沈黙の努力(真夜中の背中)
男がいた。
市役所勤めの真面目な公務員だった。
失敗が嫌いで、間違いが嫌いで、
要領を得ない者や努力の見えない者を
心の底で軽んじていた。
——特に、夜の街にいる女たち。
金で笑顔を売るだけの存在だと思っていた。
---
ある夜、遅い残業を終えて、
いつものように人通りの多い繁華街を通り抜けた。
ビルの隙間から、
白いドレスを着たキャバクラ嬢が一人、
ゴミ袋を抱えて店の裏口に立っているのが見えた。
「……やれやれ。」
見下すように視線を逸らした、その瞬間だった。
---
——世界が止まった。
---
喧騒が途切れた。
看板の光も、遠くの信号も、何もかもが止まっていた。
男は足を止めた。
時間が止まったのか、自分だけが置いていかれたのか。
---
視界の端に、
凍ったように立つ彼女が見えた。
ゴミ袋の脇には、潰れた空き缶が散らばっていた。
足元にはコンビニ袋に詰め込まれた食べ残し。
彼女のか細い手には、破れかけのノートが見えた。
---
興味がわき、覗いて見た。
文字がびっしり並んでいた。
資格試験の参考書を写したノートだった。
---
「……努力しているんだな。」
小さく声が漏れた。
笑顔だけで生きていると思っていた。
何も背負っていないと思っていた。
---
ゴミ袋から飛び出した割れた瓶の口に目が留まった。
このままでは怪我をする。
男はネクタイを外すと、
瓶の尖った先をそっと包んだ。
---
「……くだらなくなんか、ないか。」
止まった世界で、
一度だけ、誰にも届かない言葉を落とした。
---
——世界が動き出す。
女は気付かないまま、
新しいゴミ袋を抱えて歩き出した。
男はゆっくりとネクタイをゴミ袋にくるんで離した。
それだけのことだった。
---
背を向けて歩き出す。
夜の街の灯りが、少しだけ暖かく見えた。
---
家に着いたら、
しばらく放り投げていた自分の資格参考書を開こうと思った。
——その日、世界は3分間だけ止まった。




