K as in Kill(殺すのK)、VII
「くしゅん!」
瑛子は口元を二の腕に当ててくしゃみをした。最近、秋によく、くしゃみが出るのだ。ついでに、鼻水も出る。
花粉症か。秋というと、ブタクサか。
いや、そんなことはない。何かの勘違いだ。違う、違う。これは違うの。
瑛子は心の中で繰り返した。
だって、春の花粉症だって辛いのに、秋まで花粉症になるなんて、やってられない。
「Kleenexはどこよ?」
今にも垂れそうな鼻を押さえながら、瑛子はティッシュを探した。ソファの下に落ちていたティッシュの箱は、空だった。
使い切ったなら新しいの出しておいてよ。
ぷりぷり怒りながら、瑛子は棚からティッシュの箱を出そうとして……
見つからない。Kleenex が見つからない。
ああ! そうだ! 切れてたんだ! だから買ってくるものリストに入れておいたのに。
最近いろいろあり過ぎて、いろいろなことが頭から抜けている。
「Kleenex, Kleenex, Kleenex please!」
瑛子はビジネスカバンをあさって、ポケットティッシュを掴み出した。
なんとか、ギリギリのところで鼻をかむ。続けて鼻をかんだらポケットティッシュはあっという間になくなってしまった。
瑛子は冷蔵庫に貼ってあるホワイトボードに、でかでかと『Kleenex』と書いた。
Kleenexとは、なんのこっちゃ? と思うかもしれないが、これはティッシュペーパーのことだ。商標ではあるが、アメリカではKleenexといえばティッシュのことを指す。これもサランラップと同様、ブランド名があまりにも有名になったので、それがそのままその品を表す言葉となった例の一つだ。
夕食後、瑛子はデザート用のキウイ(kiwi fruit)をナイフ(knife)で切った。すると、思い出されるのがあのナイフ(knife)事件。
後日よく話を聞いてみると、なんと丹野先生の奥様のカバンに入っていたナイフ(knife)は、一本ではなく、実は複数だったらしい。複数、というところに、彼女の本気度が見えてくるというものだ。
ナイフ(knife)を複数形にすると、knives となる。knifesではない。間違いやすいので、要注意だ。
他にも、-fe終わりの言葉は、複数形の変化に気をつけた方がいい。
例えば、妻(wife)も同じような変化をする。複数形は、wifes ではなく、wives となる。
あとは、
leaf-leaves (葉っぱ)
Loaf-loaves (パンの塊、つまり一斤の『斤』)
あたりが頻出語か。
「今回の被害総額、Kに届くかもしれないってウワサよ」
トントンとキウイ(kiwi fruit)を切っていると、幸子先生の言葉が頭に思い浮かんだ。
「……え……Kですか……?」
恐る恐る、瑛子は聞き返した。
「そ。生徒様フォローとセキュリティ導入、それからメディア対策でね」
幸子先生は肩をすくめた。
Wooooow!
瑛子は声に出さず、唇だけそう動かした。
Kとは、千の略のことだ。
例えば、1Kなら千、2Kなら二千という意味になる。書き取りをする時によく使われる速記法だ。
Kは千。さすがに一千円であるはずがないので、次に繰り上げられる日本円の単位としては、『万円』だろう。
つまり、Kは一千万円だと幸子先生は示唆しているのだ。
「えっと、私たちの……ボーナスは……?」
人の安全が第一だとは言え、お給料だって死活問題だ。瑛子の声も不安を帯びてくる。
「ないらしいわよ、次は」
幸子先生はあっさりとしたものだ。
「ええええええ、そんなぁぁぁ」
瑛子は一気に力が抜けて肩を落とした。
契約社員でも、勤務時間が一定数を超えればボーナスが支給されるのが、瑛子の教室のいいところだったのに。
「たかが夫の浮気で、ここまで大問題に……ねえ」
回想を終えた瑛子は、ため息をついた。
もう少し冷静になって考えてから行動しろよ、いい大人が、と思いはすれど、それは側から見ているから言えることなのかもしれない。愛やら恋やらには、常識を凌駕する秘められたパワーがあるのだろう。
瑛子もそうなるだろうか?
例えば、夫の浮気が明るみになったら。
うーんと考えて、すぐにないなと結論付ける。殺し(kill)たいほど愛しているわけでもなければ、嫌いなわけでもない。だが、それでもやはり現実を突きつけられたら、衝動的に行動してしまうものなのだろうか?
むしろ。
Kill two birds with one stone.
『一石二鳥』で、いいんじゃないかとすら思う。
あちらの過失で別れることができて、なおかつ慰謝料だってもらえるんだろうから。
……なんて、先のことなんてわからないけどね。
瑛子は肩をすくめて、新婚旅行でオーストラリアに行った時に買ったコアラ(koala)の陶器の置物をそっと撫でた。




