、あなたのそばで生きたかっただけだったのに…………………………………………」

 抱え込んでいた、彼女の胸の内。

「こんなこと、本当は言っては駄目なのに……………………こんなことを言ったら、室田君が歩みだせないって、分かってるのに………………」

「薫………………………………」

「ごめんなさい……………………ごめんなさい……………………!」

 泣きじゃくる彼女を、力強く抱きしめた。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 絶叫が、部屋をこだました。


 

 七月十一日 



「おはよう」

「……………………おはよう」

 眼前、薫はくすりと笑い、

「本当に朝弱いわね。コーヒー飲む?」

「あ、ああ……………………」

「それとも、おはようのキスがいい?」

「………………………………両方」

「……………………冗談のつもりだったのだけど」

「……………………なら別にいい」

「……………………するわよ。新妻だから」

 不機嫌そうに眉を下げた彼女の顔が近づいてくる。

「んっ………………………………」

 触れ合うだけのフレンチキス。

 それでも、俺と薫にとっては十分だった。

「……………………はぁ」

 満足げに息を吐いた薫の身体を、俺は強く抱きしめた。

「………………………………痛いわ、少し」

「耐えろ」

「耐えろって……………………」

 そこで彼女は、こちらの身体が震えていることに気づいたのか、身動きをやめた。

「………………………………子供よね、あなたも」

「ああ、まったくだ……………………」

「……………………似た者同士だったのよね、私たち」

「……………………本当に」

 大人のふりをしていたから、中身はいまだ子供のまま。

 そんなだから、できるはずのないことを、やる気さえあればできると盲信したりしてしまう。

「……………………ほら、そろそろ離しなさい。せっかく作ったご飯を食べる時間が無くなるわ」

「……………………ああ」

 名残惜しさを出さないようにと、双方が気をつけたはずだった。

 だが、気づけばどちらも動こうとしないまま、見つめ合っていた。

「……………………もう少しだけなら、大丈夫かしら」

「……………………ああ」

「……………………そう」

 頷き、嬉しげに目を弓にして、薫はこちらの胸の中へと歩み寄った。



「……………………………………」

「……………………………………」

 朝の陽ざしを眩く感じながら、二人、並んで歩く。

「…………………………………………」

「…………………………………………」

 どちらも、何も言おうとしない。

 遠慮などではない。

 昔から、朝弱いことを考慮して薫が話しかけてこなかったのだ。

 これは、その焼き直し。

 もしもの実現に他ならない。

「先輩!」

 後ろからの声に、振り向く。

 愛すべき後輩が全力で駆けてくるところだった。

「あっ」

「おっと」

 寸前でこけられ、慌てて受け止めた。

「あう………………………………」

 途端に赤面する彼女の身体を起こし、それからちらりと薫を横目で見た。

「…………………………………………」

 薫は微笑ましそうにこちらを見ていた。

「す、すいません、朝から……………………」

「いや、構わん。だが気をつけろよ。常時俺がいるわけではないからな」

「はい……………………」

 しゅんと肩を落とした橘だったが、頭を撫でてやると今度は恥ずかしげにもじもじし始めた。

「……………………朝からこんなことをされると困ります」

「セクハラだものな」

「はい……………………」

 そう言いつつも嫌がる素振りは見せないのが、薫と違うところだろうか。

「……………………雪」

 薫が、橘の名を呼んだ。

「す、すいません…………」 

「……………………どうして謝られたのかしら、今」

「い、いえ……………………なんですか?」

「……………………放課後、少しだけ時間をくれるかしら」

「放課後、ですか?」

「ええ。……………………大切な、話なの」

 真剣みを帯びた薫の表情に、橘は戸惑いながらも頷いた。

「……………………分かり、ました」 

「ありがとう。さ、行きましょう雪、室田君」

 そう言うなり、薫は俺と橘の手を取った。

「わっ………………………………」

 またも橘がバランスを崩しかけたのでフォローした。

「おっと……………………無理に引っ張るな、薫。橘はこれで運動神経が悪いんだ」

「し、失礼な! さっきのはたまたまこけただけです!」

「あら、そうなの? ごめんなさいね、雪」

「誤解です! これは先輩の罠です!」

「駄目じゃない室田君」

「それこそ誤解だ……………………」

 賑やかに、時間が過ぎていく。

 彼女との、最後の時間が。


「…………………」   

「............................」

「んー............................」

 休み時間。

 クラスメート諸君が異様な目で見守る中、薫はこちらの胸に頬ずりをしてくる。

 席へ座る俺の膝に腰かけ、しなだれかかるようにして、だ。

「............................」

 ただ無言で頭を撫でている様は、はたまた猫を可愛がっているようでもあろう。

 だが薫は猫ではなく人間であり、当然この行為は公衆の面前で行うべきことでもない。

「室田君............................」

「............................」

 今回ばかりは、許してもらいたい。

 こんな未来はありえないと言い切れないほどに、彼女は甘えたがりなのだ。

「風紀を乱す輩はどこですか! って先輩じゃないですか!」

 勢いよく教室の扉が開いたかと思うと、橘がこちらを見て喧々諤々と声を荒げた。

「いや、違うんだ、これは............................」

「何が違うんですか! そういうことはお家に帰ってからしてください!」

「..............雪」

「薫さんも早く離れてください!」

「あなたも、どう?」

「えっ............................」

「意外といいものよ? 自分がこんなにも甘えさせてもらってるって、受け入れられてるんだって見せつけてる気がして、素敵よ?」

「え、あ、その............................」

「負けるな橘。負けるな生徒会役員」

「そ、そうです! 生徒会役員の私がそんなことをするわけには..............」

「校舎裏では膝枕をしていたのに?」

「うっ............................」

「頑張れ橘。公衆の面前ではないからあれはセーフだ橘」

「で、ですが............................」

「ばれてしまったのだから同じことよ。一回やったのなら二回も三回も一緒よ」

「う、うう............................」

「ほら、右側空けてあげるから来なさい。大丈夫よ、室田君なら二人くらい簡単に抱きしめられるわ」

「せ、先輩の包容力はよく知っていますが、皆さんの前で、それは............................」

「他人の目なんて気にしなくていいの、あなたが好きなようにすれば。室田君からもそう言われていたでしょう?」

「言ったがそういう意味ではない」

「............................それもそうですね」

「俺の言葉聞いてたか橘」

「お邪魔します先輩」

「............................二人は流石に重いな」

「頑張って、あなた」

「両手に華ですよ先輩」

「自分で言うな。ナルシストか」

「両手にクレープね」

「それ気に入ったのか薫」

「クレープ............................このままだと食べられてしまうのですか、先輩に」

「ミュータントか何かか俺は」

「ちょっと、力弱まってるわよ。もっとぎゅっとしなさい。抱きしめマシマシよ」

「わ、私もマシマシで」

「ラーメン屋じゃないんだぞ............................」

 溜息を吐くこちらに、二人は楽しげに笑い声を上げた。


「オレンジジュースでよかった?」

「あ、はい..............どうも..............」

 缶の冷たさに、どきりとした。

 放課後、校舎裏。

 いるのは私は薫さんの二人だけ。

 先輩抜きで話すこと、というと、一つくらいしか思いつかない。

「............................薫さん」

「なに?」

 小首をかしげた薫さんに、私は深々と頭を下げた。

「すいませんでした」

「え、なにが?」

「先輩と、薫さんの間に割って入ってしまって」

「............................いいのよ、それは。むしろ、それでよかったの」

「でも............................」

 あれほど思いあっているのに。

 そう言おうとした私の前で、薫さんは背を向けた。

「私ね、そろそろ帰るの」

「..............ウィーンに、ですか?」

「............................もっともっと遠いところ。天の川の、その向こう側」

「............................どこですか、それ」

「とにかく遠いところよ。..............もう二度と、帰ってこれないと思う。だから..............」

 薫さんは振り向き、こちらをまっすぐに見つめた。

「雪。室田君のこと、お願いね」

「え............................」

「..............私はもう、あの人の横にはいられないから。室田君のこと、好きでしょう?」

「薫さんは、それでいいんですか!? 先輩のこと、ずっと好きだったんでしょう!?」

「いいのよ。..............私は十分に幸せをもらえたわ。私はもう満足。..............だから、室田君を幸せにしてあげて」

「薫さんがしてあげたらいいじゃないですか。先輩は、薫さんがいるだけできっと............................」

「............................それができたらよかったのだけどね。どうしても、できなくなってしまったから」

「どうして............................」

 そう問うた私は、薫さんの寂しげな笑みに何も言えなくなった。

「............................どうしても、駄目なんですか」

「ええ、そうなの。だからお願い。..............室田君も、あなたのこと好きなようだから。告白も、きっとうまくいくわ」

「薫、さん............................」

 某然と立つこちらを、薫さんはゆっくりと抱きしめた。

「............................短い間だったけど、本当に楽しかったわ。同じ人を好きになった人なんて、初めてだったから嬉しかった」

「..............私も、です。薫さんと話すの、とっても楽しかったです」

「それは、よかったわ」

 最後にくすりと微笑みを残して、薫さんは離れた。

「..............じゃあ、さようなら」

「............................はい」

 去っていく薫さんに、私は声を張り上げた。

「薫さん!」

 振り向いた彼女に、私は精一杯笑顔を浮かべて、

「............................また、いつか」

「............................」

 薫さんは一瞬驚いたような顔をした後、柔らかな笑みを浮かべた。

「............................ええ。また、いつか」

 軽く手を振り、今度こそ薫さんは去っていった。



 屋上は、夕焼けに染め上げられていた。

「ーーーーーーーーーーーーー」

 中央に立つ薫は、体を揺らしながらその手に持ったヴァイオリンで音を奏でている。

 鮮やかな音色。

 音の一つ一つが、まるで生きているかのようだ。

「............................ふぅ」

 また、曲が終わる。

 軽く拍手を送る。

「............................」

 薫は何も言わず、ただ優しい笑みを浮かべ、再び弦を構える。

「ーーーーーーーーーーーーー」

 美しい旋律に、瞳を閉じる。

 初めて出会ってから、二年と少し。

 人生のうちの、ほんの少し。

 ふとすれば忘れてしまいそうな、一瞬のまたたき。

 ..............心の内で輝く、一生の宝物。

「............................ねぇ、室田君」

 ふと、薫がこちらを呼んだ。

「............................ああ。どうした」

「............................あなたは、幸せだった? こんな我儘な女に振り回されて」

「............................幸せだったさ。世界で一番、幸せだと思えるほどに」

「............................そう」

 彼女は満足げに微笑み、

「............................なら、よかった」

 言って、彼女は再び音を紡ぎ出す。

 耳に届いた旋律は、懐かしい、あの日の調べ。

『............................』

 目を閉じれば、目の前で不貞寝する彼女の姿が浮かぶ。

 ............................なんて、なんて、遠い。

 あまりにも遠い日々、そこで俺と薫は出会い、惹かれ、そして恋をした。

 互いに身を寄せ合い、決して離れないようにして、二人並んで歩んでいた。

「..........................................」

 ..............人は、どうあがいても一人だ。

 いつかは離れなければならない。

 俺と彼女も、ただその時が、早く来てしまっただけだ。

「..........................................」

 だから、笑顔で送り出さなければ。

 俺は、幸せだった。

 薫と出会い、恋をして、そして天の川の向こうからやってきてくれた彼女ともう一度触れ合うことができた。

 ............................何の未練もない。

 だから..............泣くな。

 泣くんじゃない。

 薫だって、きっと泣いてなんていないだろうから。

「ーーーーーーーーーーー」

 曲が、終わった。

 ゆっくりと、目を見開く。

「............................室田君」

「............................ああ」

 視線の先、黄昏の中で、輪郭さえ朧な彼女が、笑う。

「............................愛してる」

 声が、聞こえた。

 そして、小さな金属音が響いた。

「..........................................」

 俺は、コンクリの上に転がった銀の指輪をただただ見つめていた。


 室田が、自身と関わることは薫にとって幸福であると信じられた場合の話でした。

 彼は薫に幸せになってほしいと願いながらも、その幸せとは何なのか分からないでいました。

 持って生まれた才能を無事開花させヴァイオリニストとして大成することは、客観的に見ても大変幸福なことであり、室田もそう考えています。

 故に、薫にとって室田と歩む日々がそれを捨ててでも得るべきほどの幸福であるとは思えず、結果としてこちらでない未来において室田の未練は解消されることなく終わりました。

 自身と歩むことが薫にとってヴァイオリニストになることにも勝る幸福であると信じることができたために、彼は別離をすることになります。

 別れこそありましたが、こちらではない未来において薫が言った通り薫は室田との日々を最上の幸福と捉えており、従ってこちらの未来は室田と薫が互いに寄り添い合うことが互いの幸福であると分かり合った、真の意味で幸福な未来とも言えます。

 彼にとってどちらが幸福かは分かりませんが、一応、彼の一つの未来として書きました。

 お読みいただき、ありがとうございました。

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