12 開いた咒いの門
朝死川霊園の結界から百メートルの間隔を置いて、ヘリコプターが隣のグラウンドに着陸し、回転していたプロペラが停止した。
「ご苦労だったね〜。術を解くから、元のヘリコプターに戻ってね〜」
ヘリコプターの操縦席で咒恨が両手の指を手の内側で組み、『むん!』と短い気合を発してから両掌をヘリコプターの計器類に向けると、計器類から黒い霧が立ち上り、目と口に変化していた計器は元の状態に戻った。
「咒恨様ーっ! 俺の拘束も解いてくださいよーっ!」
ヘリコプターの後部座席で転がっている悪霊に支配されたおじいさんが、両手首と両足首を闇でできたマムシの式神に巻きつかれたまま、気弱な表情で咒恨に懇願した。咒恨はヘリコプターのドアを開きながら、笑顔で答えた。
「ダメだよ〜。俺はこれから大事な仕事があるからね〜、気が散らないように、そのままそこにいて頂戴。大丈夫! 君の手首と足首に巻きついている式神は、日の出とともに元の手拭いに戻るように術をかけているから、朝まで寝てるといいよ。じゃあ、おやすみ〜っ! あ、寝ながら俺の荷物は見張っててね〜」
「そ、そんなぁ〜!」
悪霊に支配されたおじいさんの情けない声を背中で聞きながら、咒恨はヘリコプターを降りた。
「年に一度の大切な儀式に何とか間に合ったみたいだな〜。さぁて、面倒くさいけどさ〜、年に一回の禍忌凶怨咒尊様のご機嫌取りをしなくちゃね〜」
蔵の中では、漆咒魄の七つの顔が狂ったような甲高い叫び声を一斉に上げ、漆咒魄の全身から、決壊したダムから噴き出す大量の水の奔流のような黒い闇がもみじに迫った。
咒嗟が、もみじに向かって甲高い声で言った。
「漆咒魄の七体の悪霊が同時に全力で咒靈力を発するこの『砕滅の叫び』は、あらゆる物体を粉々にして破壊するぞよ! お前の目の前で粉々になって崩壊した橋のように、今度はお前の体が至る場所から次々と血を噴き出し、やがて体全体が一気に破裂して粉々になるのであるぞ!」
「もみじさん!」
まふゆは涙を散らしてもみじの名を叫んだ。
もみじの視界が、濁流のような黒い闇の奔流で覆い尽くされ、もみじは両前腕を目の前で交差させて顔をガードした。
「うっ! ううっ!」
もみじが呻き声を上げると、もみじの左首筋から血が噴き出し、右前腕、左足首からも血が噴き出した。
咒嗟が楽しそうに言った。
「血が噴き出し始めたぞよ! やがて、お前の体が砕滅の叫びに耐えられる限界を超える瞬間を迎え、お前の体は血まみれになって爆発するのであるぞよ!」
「もみじさああああああああああああああああああああん!」
蔵の中にまふゆが泣き叫ぶ声が響いた。
「ぐわあああああああっ!」
もみじの右ふくらはぎからも、血が噴き出した。
咒嗟が甲高い声で楽しそうに言った。
「間もなく、お前の体はあの橋のように粉々になるのである!」
「お、おめぇ……、勘違いしてるんじゃねぇぞ。この血はなぁ、あたしが肉体の限界を超えるほどの大量の霊力を集めて、砕滅の叫びから身を守っているからなんだよおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
砕滅の叫びの黒い奔流は、もみじの体から三センチ離れた場所で止まっていた。
「おめぇらにまふゆを渡して、たまるかああああああああああああああああああああああああああっ!」
もみじは胸を張って渾身の力で叫んだ。もみじの全身から津波のような衝撃波が発生し、衝撃波は砕滅の叫びを粉砕しながら漆咒魄を呑み込み、漆咒魄の全身を粉々に破壊すると、その後ろの壁を大破させて外の闇の中へ消えていった。
漆咒魄の体の破片は床に落下し、その上には闇のオーラをまとった影のような七体の邪悪な顔の悪霊が宙に浮かんでいた。
もみじは右手の人差し指と中指をグルグル回しながら叫んだ。
「こんな衝撃波を出したのは、野球場をぶっ壊しちまった時以来だぜーっ! 今すぐおめぇらを祓ってやるからなーっ! 古より雷を司りし天翔迅雷之命よ! その御力を宿し給え! 稲妻之旋風ええええええええええっ!」
もみじの右手の二本の指の先から雷が螺旋状に伸びていき、漆咒魄の七体の悪霊に命中すると、悪霊たちは雷に包まれて絶叫した。
「ぎゃあああああああああああああああああああああっ!」
悪霊たちは苦しげに叫びながら小さくなっていき、小さな白い光の粒に姿を変えると、天井の穴から天高く上っていった。
もみじは、空に消えていく光の粒を見上げて呟いた。
「これからおめぇらは、黄泉の国へ行くんだ。いつの日か、再び生まれ変わることがあっても、もう悪霊にはなるんじゃねーぞ」
「はぁ、はぁ、はぁ」
切子をおぶって走る鏡太朗の前方の木々の向こう側に、紫蘇が生えていない開けた場所が見えてきた。
「鏡太朗さん! 森の出口が見えました!」
切子が鏡太朗に抱きついたまま、笑顔を見せた。
「やっと、森を出られたあああああああああああああああっ!」
鏡太朗は笑顔で叫びながら森を抜け、そのままグラウンドを走り続けた。
「鏡太朗さん、さっきのヘリコプターがありました!」
切子は鏡太朗の背中にいる間に、笑顔で元気に喋るようになっていた。鏡太朗は声を潜めて切子に言った。
「グラウンドの隣の霊園を囲む結界の前に、誰か立っているね。結界の向こう側は暗くてよく見えないけど、あの人の前に何かがたくさん集まっていて、何か騒がしいな。一体何をしているんだろう? あの人は、おばあさんが言ってた禰宜という神職の人なのかな? あの人は悪霊に支配されているんだろうか? もし、正常な人だったら、助けてもらいたい。静かにヘリコプターの後ろに回り込んで、様子を見てみよう」
鏡太朗は切子をおぶったまま、ヘリコプターの背後に向かってできるだけ足音を立てないように歩いた。
切子は鏡太朗にしがみつきながら、驚きの表情を浮かべていた。
『わたし、さっきから元気に笑顔で話をしている……。鏡太朗さんの背中にくっついていると、何だかとても心が落ち着いて、楽しい気分になれる……。こんなに楽しい気分を感じたのって何年振りだろう? わたし、もしかして鏡太朗さんのことを……。でも、ダメ! わたしなんかが……、わたしなんかが誰かを好きになるなんて、絶対にダメだよ……』
切子は悲しみと寂しさが入り混じった表情で、目に涙を浮かべた。
ヘリコプターの後部座席では、悪霊に支配されたパイロットのおじいさんが、手首と足首を黒いマムシの式神に拘束されて転がっており、邪悪そうな顔つきで悲しみの涙を流していた。
「せっかくこのじーさんと体の支配を入れ替われる時間なのに、これじゃあ何もできない……。窓からも暗い夜空しか見えない……。悲しい……」
ヘリコプターに向かって近づいていた鏡太朗は、何かに気づいて愕然として突然足を止めた。
「鏡太朗さん、どうしたの?」
切子が鏡太朗の耳元に口を寄せて、小声で訊いた。鏡太朗は目を見開いて激しく狼狽しており、上ずった声で答えた。
「き、切子ちゃんには、あ、あれが見えないの……? こ、これが……聞こえないの……?」
「え? 何も見えないし、聞こえないけど……」
鏡太朗の目に映っていたのは、霊園の外に立つ黒衣の男に向かって、霊園の内側にいる二百体以上の幽霊が押し寄せている光景だった。幽霊たちは何かに恐れ慄きながら、必死の形相で泣き叫んでいた。
「助けてくれーっ! 早くここから出してくれーっ!」
「消えたくない! 消えるのは嫌だーっ!」
「お前が地縛霊だった俺を拐ってここに連れてきたんだーっ! 早く俺をここから出せーっ!」
「あたしだって、浮遊霊として自由に伸び伸びと毎日を過ごしていたのに、あんたが無理やりここへ連れてきて、こんなひどい目に!」
黒衣の男、咒恨は笑いながら適当に相槌を打った。
「はいはい、わかった、わかったよ〜」
「お願い助けてーっ!」
泣き叫びながら咒恨に迫る幽霊たちは、目の前に見えない壁があるかのように、霊園の外周に張り巡らされた黒いしめ縄と血まみれの紙垂の結界から外側には、体の一部さえ出ることができなかった。
鏡太朗は呆然として立ちすくんでいた。
「こ、こんなに必死に助けを求める人を見たことがない……。ここにいるたくさんの幽霊の恐怖と悲しみと絶望を感じて、胸が押しつぶされそうだ。そ、そうだ。あの幽霊たちを助けなきゃ……」
鏡太朗が右足を前に出そうとした時、両脚がガクガクと激しく震えていることに気づいた。
「う……、動けない……。あの幽霊たちの恐怖と悲しみと絶望が俺の心に津波のように押し寄せて、体が思い通りに動かない……」
『鏡太朗さん……。そうだ、わたしは鏡太朗さんの力にはなれなくても、今は鏡太朗さんのお荷物になっちゃいけない』
切子は鏡太朗の背中から降りてその隣に立ち、鏡太朗の横顔を見た。鏡太朗は目を剥いたまま表情が固まり、全身を震わせていた。
咒恨は笑いながら懐に右手を入れた。
「三か月もの間、日本全国を回って、君たちの仲間を集めてきたんだよ〜。これで寂しくないよね〜? 君たちの道連れだよ〜」
咒恨はそう言いながら、懐から四体の闇でできたマムシの式神を鷲掴みにして取り出した。その柔和な笑顔の目の中には、冷酷な光が宿っていた。
「さあ、式神たち。三か月間のお仕事、お疲れ様〜。最後の仕事だよ〜。全国各地で捕まえた浮遊霊と地縛霊を結界の中に吐き出しちゃってね〜」
四体のマムシの式神は咒恨の命令を聞くと、目の前に押し寄せている二百体以上の幽霊たちの頭よりも高く首を伸ばし、頭だけを黒いしめ縄の結界の内側に侵入させた。四体のマムシの式神は口を大きく開くと、これまでに呑み込んでいた合計百数十個の小さな白い光の粒を勢いよく吐き出し、光の粒は二百体以上の幽霊たちの後方まで吹き飛ばされた。光の粒は地面の上で百数十体の幽霊の姿に変わると、その幽霊たちは自分たちがどこにいるのかがわからず、キョロキョロと周囲を見渡した。マムシの式神たちは光の粒を吐き出した後、術が解けて元の四本の手拭いに戻り、結界の外側に落下した。
咒恨は満足げな笑顔で大声を出した。
「さぁ、我らが禍々しき咒いの神、禍忌凶怨咒尊様! 一年分の三百六十五体の魂を集めて参りました! この魂を神饌としてお供えいたします! どうか、お召し上がりください!」
鏡太朗は咒恨の言葉が理解できずに混乱していた。
「『お召し上がりください』? あの人、一体何を言ってるんだ?」
突如、地面が大きく揺れ始めた。
「鏡太朗さん! 地震です!」
切子は周囲を見回して叫んだが、鏡太朗の目には切子とは全く違う光景が見えていた。
「いや……、地震なんかじゃない……。こんなことが……、こんなことがあるなんて……、信じられない」
鏡太朗の目に映っていたのは、霊園の地面と木で作られた墓標が消え去り、黒いしめ縄の結界の内側の地面全体が、巨大な穴になっている光景だった。穴の内側は黒い雲のようなものでできた巨大なトンネルになっており、三百六十五体の幽霊たちは、泣き叫びながらトンネルの奥へ次々と吸い込まれていった。
「助けてくれーっ!」
「消えるのは嫌だーっ!」
「あたしを食べないでーっ!」
「ぎゃあああああああああああああ……」
「きゃあああああああああああああ……」
鏡太朗は震えながら目を見開き、目の前で展開する地獄のような光景から目を離せないでいた。
「あ、そうだった〜」
咒恨は幽霊たちの絶叫など耳に入らないかのように、呑気な声を上げると、右手を懐に入れて一体の黒いマムシの式神を取り出した。
「そういえば、もう一個あったんだっけ。さっき、ヘリコプターに乗っていた時に飛んでいた魂があったんだ。忘れちゃってたよ〜」
咒恨は右手に持つマムシの式神に向かって命じた。
「さあ、さっき捕まえた魂を禍忌凶怨咒尊様に献上しちゃってね〜。禍忌凶怨咒尊様、サービスのデザートですよ〜」
マムシの式神は首を伸ばし、結界の中に頭を侵入させると、小さな白い光の粒を吐き出し、その後は手拭いの姿に戻った。
その時、鏡太朗の耳に聞き馴染みがある声が届いた。
「この声は!」
鏡太朗は目を大きく見開いて、もの凄いスピードで結界に向かって駆け出した。
「この声は……、この声は……」
結界の中で地面に開いた大きなトンネルの上で、白い光の粒はみゃおの姿に変わっており、悲鳴のように『みゃおーっ!』と繰り返し鳴き声を上げていた。
「みゃおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
鏡太朗は涙を散らして叫びながら、みゃおの魂に向かって疾走した。みゃおの魂が鏡太朗に気づき、鏡太朗に向かって両前足を伸ばし、助けを求めるように鳴き声を上げた。
「みゃあーっ! みゃあーっ! みゃあーっ!」
みゃおの魂は、地面に大きく開いたトンネルに引き寄せられていた。鏡太朗がトンネルに近づくと、黒い雲のようなトンネルの黒い壁は、人間や、鬼族を始めとする様々な種族の魔物たちの無数の亡者の顔で構成されていることが判別でき、絶望や憎悪、悲痛の表情を浮かべながら呻き声を上げ、顔と顔の間からは無数の腕が伸びて、何か掴むものを求めているかのように手が宙を彷徨っていた。みゃおの魂はトンネルから逃れようとして必死に藻掻いたが、次第にトンネルに吸い寄せられてトンネルの入口に差しかかった。
「みゃおおおおおおおおおおおおっ!」
結界の前まで到達した鏡太朗は両膝と左手を地面について、右手をみゃおに向かって伸ばそうとしたが、見えない壁に右手を弾き返された。
咒恨がすぐ目の前の鏡太朗を見下ろし、呑気な声で言った。
「あれ〜? 君、誰? 今は『咒いの門』が開いているから、特別な術を遣わないと結界の中には入れないよ〜。門が閉じるまで待っててね〜」
「ちくしょおおおおおおおおおおおっ! みゃおおおおおおおおおおおおおっ!」
鏡太朗は泣き叫びながら、渾身の力を込めて右の拳を見えない壁に叩き込んだ。
「だから無理だって言ってるのに〜。大人の忠告は聞くもん……」
笑顔で鏡太朗に語りかけていた咒恨の両目が、大きく見開いた。鏡太朗の右の拳は見えない壁を突き抜け、見えない壁の向こう側に右肘まで侵入していた。見えない壁から黒い雷のような咒靈力の塊が鏡太朗の全身を駆け巡り、鏡太朗は激痛に耐えながら右手をみゃおの魂に向けて伸ばしていた。
「があああああああああっ! みゃ、みゃお……」
鏡太朗は苦悶の表情で必死にみゃおに向かって右手を伸ばし、みゃおは自分を吸い寄せる力に抗いながら、必死に鏡太朗に両前足を伸ばし、救いを求めるように鳴き続けていた。
「みゃあ! みゃあ! みゃあ!」
「もう少し、もう少しだ……。みゃおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
鏡太朗は全身を駆け巡る咒靈力の雷の激痛に耐えながら、渾身の力を込めてみゃおに向かって右手を伸ばし、鏡太朗の右腕は右肩まで見えない壁に侵入した。
「みゃお! 絶対に助けるから! もう少し頑張って!」
みゃおの魂はトンネルの吸い寄せる力に必死で抵抗し、少しだけ体が浮き上がった。鏡太朗は渾身の力を込めて、右手をさらに奥へ伸ばした。
「みゃおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
やっとのことで鏡太朗の右手がみゃおの体を掴んだ。
「え?」
愕然とする鏡太朗の目の前で、みゃおの魂は鏡太朗の右手を通り抜けた。
「みゃあーっ! みゃあーっ!」
みゃおは鏡太朗に向かって悲しく鳴きながら、トンネルの奥へ消えていった。呻きながら蠢く亡者の顔と、何かを掴もうとして宙を彷徨う腕でつくられたトンネルの壁はどこまでも深く、どこまでも続いていた。
「みゃお……」
鏡太朗は右腕を見えない壁に差し込んだまま、力なくうなだれた。
やがて、トンネルは中心部分に向かって小さくなって消え去り、結界の中は元の霊園の姿に戻った。
鏡太朗が右腕を差し込んでいた見えない壁も消え、鏡太朗は地面に倒れ込んだ。
咒恨は笑顔で鏡太朗に言った。
「待たせたね〜。『咒いの門』が閉じたから、今なら中に入れるよ〜。もっとも、魂だけの姿で霊園の中に入っちゃったら、この結界の力で二度と外には出られないけどね〜」
鏡太朗は俯きながら、ゆっくりと体を起こした。
「お前……、お前……」
「君、君〜! 目上の人に『お前』なんて言っちゃダメだよ〜」
咒恨は柔和な笑顔のまま、諭すように注意した。
鏡太朗は立ち上がり、咒恨に向かって顔を上げた。涙が溢れるその顔は燃え上がるような怒りが満ちており、限界を超えた怒りで体中がワナワナと震えていた。鏡太朗は爆発するような激しい怒りを込めて叫び声を上げた。
「俺は絶対にお前を許さないいいいいいいいいいいいいいいっ!」




