沈黙の洋菓子店(小さな贈り物)
女がいた。
洋菓子店で働いていた。
特にケーキが好きなわけじゃなかった。
ただ、かわいい制服とSNSに載せやすい内装が決め手だった。
でも、忙しすぎるのはゴメンだったから、
人通りはそこそこ、下町のちょっと洒落た店を選んだ。
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「いらっしゃいませ〜。」
気のない声も、マニュアル通りなら文句は言われない。
ケーキを並べ、レジを打ち、笑顔だけ作ればいい。
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ある土曜日の夕方、
ガラスのドアがカランと鳴った。
入ってきたのは、小さな男の子だった。
両手で小さな財布を握りしめている。
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ショーケースの前で目を丸くして、
でもすぐに決めたようだった。
「このケーキください。」
指さしたのは小ぶりの苺ショート。
一番人気だけど、正直手間のかかるやつだ。
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レジに並んだ男の子が、
財布を開けて、じゃらじゃらと小銭を取り出した。
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「……めんどくさ。」
心の中でだけ毒づいた。
忙しい時間でもないのに、
なぜかその日だけは面倒に感じた。
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必死に数える小さな手。
何度も数え直している。
ポロリ。
一枚の五円玉が床に転がった。
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その瞬間——
——世界が止まった。
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レジのディスプレイが光を残したまま固まっている。
外の人影も、道を走る自転車も止まっている。
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「は? なにこれ……。」
女は声を出した。
店内に自分の息遣いだけが響いた。
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店の奥を振り返り、誰も動かないのを確かめる。
「……ちょっとだけ、食べちゃおうかな。」
ショーケースを開けかけた指が止まった。
視線の先に、男の子の財布があった。
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中をのぞいた。
百円玉と十円玉、小銭がぎゅうぎゅうに詰まっている。
――少しでも札を崩さず、
――少しでも釣りが出ないように。
無理やり計算した跡が見えた。
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ふいに脳裏に浮かんだ。
昔の自分。
まだ小さかったころ。
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母の誕生日に、こっそりお小遣いを貯めた。
ケーキ屋さんの大きなガラスケースに鼻をくっつけて、
一番きれいなケーキを選んだ。
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小さな財布をひっくり返して、
小銭をぶちまけた。
恥ずかしくて泣きそうだった。
でも、あのときのお姉さんは笑ってくれた。
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「一緒に数えようね。」
小さなクッキーを、おまけに包んでくれた。
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あの優しさが、すべてだった。
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女は息をついた。
ため息じゃない、何かを吐き出すような小さな音だった。
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落ちた五円玉を拾い、
財布にそっと戻す。
レジ横の棚から小さなクッキーを一つ取った。
レジの奥、自分の財布から小銭を出して、
こっそり代金を打ち込んだ。
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男の子のケーキをきれいに箱に詰め、
クッキーを小袋に入れて添えた。
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「……よし。」
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——世界が動き出した。
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男の子が目を瞬かせて財布を握りしめたまま、
お金をきちんと差し出した。
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「ありがとうございます!」
両手で袋を受け取る。
小さな手が、嬉しそうに震えていた。
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女は、声をかけた。
「クッキー、入ってるからね。」
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男の子の顔がぱっとはじけた。
何か言いかけて、でも言葉にできなくて、
深々とお辞儀をした。
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袋を胸に抱えて店を出る小さな背中。
それを見送る自分の胸の奥が、少し熱かった。
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仕事は面倒くさいだけじゃない。
ケーキはおしゃれな小道具じゃない。
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自分も誰かに憧れられる人になりたかったはずだ。
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女は奥に戻ると、エプロンのポケットを握りしめた。
甘いバターの香りが、やけに心地よかった。
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——その日、世界は3分間だけ止まった。




