21 切子の想いと煌めく涙
恐怖に凍りつく切子の視線の先では、高さ二メートルの紫と闇がまだらになった光のつむじ風が、自分に向かってもの凄い速度で近づいており、その後ろには体の輪郭が激しく波打ち、体のあちこちで亡者の顔や手の形が盛り上がり、体中から大人数の悲鳴を響かせて駆け寄ってくる最終形態の鏡太朗の姿があった。
「きょ、鏡太朗さん……?」
切子はもはや人間とは思えない鏡太朗の姿を見て、愕然としていた。
つむじ風が切子の十メートル手前で停止すると、体の輪郭が波打ち続ける最終形態の鏡太朗は切子のすぐ目の前まで近寄り、表情がない顔の瞳がない目で切子を見た。輪郭が歪み続ける体の表面では、無数の大小の亡者の顔が苦しげな表情で蠢いていた。
「これが……、鏡太朗さん……?」
あまりにも変わり果てた鏡太朗の姿を見つめる切子の目に、涙が溢れた。
「げへへへ……。女! その魔封じの護符を俺たちの体に貼るんだ」
最終形態の鏡太朗は、大勢の男女が同時に話す声で切子に語りかけた。その声を聞いた切子はゾッとして背筋に冷たいものが走り、全身に鳥肌が立った。
「げへへへ……。その魔封じの護符を貼れば、俺たちはこいつの中に封印され、こいつの魂がこの体を支配するようになる。お前はこいつを連れて、そこのつむじ風について行くんだ。咒いの神が、この村から出られるように導いてくれるはずだ」
『こ、怖くて体が動かない……』
切子は恐怖のあまり、全身が固まったかのように身動きができなかった。
「早くしろ! こいつの体はもう限界だぞ! もの凄い力がこの体の中で暴れ回って、もうすぐこの体は木っ端微塵に吹っ飛んじまうぞ!」
最終形態の鏡太朗が大人数の声で怒鳴ると、切子はハッとした。
『鏡太朗さんが? ゆ、勇気を出して……お、お札を貼らなくちゃ……』
「鏡太朗さあああああああああああああああんっ!」
切子は強く瞼を閉じ、叫び声を上げながら、右手で鏡太朗の胸にお札を貼りつけた。
突然、鏡太朗の体は輪郭が波打つのを止め、悲鳴も消えて静かになった。少しの間を置いて、大勢の人々の悲鳴が暗い森に響き渡り、鏡太朗は変身前の姿に戻ってうつ伏せに倒れた。鏡太朗には意識がなく、人形のように身動きをしなかった。
「鏡太朗さん!」
切子は鏡太朗に駆け寄ると、その背中に抱きついて堰を切ったように大声で泣き始めた。
「鏡太朗さん! 鏡太朗さあああああああん! また会えて、元に戻れて、本当によかったああああああああああああっ!」
切子は、今までこらえていた様々な感情を全て吐き出すように泣き続けた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
切子は気絶している鏡太朗をその細い体で背負い、森の中を歩いていた。十メートル先では紫と闇がまだらになった光のつむじ風が渦を巻いており、切子が進むべき方向へと導いていた。
『鏡太朗さんと一緒にいると安心できる。心が温かくなる。鏡太朗さんに触れると、とても幸せな気持ちになれる……。ずっと昔に、こんな気持ちを感じたことがある……』
切子の脳裏に、切子が五歳の頃の記憶が蘇った。
切子はソファに並んで座っている父と母に後ろから近づくと、二人の首に抱きついた。切子も父も母も幸せそうに笑っていた。
『パパ……。ママ……』
切子の両目に涙が浮かんだ。
『そうだ。鏡太朗さんと一緒にいると、パパとママと一緒にいた時の温かさを感じるんだ。それだけじゃない。鏡太朗さんのことを考えると、触れていると、幸せな気持ちに包まれながら、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。わたし、鏡太朗さんのことが……。
ううん、ダメよ! 鏡太朗さんみたいな素敵な人には、わたしなんかが関わるのは絶対ダメ! 鏡太朗さんのことも、わたしの中で高まっていくこの気持ちも、すぐに忘れないとダメ! ここから抜け出したら、すぐに鏡太朗さんのことは忘れよう……』
鏡太朗を背負って必死に歩く切子の目から大粒の涙が溢れ、切子は嗚咽を漏らした。
切子を導くつむじ風が突然消え去ると、森の向こう側にある未舗装の道路が切子の目に映った。道路の奥には、もみじのSUV車が停まっているのが見えた。
「出口だ! 鏡太朗さん、わたしたち森を抜けられましたよ!」
切子は涙で頬を濡らしたまま、思わず歓喜の声を上げた。
「ん……。ここは?」
「鏡太朗さん!」
切子の背中で鏡太朗が意識を回復し、切子は弾けるような声で鏡太朗の名前を叫んだ。
「き、切子ちゃん? ご、ごめん! 重いよね?」
鏡太朗は慌てて切子の背中から下り、切子は鏡太朗に背中を向けたまま両袖で涙を拭いた。鏡太朗は目の前に村の外の道路があることに気づき、喜びの声を上げた。
「切子ちゃん! やっと村から出られるんだ! 早く一緒に出よう!」
鏡太朗と切子は並んで道路に向かって走った。二人の表情は次第に明るく輝いていき、村を囲む結界の黒いしめ縄を溢れるような笑顔でくぐり抜けた。
「やったあああああああああああああああああああっ!」
鏡太朗は道路の真ん中で、両手を広げて歓喜の声を上げた。
切子は悲しみに沈んだ表情で、鏡太朗の背中をじっと見つめていた。
『これでもう鏡太朗さんのことは忘れるのよ……。今すぐ忘れないと……』
切子の目に映る鏡太朗の後ろ姿が、涙で揺らめいて見えた。
『忘れないと……。忘れないとダメ……』
切子の目からポロポロと涙が零れ落ち、その体が小刻みに震え出した。
『やっぱりできない……。できないよ……。鏡太朗さんのことを忘れるなんて。わたしは鏡太朗さんのことが……』
切子は煌めく涙を溢しながら鏡太朗に駆け寄り、その背中に抱きついた。
「わたし、鏡太朗さんのことが好き!」
鏡太朗の目が大きく見開いた。鏡太朗は目を大きく開いたまま、愕然とした表情でゆっくりと振り返った。鏡太朗の目には、悲しみに満ちた目で自分を見つめて涙を流す切子の姿が映った。
「き、切子ちゃん……?」
「わたし、鏡太朗さんのことが好きなの。好きで、好きで、もうこの気持ちを抑えられないの!」
鏡太朗は愕然とした表情のまま両膝をついた。その右脇腹の後ろには刃物で刺された傷があり、そこから血が流れ出していた。
悲痛な表情で涙を流し、体を震わせる切子の右手にはヘリコプターの隣で拾った果物ナイフが握られ、その刃先は鏡太朗の血で赤く濡れていた。
鏡太朗は目を見開いたまま、前のめりに地面に倒れた。
「痛っ!」
「ライちゃん、どうしたの?」
低空で夜空を飛ぶコアちゃんの背中の上で、來華が急に胸を右手で押さえて痛みを訴え、さくらが心配して声をかけた。
「何だかわからんが、急に胸の奥に刺すような痛みを感じるんじゃ……。さくら、あっちじゃ! 今すぐあっちに行かなきゃならないって気がしてならないんじゃ!」
「コアちゃん、あっちの方向に飛んで!」
さくらの命令を受け、コアちゃんは右側に進路を変更した。
朝死川村を囲む結界の外側の道路では、鏡太朗がナイフで刺された右脇腹の後ろから血を流し、うつ伏せに倒れていた。鏡太朗は呆然としたまま、切子に刺した理由を訊いた。
「き、切子ちゃん……、ど、どうして……?」
切子は涙を流しながら、声を絞り出した。
「わ、わたし……、とっても大好きな人が死んだら……、この世が終わってしまうかと思うくらい悲しみと絶望を感じるわ。でも……、その悲しみと絶望が薄らいでいくと、どうしてもその悲しみと絶望をもう一度味わいたくなるの……。
きっかけは八歳の時のことなの。わたし、小さい頃から、とてもおばあちゃんっ子だった。おばあちゃんは、いつも優しくて、一緒にいることが幸せで、わたしはおばあちゃんのことが大好きだった。いつも一緒にいたいって思ってたわ。でも、わたしが八歳の時、急に病気で死んじゃったの。悲しかった……。わたしの日常の全てが崩れ去っていくような絶望を感じたわ。わたしは毎日毎日おばあちゃんが恋しくて、泣いてばかりいた。でも、何か月か経った時、あんなに大きかった悲しみと絶望が薄らいでいることに気がついたの。その時、あんなに大好きだったおばあちゃんが、わたしの中から段々消えていくような気がして恐ろしくなったの。そして、理解したわ。わたしが悲しみと絶望で泣いている時は、おばあちゃんが一緒にいるって感じられる。でも、わたしが悲しみと絶望を感じていないと、大好きなおばあちゃんがわたしの中から、そして世界から消えてしまうのよ。
それに、わたしが悲しみと絶望の中にいる時、わたしは心のどこかで、自分は世界で一番の悲しみを背負った悲劇のヒロインだって感じていたわ。自分が悲しい物語の主人公のような気がして、そんな境遇に悦んでいる自分がわたしの心のどこかにいた。
九歳になって、おばあちゃんの死がわたしに心の痛みを与えてくれなくなった頃、わたしはもう一度あの悲しみと絶望を感じたくなったの。そうしたら、またおばあちゃんの存在を身近に感じられて、もう一度悲劇のヒロインになれる……。
とうとう我慢ができなくなったわたしは、大好きだったペットの犬のレオを散歩に連れ出して、山の中でナイフを刺したの。一回では死なずに、何度も何度も刺したわ。悲しかった。レオとはもう会えないと思うと、たまらないくらい悲しかった。でも、心の中が悲しみでいっぱいになると、とても満たされた気持ちになったの。
そして、レオの死の悲しみがわたしの中で薄らいだ時、また悲しみと絶望を味わいたくなった。とうとう我慢ができなくなったわたしは、夜中に包丁を持ち出して、弟が寝ている部屋に向かった……」
仰向けに倒れている鏡太朗は、目を見張った。
「まさか……」
切子は悲しみに沈んだ表情で答えた。
「そのまさかよ……。わたしは、大好きな人が死んだ時のあの悲しみと絶望に満たされたくなって、もう我慢ができなくなっていたの。パパとママとお姉ちゃんと弟の玻璃……。みんな、わたしが殺したのよ。とても悲しかったわ……。わたしの人生が終わったと思うくらい悲しいのに、世界が終わらずに続いているのが不思議に思えるくらい……。そして、とても大きな悲しみと絶望の中にいると、大好きなおばあちゃんとレオが……、パパとママとお姉ちゃんと弟の玻璃だって、わたしと一緒にいてくれるのを感じたのよ」
切子は涙を流しながら、悲しげな笑顔を見せた。
鏡太朗は苦しみに耐えながら、声を絞り出した。
「き、君は……、病気なんだよ……」
切子は自分自身を嘲笑するような笑いを見せた。
「そうよ。言ったでしょ? わたしは治らない病気で入院してたって。あの悲しみと絶望が薄らいで、記憶の中にしか残っていない毎日に耐えられなくなって、病棟を抜け出したのよ。もう一度、あの絶望と悲しみに満たされたいって思ったの」
鏡太朗はあることに思い当たり、激しく動揺した。
「ま、まさか…‥、みゃおは君が……?」
切子は止めどなく涙を流しながら言った。
「そう。みゃおとは出会ったばかりだったけど、わたしはみゃおのことが大好きになったの……。大好きになったら……、みゃおが死んだ時の悲しみと絶望を味わいたくなったの。そして、紫蘇の中に落ちていた鎌を見た瞬間、もうわたしは我慢ができなかった。あの鎌で、大好きなみゃおを何度も何度も刺したわ。わたしの大好きな親友のみゃおと二度と会えないなんて、とても悲しかった……。絶望を感じたわ……。そして……、心が満たされたの。
わたし、鏡太朗さんのことが好き。好きで、好きで、もうわたしの心を抑えられないの! 何度も命懸けでわたしを守ってくれた鏡太朗さんを殺すなんてダメ、好きになったらダメって、何度も自分に言い聞かせたわ。でも、もうこの気持ちは抑えられないの! わたしは鏡太朗さんのことが大好きなの! 大好きな鏡太朗さんが死んだ時の悲しみと絶望に……満たされたいの……」
切子はゆっくりと鏡太朗に歩み寄り、鏡太朗の隣に両膝をついてナイフを高く掲げると、瞼を閉じて涙を零し、身動きができない鏡太朗の背中を目がけてナイフを振り下ろした。
「鏡太朗さああああああああああああああああーん!」
切子は鏡太朗の名を叫びながら、鏡太朗の背中に何度も何度もナイフを振り下ろした。切子の目からは、煌めく涙が溢れていた。
「きゃっ!」
回転しながら飛んできた直径十センチの雪の結晶が、切子が振りかぶったナイフに命中し、ナイフは切子の手を離れて五メートル吹き飛んだ。切子が雪の結晶が飛んできた方向を見ると、百メートル離れた場所にまふゆが立っていた。まふゆは激しい怒りの表情で涙を流し、その隣に立っていたナツは怒りを露わにして切子に向かって駆け出した。
切子は背後から突き刺すような視線を感じて振り返ると、十メートル離れた場所にさくらと來華が涙を溢れさせながら、切子を睨んで立っており、二人の後ろには戦闘モードのコアちゃんに抱えられている意識がない鏡太朗の姿があった。鏡太朗の右脇腹の後ろからは血が滴り落ちていた。
「きょ、鏡太朗さん……? これはどういうこと?」
切子は呆然としてさっきまで鏡太朗がいた場所に目をやると、そこには草が生い茂り、その根本の土にはナイフを何度も突き刺した穴が開いていた。切子は異変に気づいて周囲を見渡すと、いつの間にか辺り一面はどこまでも続く草原に変わっており、空には満月が輝いていた。切子が再びまふゆに目を向けると、怒りの形相で自分に向かって近づくナツの後方にまふゆが立っており、その斜め後ろには正座しているもみじの姿があり、もみじの隣には龍雷が落ちていた。
「お前えええええええええっ! 鏡太朗に何をするんじゃああああああああっ!」
「どこの誰か知らないけど、あたしは絶対にあなたを許さない!」
來華とさくらが切子に向かって叫んだ時、もみじが立ち上がって大声で二人に言った。
「この娘のことはあたしに任せろーっ! それよりも、今すぐ鏡太朗をグリーンマンのところへ連れて行くんだーっ! 一刻を争うぞ、行けえええええええっ!」
もみじが立ち上がると、空の満月とどこまでも広がる草原は消え去り、もみじとまふゆは暗い森を背にして、黒いしめ縄をくぐってすぐの場所に立っていた。もみじとまふゆも切子に向かって駆け出した。
切子は地面に力なく座り込み、その前にナツが立った。
「俺は絶対にお前を許さない!」
ナツが燃え上がる怒りの形相で叫ぶと、切子は投げやりな口調で答えた。
「わたしもわたしが許せないの。悲しみと絶望に心惹かれてそれを求めるわたしと、そんなわたしが嫌いで許せないわたしがいるの。わたし、刃物を見るのが怖いの。刃物を見ると、わたしの中にいる怪物のように恐ろしいわたしが、わたしの心を支配しようとするんだもの……。何でわたしって、こんなわたしなんだろう? 大好きな人を殺して、その悲しみと絶望に満たされたくなるわたし……、そんな衝動を抑えることができないわたし……。自分のことが本当に嫌になるの。こんな狂気じみているわたしなんて、わたしの中から出て行ってくれたらどんなにいいだろうって思う。ねぇ……」
切子が感情を失った顔でナツを見上げた。
「いっそ、わたしを殺してくれない?」
戦闘モードのコアちゃんは、気絶している鏡太朗を両腕に抱いて超高速で空を飛んでいた。その背中では、さくらと來華が不安と悲しみで心が押しつぶされそうになりながら、コアちゃんにしがみついて涙を流していた。
『鏡ちゃん、無事でいて! 鏡ちゃんがいなくなるなんて、絶対に、絶対に嫌だよ! お願い、間に合って!』
『こんな時に何もできないなんて、たまらなく悔しいんじゃ! 鏡太朗、絶対に生きるんじゃ! 鏡太朗が死ぬなんて、絶対に許さないんじゃ!』
さくらと來華は、コアちゃんにしがみついている手と手が触れた時、心を支え合うかのように、お互いの手をしっかりと握り合った。
もみじとまふゆがナツの隣に立ち、三人は怒りを露わにして切子を睨んでいた。切子は涙を流しながら悲しげな表情を浮かべると、自嘲するかのような笑い顔を見せた。
「ねぇ! 誰でもいいから、わたしを殺して! 殺してよ! こんなわたしをもう終わらせて! お願いだよ!」
切子は地面に座り込んだまま、瞳孔が開いた目で三人を見上げて叫んだ。
「古より時節の移ろいを司りし青朱白玄之尊よ! その御力を宿し給え! 凍結之玄光!」
まふゆの右の人差し指と中指から発射された玄色の光線が切子を包み、切子の体は凍りついた。
「あんたは病気よ。あんたに必要なのは治療よ」
まふゆは凍りついて意識がない切子に向かって、冷たい口調で言った。もみじがまふゆとナツに言った。
「とりあえず、この道を先に進んでみるぞ。道があるってことは、きっとどこかに繋がっているはずだ。切子は迷子が倒れていたと言って、警察に引き渡そう」
「も、もみじさん!」
まふゆが驚きの声を上げ、もみじとナツがまふゆの視線の先に目を向けると、凍りついている切子の体から、人の形の影のようなものが抜け出ており、その背中には天使のような翼の影がついていた。
「こ、これは!」
もみじは愕然として天使の形の影を見つめた。
「ふふふ……」
天使の形の影は若い女性の声で笑うと、背中の翼を羽ばたかせて空高くへ飛び上がった。
「あはははははははははははーっ!」
天使の形の影は大声で高笑いをしながら、空の彼方へ飛び去っていった。
「そ……、そんな……。う、嘘だろ? こんな……、こんなことが起こるなんて……」
もみじは自分の目が信じられないかのように、目を見開いたまま、飛び去っていく影をいつまでも見つめていた。




