沈黙の劇場 (大きな声)
お笑い芸人の男がいた。
面白い発想が浮かぶ。
エピソードにも恵まれた。
日々の出来事のひとつひとつが、笑いのタネになるような——そんな運を持っていた。
けれど彼には、致命的な弱点があった。
あがり症だった。
舞台に立つと、喉が細くなった。
声が出ない。
マイクにさえ届かない。
いつだって、相方しか見られなかった。
ネタ合わせのとき、相方は何度も言った。
「でかい声が出ねえんじゃなくて、出そうとしてねえだけだろ!」
何度もぶつかり、怒鳴り合いになった。
それでも解散せずにいられたのは、悔しさよりも——感謝の方が大きかったからだった。
そして、年に一度の大きな大会。
予選の日。
何度も落ちてきた。
今年こそは、と臨んだステージ。
舞台袖。
声を揃えて飛び出そうとした、その瞬間——
——世界が、止まった。
相方の足が、宙で止まっていた。
気づけば、自分だけが動いていた。
ステージにひとり立つ。
耳が痛くなるほどの静寂。
マイクの前に立ち、恐る恐る相方の方を振り返る。
決意を固めた目で、こっちを見ていた。
「行けよ」と言ってるような気がした。
不思議と、いつも避けていた客席に、視線が吸い寄せられた。
最前列に、いつも見に来てくれる女性がいた。
誰よりも、自分の小さな声に耳を澄まし、笑ってくれる人。
その少し奥。
見慣れた顔があった——
両親がいた。
お笑いの道に進むと言ったとき、猛反対していた。
「そんなものは趣味でやれ」
「どうせ売れない」
「出ていけ。顔も見たくない」
そう言っていた父親。
それでも、見に来てくれていた。
あの二人のところまで、声を届けたい。
そう思った瞬間——
世界が、動き出した。
遅れて横に並んだ相方が、少し戸惑った顔をしている。
「……いつ、マイクの前まで来たんでしょうね。さ、行きましょか!」
そう言って、漫才が始まった。
自分の声が、マイクを通してしっかり届いていた。
笑いが、返ってくる。
普段通りに喋っているつもりでも
——通る。
その日、劇場は3分間だけ、地鳴りのような笑いに揺れた。
ネタが終わると、相方がつぶやいた。
「最初からそれ出せっての、バカ」
その顔は、うれしそうだった。
彼らは、初めて2回戦に進んだ。
——その日、世界は3分間だけ止まった。




