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第六話

 七月十日


「…………………………」

 まどろみの中、ふと目が覚めた。

 起き上がろうとして、両腕の重みに気づいた。

「…………………………………………」

 両の腕を甘えん坊二名に枕にされていた。

「ん…………………………………」

 こちらの振動で目を覚ましたのか、橘が声を漏らし眠たげな瞳を俺に向ける。 

「……………………おはようございます、先輩」

「……………………ああ、おはよう」

 警戒心のない柔らかな笑みに軽く狼狽えてしまった。

 軽く目を逸らした先、うさぎ柄のパジャマが目に入り、ついで胸元も見えてしまいそうだったので慌てて顔をそむけた。

「……………………借りたのか、パジャマ」

「はい。……………………可愛らしい趣味をお持ちですね、薫さん」

「本当にな。……………………というか、いつから寝てたんだ、俺は」

「覚えていないんですか?」

「ああ。……………………すまんが、教えてくれ」

「薫さんの手を急に握ったところまでは覚えてますか?」

「……………………ああ」

「あの後急に俯いたかと思うと、唐突に薫さんの頬をむにむにしたり私に抱きついたりとまるで酔っぱらいのような様相で」

「………………………………………………………………」

 おそらくは薫を不機嫌にさせ、『薫は幸福ではない』と自分自身に信じ込ませようとしたのだろうが、それにしたってひどい。テンパりすぎだ。

「顔真っ赤にしてキレた薫さんにいいブローをもらって先輩は倒れ伏しました。一発KOでした」

「ああ、うん……………………だろうな……………………その後は?」

「薫さんの部屋でお風呂を借りて、しばらく二人でおしゃべりしました。薫さんに夜食として卵焼きを作ってもらいました。美味しかったです」

「それはよかったな。絶品だっただろう」

「はい。で、薫さんが眠くなってきたと言いながら部屋を出たのでついていきました。あとは見ての通りです」

「…………………………………………何故」

「先輩の腕枕がなかなかよいものだと薫さんが」

「…………………………………ああ、そう」

 無言で橘とは逆、右側で寝息を立てる薫を見る。

「……………すぅ……………………………」

 なんとも無防備な寝顔。時折口元に笑みが浮かび、大変幸せそ…………いやいやいや、寝顔に幸も不幸もない。ないことにしよう。

「………………………………………………………………」

 しかし、どうしたものか。

 彼女への未練を無くさないためには基盤である彼女への想いを無くさないようにすればいいとばかり思っていた。

 薫の帰国についても、過去の自分の二の足を踏みかねないという恐怖こそあったものの、実を言えば目の前でくるくると表情を変えられているうちは彼女への想いが毛ほどもかすれないと若干の安心さえ得ていた。

 だがむしろ、未練自体の解消にも気を配らねばならないのか。

 ……………………幸せになると死ぬとは、ひどい話だ。

 もちろんそんな状況に陥らせた俺が悪いのだが。

「…………………………………………んぅ」

 眼前、薫が瞼を擦りながらこちらを見た。

「…………………………………………」

「…………………………………お、おはよう」

 挨拶に対し、彼女は不思議そうに首をかしげ、

「室田、君? …………………………………まだ夢の中なの、私?」

「ふんっ」

「あうっ」

「せ、先輩!? 急に何を!?」   

「鼻をつまんでやっただけだ」

「どうしてですか!?」

「いや…………………………………………」

 返答に困る俺を他所に、薫は俺の右手で鼻をつままれたまま困惑した様子で、

「は、鼻をふにふにしないで室田君。分かった、分かったから」

「……………………怒れ、薫。阿保なことをした俺を」

「……………………本気でマゾになったの?」

「もうそれでもいいから」

「いや、これくらいで怒らないわよ。……………………むしろ嬉しいわ。昨夜は照れちゃったけれど、あなたから触れてくれるなんて珍しいじゃな」

「これならどうだ」

 薫が言い終わる前に鼻の頭を押して豚鼻にしてやった。

「馬鹿っ」

「ぐっ……………………」

 鳩尾を打ち抜かれた。

「ああ、それでいい、それでいいんだ薫……………………」

「何をしているんですか先輩……………………」

「朝起きてこれだと、酔っぱらいという言い訳も使えないわよ」

 呆れ顔の二人には、朝食を作ることで許してもらうとして。

「…………………………………………」

 今現在は透けていないようだが、昨日のように幸福そうだと俺が実感した瞬間に透けるかと思うとどうも気が抜けない。

「……………………………………あんまり、じろじろ見ないでちょうだい」

「……………………すまん」

 昨夜の透過への恐怖でよほど血眼になってボディーチェックをしてしまったのか、気づけば薫に睨まれていた。

「本当に知的好奇心旺盛ですね、先輩」

「そういう目的で見ていたわけではない」

「気をつけてください薫さん。胸元ボタン外れてます」

「…………………………………………」

 いそいそとボタンを留めながら、絶えずこちらを睨みつけてくる愛すべき幽霊もどき。

 ……………………本当に、どうしたものか。

     

「では、先輩。また明日です」

 朝食後、弟の面倒を見るために橘が家へ帰ることになった。

「大丈夫か? 一人で帰れるか?」

「もう朝の九時ですから、日曜といえどもそれなりに人は歩いていますよ」

「過保護すぎよ、室田君。雪だって年下とはいえ高校一年生なのに」

「…………………………………………」

「……………………雪? その無言は何かしら?」

「いえ、その……………………………違うんです」

「何が?」

 いつもはむしろ橘が送れとせがんでくるからな……………………。

「まあ、気をつけて帰れよ。変質者に遭ったらすぐに110番だ」

「警察はアテにならないので代わりに先輩に連絡しますね」 

「別に構わないが……………………俺は俺でアテにならんぞ」

「アテにはなりませんが安心感は群を抜いてますので。……………………それでは、また」

 ぺこりとお辞儀をして、橘は去っていった。

「……………………好かれてるわね、あなた」

「昨日服買ってやったからな。リップサービスのようなものだろう。俺も祖父母に何か買ってもらった時はよくやった」

「……………………服、買ってあげたの?」

「ああ。誕生日でもなんでもなかったが、せっかくの機会だったから」

「……………………いいなぁ」

「お前、センスが合わないから服屋には絶対一緒に入らないと言っただろう」

「……………………それは、いつ?」

「それはお前……………………あ」

 時が凍ったような感覚さえあった。

 やってしまった、と冷や汗が流れ始める。

 まさか、と思いながら彼女の目を見ると、そこには何か確信を得たような決意の灯がともっていた。

「……………………ねぇ、室田君」

 優しい口調で、薫は言葉を紡ぐ。

「それ、もしかして高校一年の間にあったことなのかしら?」

「っ…………………………………………!」

 当たり。

 大当たり。

 まず服屋に行こうなどという話をしたのは付き合ってからの話だ。

「やっぱり……………………」

 無言を肯定と捉えた薫は溜息を吐き、

「ちょっと待っていて。逃げちゃ駄目よ」

 それだけ言い残して、部屋を出ていった。

「……………………やってしまった」

 野下さんは、薫にある種のおまじないをかけてくれていた。  

 俺だけ切り抜かれた高校での一年間、そこへ意識が向かないように。

 自分の内で意識が向きそうになった際にそれとなく逸らすようなものだったので、普通に生活している限りではまず違和感すら感じないはずなのだが、逆に他人から、例えば俺との思い出を聞かれた時などして他人主導で意識を向けさせられた際は逸らすこともできず空白に気づくことになる。

 ……………………橘だろうか。

 女子会で橘に思い出でも問われ、その際に空白に気づいたというのなら、彼女の言っていた『嫌なこと』やあの酔ったフリにも理由がつく。

 俺との思い出が一切消えた一年間。

 彼女は何があったのか聞いてくるだろう。

 ……………………どう答えるべきなのだろうか。

 素直にすべてを曝け出すか。

 それとも忘れてしまうほどのことしかしていないと嘘をつくべきか。

「……………………いや、待て」

 ちょっと待て。

 何故、今なんだ?

 ある誰かと自分しか知りえない思い出を忘れてしまった時、することといえばその誰かに直接聞くか、それとも覚えているふりをするかだろう。

 性格によってどちらを選ぶかは変わるだろうが、後者を選ぶ場合は主に忘れてしまっていることに対して申し訳なさを感じているからだろう。

 実際に昨日一昨日とそれについて聞いてこなかった薫がそれに該当すると考えると、今ここでそれを自ら言及するのはおかしい。むしろ自身の忘却を隠し通すために軽く流すところだ。

 それに、薫は部屋を出る前、「やっぱり」と言った。

 やっぱり……………………何だ?

 覚えのない出来事、それが現在忘れている一年間で起きたことだと分かって、「やっぱり」でも別におかしくはない。

 だが、もし。

 もしも、何が違うものに対する「やっぱり」であったら?

 疑念が生まれ始めたその時、

「お待たせ」

 薫が帰ってきた。

 その手には、一冊のノートがあった。

 表紙には、『Kaoru's Diary』とレタリングされている。

「……………………日記か?」

「ええ」

 頷き、ぱらぱらとページをめくり、しばらくしてこちらへ見せるように広げた。

「ここ、読んで」

「あ、ああ……………………」

 受け取り、その文面を読む。


『 

 五月二十日 晴れ

  

 いつものように学校で居眠りをして過ごした。   

 高校になっても勉強は教科書を読んだだけで済むからありがたい。

 室田君に教えられたら、とも思うけど私のことだから途中で教科書を放り出して彼に甘えてしまうだろうからやめておこう。

 明日は一週間ぶりのデートだ。ちょっと楽しみ。


 五月二十一日 曇り


 室田君がひどい。私服が似合っていないと言われた。ひどい。

 精一杯おしゃれしたのにひどい。もう絶対一緒に服屋に行かないと言っておいた。

 でもその後たくさん甘やかしてもらったので、機会があったらこっちから誘ってみよう。

 明日はお家でのんびり。お菓子を作ってきてくれるらしい。楽しみ。

                                       』


「これ、は……………………」

 絶句しながら、ページをめくっていく。

 最後の日付は、三月九日。

 薫が死んだ日の、前日。

「昨日、ふと気になって読んでみたの。……………………不思議ね、昨日雪に聞かれてあなたとの思い出が一年分消えていることに気づくまでは、これまでのページに何が書かれてあるかなんて少しも気にならなかったのに」

 ねぇ、室田君。

「その日記に書いてあること、全部本当のこと?」

「…………………………………………」

「……………………私、自殺したの?」 

「っ……………………」

 答えられない。

 答えたくない。

 知られたくなかった。

 忘れたままでいてほしかった。

「……………………すまない、薫」

 幸福に、ただ幸福に生きてほしかったのに。

「すまない……………………」

 だがもう、ここまでくれば話さなければならない。

 唐突に訪れた俺と薫の別れ、そして契約の話を。


 一月。

 ちらほらと雪が降っていたのを覚えている。。

「……………帰りたいわ」

 人通りの少ない夜道、隣を歩く薫が弱音を吐く。

 時刻は午前二時を少し回っていた。

「まあそう言うな。無宗教とはいえ初詣くらいは行っておかないと罰が当たりそうだ」

「それはそうだけど……………」 

 元々一人でいるのを好むのもあって、薫はげんなりとしながらこちらへ身体を預けてくる。

「もう疲れた。しんどい。帰ってこたつでごろごろしたい」

「出るまで散々していただろう……………」

 混んでいるのは嫌だという彼女の要望で、時間をずらした上で近くの神社まで徒歩で向かうことにした。

 先程までお邪魔させていただいていた薫の家の近くの駅から直通列車が走っているというのに、勿体ない話だ。

「というか親の目の前であそこまで甘えかかるな。生きている心地がしなかったぞ」

「いいじゃない。周知の事実にしておいた方が後々楽でしょう?」

「後々って……………お前なぁ」

 軽く赤面した俺の横、薫は少しだけ俯いた。

「それに………もうちょっとしたら、離れ離れになるし。今のうちに甘えておきたいのよ」

「…………………………………………」

 四月から、彼女の留学が決まっていた。

 足しげく通っていた例のクリスマスイブのコンサートの演奏者、ファルス・フォセットから弟子入りの誘いが来たのだ。

 現存するヴァイオリニストの中でも一、二を争う実力者である彼からの申し出を彼女はそれはもう大はしゃぎで承った。

 その大歓喜っぷりは、クラスの面々にも気色悪いほどに上機嫌で会話し、周囲の目を気にせず教室でこちらの手を繋いだり抱きついてきたりと、後でそれらを思い返した彼女が三日不貞寝するほどであった。

 ……………彼女が遠くへ行ってしまうことについて、寂しく思っていないわけではない。

 だが、これは彼女の幸福のためだ。

 彼女は素晴らしい素質を持っている。

 素人目で見てもそう思うし、著名な演奏家から弟子になれと誘われたという事実がそれを裏づけしている。 

 彼の元で修行を積めば、彼女の才能はさらに花開くことだろう。

 ヴァイオリニストとしてこれまでの人生を歩んできた彼女として、これ以上の幸福はないだろう。

 だから、笑顔で送り出そうと思っていた。

「……………………たまには帰ってくるのだろう?」 

「そちらの長期休暇に合わせてお休みは貰うつもりだけど…………」

 薫は不満げに眉を下げ、こちらの腕を抱く。

「…………毎日会えないのが辛いわ」

「…………テレビ電話があるじゃないか」

「こうして触れ合ったりはできないでしょう?」

「それはそうだが……………………」

「……………………あなたも一緒に来てくれない、かしら」

「え………………………………」

「私と一緒にウィーンに。…………今はまだ無理だけど、すぐに二人分の食い扶持くらいは稼ぐようになるから。だから……………………」

 突然の申し出に返答を窮した俺に、薫は苦笑する。

「……………………冗談よ。あなたにだってやりたいことくらいあるわよね」

「……………………まあ、な」   

「なら、競争ね。あなたが何かを成し遂げて私の元へやってくるか、その前に私が大成してヒモになるか」

「男として後者にはなりたくないな…………」

「なんだったら主夫業をしてくれてもいいけど…………でも、私の帰りを家で待ってくれて、帰ってきた私を抱きしめてくれるなら、それで私は満足よ」

 あっけらかんとした彼女の言葉に、俺は顔が熱くなるのを感じながら、照れ隠しにこう言った。

「……………………変な男に引っかかるなよ、薫」

 薫は悪戯げに笑って、こう返す。

「もう引っかかってるから大丈夫よ。でも……………………」

 言って、薫は駆け出し、こちらの方を向き、両手を広げる。

「心配なら早く捕まえに来て。ずっと待ってるわ」

 捕まえたい。

 そう思って駆け出そうとしたところで、

 彼女の側面がヘッドライトに照らされて。


 二月。

 降り積もる雪の白さを覚えている。

「…………………寒く、ないか?」

「ええ、大丈夫。…………暖かいわ、あなたの手」

 白いベッドの上、薫が微笑む。

 …………身体の至る所に包帯を巻いた状態で。 

 彼女は事故から生還した。

 脚には後遺症が残り車いす生活を余儀なくされたが、助かっただけでも奇跡的だと医者から言われた。

「……………………今日、ヴァレンタインデーだったのね」

「ああ。…………チョコ、用意してあるが、食べるか?」

「いただくわ」

 差し出した箱からトリュフチョコを一つつまむ。この程度の動作なら何の問題もない。 

「……………………おいし」

「そうだろう。デパートで評判だったやつを真似たものだ」

「…………手作り、なのね。ごめんなさいね、チョコ、あげられなくて」

「そんな気遣いは無用だ。…………今もらう」

「え…………? んむっ……………………っ………」

 彼女の口へチョコを押しつけ、そこへ唇を寄せた。

 体温で溶けていくそれを舐めるように貪る。

「…………ごちそうさまでした」

「……………………変態」

 顔を真っ赤にしながらも、薫はこちらを睨みつけるだけ。

「……………………慰謝料としてチョコを要求するわ」

「任せろ。…………あーん」

「…………そうじゃないわ。もっとこっち寄りなさい」

「………………………………」

 顔を寄せた俺にチョコをくわえさせ、そこへ彼女の顔が近づいてくる。

「ん……………………」

 触れる熱を十分に感じた後、彼女は離れていった。

「……………ごちそうさま」

「変態」

「お互いさまよ」

 照れ隠しに眉間にしわを寄せる様も、その後恥ずかしげに微笑みをこぼすのも、何も変わっていない。 

 ただ、筋繊維を痛めた彼女の両手は、二度とヴァイオリンを奏でられない。

 

 三月。

 卒業式。

 窓の向こうで、彼女と出会ったあの日のように桜が舞っていた。

「………………ねぇ」

 不意に、ベッドで眠っていた薫が声をかけてきた。

「どうした?」

「………………見捨てても、いいのよ」

「何を」

「私を。………ヴァイオリンを失った私なんて、何の価値もないわ」

「………そんなことはない」

「そうよ。こんな口が悪いだけの面倒臭い女と一緒に幸せになんてなれない」

「そんなことはない」

「なれないわ、絶対。今はそう思わないかもしれないけれど、いつかきっと、後悔する日が来る」

「そんなものは来ない」

「………………でもあなた、今既に後悔しているでしょう?」

「………………………………」

「優しいあなたのことだから、私と付き合わなかったらよかった、付き合ってなかったら事故にも巻き込まれてなかった、なんて思っているのでしょう?」

「………………………………」

「……………あなたのせいじゃないわ。あなたに告白したのは私よ。勝手に背負わないで」

「………………………」

「………………私たちはどうあがいても他人。一人の人間にはなれないわ。だから、私の責任はせめて私に背負わせて」

「………………………」

「お願い………………………」

「………………………………それでも」

 呻くように、俺は言った。

「それでも、俺は………………お前を一生背負い続ける。絶対に、離さない」

「………………………そう」

 薫は儚げに微笑んだ。 

「嬉しいわ、室田君」

 

 その翌日、彼女は死んだ。

 松葉杖で屋上まで昇り、そこから飛び降りた。

 屋上へと辿り着いた時には既に、柵の向こうに彼女はいた。

「ごめんなさい、室田君」

 彼女は泣きそうな笑顔で言った。

「………ごめんなさい」

 視界から消えていく彼女へ、俺は手を伸ばすことしかできなかった。


 最後まで、甘えていてほしかった。

 彼女は最後の最後で、それを拒んだ。

 身をゆだね、遠慮なくこちらへ縋ることを、拒んだ。

 自分という負担をかけさせないようにと、俺を思いやって。

「お困りのようだね」

 神様は、俺に手を差し伸べた。

「彼女を生き返らせてあげるから、生き返った彼女と話し合ったりとかして、ちゃんと未練をなくしなさい」

 幸せに生きてほしかった。

 そんな未練を糧に、神様は薫を生き返らせてくれると言う。

「蘇りの期間は君の未練が終わるまで。つまり、君が彼女への恋心を失くすまでだよ」

 神様の話を聞いて、俺は決意した。

 背負おう、と思った。

 未練が終わるまでは蘇りは続く。

ならば、未練が消えないようにすれば彼女は生き続ける。

 未練を抱き続けることで、彼女に幸福な人生を送ってもらおうと考えた。

 彼女に自身が負担になっていることさえ気づかせず、彼女を背負い続けようと思った。

「え? いくつかリクエスト? いいよ、何?」

 太っ腹な神様に、彼女の一年間ほどの記憶、付き合ってからの俺に関する記憶の消去をお願いした。

 俺以外の人間から彼女の死を消すことは元々契約内容に入っていた。

「付き合ってからの記憶? メンヘラ化でもしたのかい彼女。………………まあ、全部でないならいいけど」

 神様は不思議そうに首を傾げながらも、こちらの要求を飲んでくれた。

「頑張れ、少年。僕は君の幸せを願っているよ」

 あの時はまだ、野下さんは俺のことを偶然目についたただの一般人として扱っていた。

 だからこそ、たいして詮索されることもなく、俺の契約は果たされた。


「………………………………じゃあ、行ってくるわ」

「………………………………ああ」

 留学当日。

 空港で俺と薫は向かい合っていた。

「………………………………………………」

 薫は静かに、俺の手を握ってくる。

 ここ一年の彼女のことを考えるとあまりにもいじらしい触れ合い。

 ………………当たり前だ。

 彼女は今、一年前へとタイムスリップしているようなものなのだから。

「………………元気でな」

「………………うん」

「………………頑張って男、作れよ」 

「………………うるさいわね」

 睨みつけてくる彼女に、悪かったと微笑みながら頭を撫でてやりたかった。

 離れたくない、と感情に任せて抱きしめてやりたかった。

 ………………ただ愛していると、唇を寄せたかった。

 だが、それは駄目だ。

『ごめんなさい、室田君』 

 焼き直しをするつもりは、毛頭ない。

「………………じゃあな」

 彼女に背を向け、歩き出す。

 ただただ泣くなと、自分に言い聞かせながら。

 数十分後、彼女はウィーンへ飛ぶ。

 そして一週間後、俺はこの町から遠く離れた田舎へと引っ越す。

 もう二度と、会うことはないだろう。

 彼女はヴァイオリニストとして大成し、自身の才能に見合った幸福な日々を歩むことだろう。

 俺は静かに、凪いだ日々の中、彼女との思い出に浸ることにしよう。

『………………お前を一生背負い続ける』

 いつかの誓いを、決して破らぬように。

 そう心に決めて、俺は彼女の元から去っていった。


「……………………………………以上だ」

「…………………………………………」

 語り終えたこちらの眼前、薫は不機嫌そうに眉を寄せた。

「未練があるうちは、私はこっちにいられるのよね」

「ああ」

「未練は基盤である恋心が消えたら一緒に消えてしまうのよね」

「ああ」

「……………………昨日、何度か指が透けているように見えたのだけど、気のせい?」

「……………………いや」

「一生背負い続けるのよね?」

「……………………はい」

「指が透けた理由は何?」

「……………………いや、その………………」

 冷や汗が止まらない。

 そして幽霊もどきに容赦がない。

「……………………正座」

「はい」

 素直に従ったこちらの頬を、薫はむにっとつまんだ。

「何か言いたいことは?」

「ない。言い訳はしない。ただひとえに俺の心の弱さ故だ」

「浮気者が偉そうに」

「ぐっ………………」

「……………………雪、可愛いものね」

「………………そういう話ではない。叱ってくれ、ちゃんと」

「………………マゾよね、あなた」

 彼女は溜息を吐き、

「自分だけ責められればそれでいいなんて、本気で思ってるの?」

「………俺が悪いのだから、当然だろう」

「高一の私も言ったでしょう? 私の責任だから、勝手に背負わないでって」

「だが………………」

「………………ばかね、本当に」

 ふわり、と薫は俺を抱きしめた。

「何もかも背負おうとしないでいいのよ。私が事故に遭ったのも、その後自殺したのも、全部私のせい。後者に至っては私の意思なのだから、あなたには何の責任もないわ。…………死んだ私をわざわざ甦らせてまで背負おうとするなんて、本当に、馬鹿………………」

「薫………………………」

 気づけば、彼女の頬には涙が流れていた。

「………………………幸せに生きてほしかった? 幸せだったわよ、十分に! あなたと出会って、あなたに手を引かれて、あなたと恋をして! ぶっきらぼうだけど優しいあなたに甘えさせてもらって、ずっと幸せだった! ヴァイオリンなんてなくても、あなたさえいれば私は幸せだった!」

 叫ぶように、彼女は思いの丈をぶつける。

「私も馬鹿よ! 最後まで甘えていればよかったのに、勝手に自殺なんかして! 室田君が傷つくことぐらい分からなかったのかしら!? あなたが死んだおかげで、室田君が余計に重荷を背負わされてるじゃない!」

 矛先は過去の自分自身にさえ飛び、それでも彼女の感情の高ぶりは収まらない。

「未練を抱き続けて私は生き長らえさせるなんて、無理に決まってるじゃない! 人の心はプログラムじゃないのよ!? ずっと同じ感情でいることなんてできるはずない、どこかで荒んだり、違う感情で上書きされたりするに決まってる! それくらい分かるでしょう!? それなのに………………それなのに、あなたは無理ばっかりして…………………」

 言葉にならない声を漏らしながら、薫は俺の身体を強く抱きしめた。

「………………すまない、薫」

 謝罪の言葉に、薫は首を振った。

「謝らないでよばか………………自分が一番傷ついてるくせに………………」

「………………俺の痛みなんざ、どうでもいい」

「あなたが傷つくのを悲しむ人だっているの!」

「っ………………………………」

「あなたが傷ついてまで幸せになんてなりたくない! そんなことも分からないなんて………………ばか、ばか………………」  

「薫………………………」

「ばかよ、あなたは本当に………………………」

「………………………分かってる。今十分に思い知った」

 俺は、馬鹿だ。

 きっと、誰よりも。

「………………どうして、こんな馬鹿を好きになってしまったのかしら」

「………………運が悪かったんだろう」

「………………そんなことないわ」

 薫は身体を離し、まっすぐにこちらを見つめた。

「無愛想で我が儘な私を、見捨てないでくれて………………死んでからも、ずっと想い続けてくれて………………きっと世界で一番の幸せ者よ、私。………………今少し浮気をされているようだから一万番くらいかしらね」

「………………………………そうか」

「いやね、泣かないでちょうだい。男の子でしょう?」

「ああ、すまない………………」

「まったくもう………………」

 呆れたように笑って、薫はこちらへ顔を寄せた。

「ん………………………」

 唇に触れた、優しい感触。

「………………………大好きよ、室田君。私のこと、好きになってくれてありがとう」 

「………………………こちらこそ。お前と出会えて、本当によかった」

「そういうセリフは、涙まみれの顔で言われても困るわね」

「すまん………………………」

「また謝る………………………もう………………………」

 泣きじゃくる俺を、薫はずっと抱きしめてくれた。


「………………………………生きてるな、薫」

「それはどういう意味かしら」

「いや………………さっき幸せだ幸せだと連呼されたからな。正直まずいとは思っていたんだが………………」

「………………………………………………」

 自分の発言を思い出し顔を赤らめる薫の身体は、見たところどこも透けていないようだ。

「………………………なるほど、口だけか」

「………………………………」

「悪かった。悪かったから泣きそうになるな。謝るから」

「………………冗談でもそういうこと言わないで、馬鹿」

 眉間にしわを寄せながら、薫は地べたへ座るこちらの胡坐の上に座ってきた。

「………………………………意外と重いな」

「………………………ごめんなさい」

「あ、いや、むしろすまん………………………肉付きいいもんな、お前」

「………………………変態」

「フォローのつもりなんだが………………」

「………………………………………………」

 むすっとしたまま彼女はこちらに背を預けてくる。

 その一方で俺の両腕を掴み自分の腰へと回した。

「抱きしめなさい」

 命令通りにすると、その両手に薫は自身の両手を重ねた。

「………………………………………」

「………………………………………」

「…………………………………生きてるな、薫」

「………………………………ご、ごめんなさい?」

「謝られても困るが………………しかしそうか、ここまでやっても透けないか」

「け、結構幸せなのだけど………………夢みたいで」

「お前は普段どんな夢を見ているんだ………………」

「………………………………………………………」

「………………………………聞いた俺が悪かった」

 薫の夢は置いておくとして。

「本格的に分からなくなってきたな、これは………………」

「抱き合って、見つめ合って………さっき、き、キスもしたわよね」

「昨日一昨日と添い寝もしているな」

「………………私の幸福、ハードル高すぎ?」

「まあ高嶺の花だしな。悪くないとは思うが……………今回ばかりはな」

 妙なところで成仏されても困るので、

「………………………しばらく、色々試してみるか」

「えっ………………………」

「いや、変なことは要求しないから安心しろ。むしろお前が要求したことしかしない」

「………………………ねぇ、室田君」

「なんだ?」

「私から、変なことを要求するのは?」

「………………………夢があるな」

「そ、そう………………………」

「………………とりあえず、進めていくか」

「………………………そうね」

 

 数時間後。

「……………………………」 

「……………………………」

 二人、卓袱台を中間に向かい合って座りながら、両手で顔を覆っていた。   

 膝枕に始まり、新婚ごっこを経て水着着用での体の洗いっこまで進展した我々の挑戦であったが、薫の身体が透けることは一瞬たりともなかった。

 昨日のあれが見間違いだったのではないかと思うレベルだ。というかもう見間違いだったのかもしれない。

「……………プラスに考えよう、薫。今まで行ったことは、この先行ってもなんら問題はないと証明された」 

「しないわよ、もう………………………………」

 実験当初は恥じらいがあったものの、それを捨て去るためかはたまた溜まっていた鬱憤が解放されたためか、途中から双方ともタガが外れたかのように振る舞い始めた。

 電車の中でいちゃつくカップルを想像してほしい。

 あれの五倍ほどいちゃこらしていたと考えていただけると大変分かりやすいと思う。

 ………………………………我ながら恥ずかしい。

「水着エプロンなんて二度としないわよ」

「させるか。変態じゃあるまいし」

「………………………………背中くらいなら、流してあげてもいいけれど」

「………………………………………………」

「し、新婚ごっこもよかったら」

「分かった。分かった薫。分かったから少し待て。まだ熱が引いていない」

「………………………………ごめんなさい」

「いや、いい。………しかし、なんだ。お前の幸福は俺との馴れ合いにはないのだろうか?」

「そもそも幸福なんて不確定なものじゃない。主観的なものか客観的なものかで変わるものでしょう?」

「カルト教団にハマった信者が幸せかどうか、という話か」

「なに? 私はあなたにハマった信者とでも言いたいの?」

「いや、まったく」

「………………あってはいるけれど」

 ………………棘がなくなってきたな。

「話を続けるが、そうだな…………お前の幸福というのがいったい誰から見た、および感じた幸福かという話ではあるのか」

「少なくとも私の主観ではなさそうね」

「………………お前は」

 耐え切れなくなって膝立ちで移動し後ろから薫を抱きしめた。

「きゃっ………………もう。急に抱きしめないでちょうだい」

「確かに、お前の主観ではなさそうだな」

「………………あくまで実験なのね、これ。ぬか喜びしてしまったわ」

「………………お前の主観でないとすると、あとは俺の主観か世間的な客観くらいなものかと思うが………………俺の主観でもなさそうだな」

「……………もう。…………………客観的に見て、今の私は不幸に見えるかしら」

「どうだろうな………………」

「今度誰かに聞いてみるとしましょうか」

「それが妥当だろうな。俺たちでは客観的には判断できないだろうから」

「なら、湿っぽい話はここまででいいかしら」

「そうだな」

 頷くと、薫はぐっと伸びをしてから顔をこちらへ向けた。

「そういえば、雪との関係について、まだあなたから聞けてなかったわね」

「俺から………………………………ああ、橘からはいくらか聞いていたのか」

「ええ。………………よかったら、教えてもらえる? あなたの浮気相手について」

「浮気相手という呼び方やめてくれ。橘に申し訳ない」

「まあ確かに、私も死人だから浮気というより上書きよね」

「………………………………………………」

「………………………………ごめんなさい」

「お前、自慢気な顔可愛いよな」

「褒められても困るわね………………」

「で、橘か。初めて会ったのは会長に連れられて生徒会へ行った時で………………」

「その辺はいいわ。巻いて」

「………………そうか」

「六月の話でいいわ。順にお願い」

「ああ、分かった。………………といっても最初の休日は家に招かれて飯食って談笑して、次は近くの水族館行ってイルカに水浴びせられて………………」

「………………………………思ったよりもエンジョイしてるじゃない」

「………………………………………………」

「………………ごめんなさい。ちょっと、嫉妬しただけだから」

「いや、そうではなくて………………………………」

 背中を、嫌な汗が流れる。

 まさか、とは思う。

 だが、有り得ないとは言い切れない。

 なにせ、一度経験していることだから。

「………………………………なぁ、薫」

「なに?」

「………………橘に、俺との高校一年間を聞かれた時、どんな感覚だった?」

「え?」

「この、脳の中にもやがかかったようなイメージ……まさかとは思うが、これは…………」  

「………………………………………………」

 絶句する薫の眼前、俺は震える手を見つめながら、言った。

「………………………………まさか、俺もか」

 手は透けていなかった。

 だが、六月の第三週の記憶がごっそり抜けおちていた。

 ………………橘に、関連していることだけ。


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