沈黙の原稿 (省みる男)
週刊誌の記者の男は、スキャンダルを専門に扱っていた。
彼の書く記事は、幾度となく世間を騒がせた。
人々の驚く顔、憤る声、それが彼の快感だった。
今日も新たなネタを掴んだ。
不倫――有名俳優。
いかにも読まれそうなネタだ。
意気揚々と原稿を仕上げていく。
見出しを考え、センセーショナルな言葉を並べる。
「いい仕事をした」と思いながら、プリンターに手を伸ばそうとした、その時だった。
スマホが震えた。
テレビ電話。画面には、子供の名前が表示されている。
一瞬、ためらう。
手はプリンターに向かったまま。
そして、その瞬間――
——世界が、止まった。
オフィスのざわめきは、ふっと消えた。
誰かが叩いていたキーボードは中空で静止し、
ファックスの音も、誰かの笑い声も、すべてが途絶えた。
男は、ひとりだった。
止まった世界の中に、取り残されていた。
戸惑いながら歩く。
隣の席、ライバル記者の机には家族の写真が飾られていた。
見覚えのある笑顔。休日のキャンプ写真のようだ。
ふと、自分のスマホに目を落とす。
画面の中では、子供が口を開いたまま止まっている。
少し見ないうちに髪が伸びていた。
どんな話をしようとしていたのかも、もうわからない。
男は、思い出す。
いつからだろう。
家族とすれ違うようになったのは。
記事に書くことばかりを優先し、
誰かの家庭を壊すことに躊躇しなくなっていた。
——不倫は悪だ。
だが、暴くのが正義だと、いつから思い込んでいた?
プリンターの横に置いた出力済みの原稿に目をやる。
そして、手を伸ばし——
音も立てずに、それを破り捨てた。
「俺の手で、誰かの温もりを奪う必要はない」
心の中で、そうつぶやいた。
次の瞬間、世界が、動き出す。
電話が再び鳴る。
男はスマホを取り、子供に笑いかけた。
その日の夜、記事の当事者に連絡を入れた。
「自分の子どもに、どんな父親の背中を見せたいですか?」
彼の記者人生は、その日から変わった。
——その日、世界は3分間だけ止まった。




