A as in Apple(りんごのA), I
Aから始まる英単語の回。基本は中学校で習う単語。
「瑛子先生、a の使い方がわからないんです」
思い詰めた顔で瑛子に話しかけてきたのは、瑛子の生徒さんの一人である女子高生だった。
「……はい?」
講師用のテーブルで書類をまとめていた瑛子は、思わず間抜けな返事を返してしまった。
レッスン終わりの教室には、他に生徒さんはいない。教室といっても学校のような大きな教室ではなく、最大八名が座れる椅子と机が置いてあるだけのこじんまりとした部屋だ。
壁には英会話教室らしく、動物(animals)の絵付きのアルファベット(alphabet)チャートが貼られていたり、英語の格言などが並んでいる。英会話教室のポスターは端が破れて黄色く変色している。インタビュー記事(article)に載っているのは、この教室の生徒さんのお一人だ。
大きな窓から差し込むのは夕陽。
外から聞こえてくるのは夕方のチャイム。
ここは瑛子の働く英会話教室だ。
大きな都市ではないが、全国規模でいえばそれなりに大きな街の、そこそこ主要な駅から徒歩五分という好条件の、全国チェーンの英会話教室の一つだ。
瑛子はここで長年い間、非常勤英会話講師として働いている。
今はちょうどレッスンが終わったところだ。これからの予定の事を考えながら教材を片付けていた瑛子は、咄嗟に反応が遅れてしまった。
瑛子の目の前に立っているのは、メイクなどしなくても全く問題のない、透き通るような真っ白な肌をした女子高生だ。
一度も染めたことのないような黒髪はポニーテールにまとめてあり、キリッとした目元がよく際立っている。
セーラー服から覗く白い足が眩しい。
どこかの広告(advertisement)の写真にでも出ていそうな、正統派美人といった感じの女の子だ。若手の女優さん(actress)と言われたら納得しそうな容姿(appearance)である。
進学塾の広告にでもなっていそうな真面目かつ人目を引く(appealing)彼女が、教材を持ってカメラに向かって微笑んだら、それは絵になることだろう。
ついでにうちの教室のSNSにも出てくれないだろうか。今度のイベントで写真掲載の許可を取れないか、さりげなく聞いて……とそれどころじゃなくて。
瑛子は下心を隠すと、咄嗟にできてしまった間を取り繕うように、笑顔で女子高生の方を振り向いた。
「aの使い方がわからないんです」
女子高生は繰り返した。
……あー、aね。
瑛子はなるほどと頷いた。
『aとanの使い方』
これが今日のレッスンのお題だった。
いわゆる英語の冠詞(article)というやつだ。
名詞が不特定のものを指す時に、名詞の前につけるのが、不定冠詞(indefinite article)のaかan。
逆に特定のものを指す時につけるのは、定冠詞(definite article)といい、a/anの代わりにtheを使う。
もうここまで聞いただけで、やってられるかと投げ出す人も多いんじゃないだろうか。
確かに日本語には無い概念なので、初心者が苦労する項目ではある。さて、どうしたものか。
瑛子は目の前の女子高生の思い詰めた顔を見て、くらりと目が回ったような気分になった。
……若い。若いわ。
たかが冠詞の使い方でこれだけ思い詰めることができるなんて、なんて若いのだろう。
そんな純粋で真面目な時期はとうに通り過ぎてしまった自分を顧みて、歳(age)を感じた瑛子はため息が出そうになる。が、それを慌てて飲み込む。感傷に耽っている暇はない。
「確かに日本語にはないコンセプトですからね。ちょっと難しいかもしれないですけど。でも一度でわからなくても大丈夫ですよ」
瑛子はなるべく優しい声を心がけて女子高生に微笑んだ。もちろん、話す時は敬語がデフォルトだ。なぜなら。
瑛子は英会話講師だ。
英会話講師という職業は、名目上は講師であり、生徒さんからは『先生』と呼ばれる存在ではあるが、所詮はサービス業に従事する勤め人だ。
生徒は『生徒様』であり、『お客様』である。
学校の先生のようにふんぞり返って、「あれをしろ」、「これをしろ」、「先生の言うことには黙って従え」、などと命令すればいいわけではない。
そんなことをしたら、すぐにクレームが入ってくる。
そして、瑛子は非常勤講師である。
つまり、時給で働いているということ。フルタイムの先生とは違う。
今日のレッスンはもう終わってしまったので、この時間は生徒のケアをしても給料は発生しない。
今日は下の子のそろばん教室がないから、早く家に帰りたいのだけど……




