表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/94

沈黙の努力(真夜中の背中)



男がいた。


市役所勤めの真面目な公務員だった。

失敗が嫌いで、間違いが嫌いで、

要領を得ない者や努力の見えない者を

心の底で軽んじていた。


——特に、夜の街にいる女たち。

金で笑顔を売るだけの存在だと思っていた。



---


ある夜、遅い残業を終えて、

いつものように人通りの多い繁華街を通り抜けた。


ビルの隙間から、

白いドレスを着たキャバクラ嬢が一人、

ゴミ袋を抱えて店の裏口に立っているのが見えた。


「……やれやれ。」


見下すように視線を逸らした、その瞬間だった。



---


——世界が止まった。



---


喧騒が途切れた。

看板の光も、遠くの信号も、何もかもが止まっていた。


男は足を止めた。

時間が止まったのか、自分だけが置いていかれたのか。



---


視界の端に、

凍ったように立つ彼女が見えた。


ゴミ袋の脇には、潰れた空き缶が散らばっていた。

足元にはコンビニ袋に詰め込まれた食べ残し。

彼女のか細い手には、破れかけのノートが見えた。



---


興味がわき、覗いて見た。

文字がびっしり並んでいた。

資格試験の参考書を写したノートだった。



---


「……努力しているんだな。」


小さく声が漏れた。

笑顔だけで生きていると思っていた。

何も背負っていないと思っていた。



---


ゴミ袋から飛び出した割れた瓶の口に目が留まった。

このままでは怪我をする。

男はネクタイを外すと、

瓶の尖った先をそっと包んだ。



---


「……くだらなくなんか、ないか。」


止まった世界で、

一度だけ、誰にも届かない言葉を落とした。



---


——世界が動き出す。


女は気付かないまま、

新しいゴミ袋を抱えて歩き出した。


男はゆっくりとネクタイをゴミ袋にくるんで離した。

それだけのことだった。



---


背を向けて歩き出す。

夜の街の灯りが、少しだけ暖かく見えた。



---


家に着いたら、

しばらく放り投げていた自分の資格参考書を開こうと思った。


——その日、世界は3分間だけ止まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ