沈黙の環状線 (影の走者)
男がいた。
走りたいと願いながら、一度も環状を走れなかった者だ。
若い頃、友と夢見た夜のスピード。
集めたパーツ。
組み上げたボロ車。
——けれど、一度も走らなかった。
友だけが走り、二度と帰ってこなかった。
たった一度の夜が、友を星にした。
それから男は走らなかった。
手を動かすだけの整備屋として、誰かの車を送り出すだけだった。
ある夜。
帰り道の国道沿い。
ふと、環状に吸い込まれていくテールランプの群れを見た。
街の明かりに溶けていく赤い光を、ただ見送る。
「……俺も、あそこに立てたんだろうか。」
停めた車のハンドルを握りしめる。
歳をとった手が、虚しく震えた。
——その瞬間
世界が止まった。
流れていた光が、夜空に散りばめられた星のように凍りつく。
男は無意識にドアを開けた。
足が路肩のアスファルトに触れる。
何度も夢に見た光景が、目の前に広がっている。
音もなく、冷たく止まった世界。
誰もいない、でも確かにテールランプが空を切り裂いている。
男は、星たちの中へ歩いた。
環状に足をかけた。
走れなくてもいい。
立つだけでいい。
「……お前が連れてきたんだろ、俺を。」
そう呟きながら、止まった夜風に身をさらす。
見えない仲間の影が笑った気がした。
「もう、置いてくなよ。」
止まった光の帯の中に、一瞬だけ自分の影が溶ける。
それだけで良かった。
——世界が動き出した。
テールランプがまた夜を流れる。
仲間の影も、もういない。
男は車に戻り、静かにエンジンをかけた。
アクセルを踏むことはない。
止まった世界だけがくれた、たった一度の走りだった。
帰り道、窓の外でまだ赤い光は生きていた。
「……行ってこい。」
そう呟き、男は環状に背を向けた。
——その夜、世界は3分間だけ止まった。




