沈黙の青年 (2度巡り逢う男)
少年だった頃、彼は独りだった。
いつも腹が鳴っていた。
寒さで歯が鳴る夜には、マンホールの中で膝を抱えて眠った。
名もなかった。
声を出せば追い払われ、黙っていれば忘れ去られる。
誰にも気付かれない日々の中、彼はたった一度、
自分の命を終わらせようとしたことがあった。
その日、世界が止まった。
——そして、少女がいた。
小さなその子は、動かない世界の中でも懸命に彼を呼び、黒い水の中へ手を伸ばしていた。
「バカだな」
笑いながら泣いた。
命は誰にも見捨てられていなかった。
それ以来、彼は変わった。
持っているものは少なかった。
それでも誰かに与えられるものがあることを、あの時知った。
自分がもらった優しさを、今度は誰かに返す番だと思った。
喧嘩を止めた。
残飯を分けた。
病人のために薬を盗みに行った。
自分のことは、最後でよかった。
気づかないうちに、多くの命を背負っていた。
人々は彼を「主」と呼んだ。
それは尊称ではない。
この街を形づくる、ひとつの柱の名だった。
ある夜、火事が起きた。
小さな火は、残り物で出来た街を
あっという間に飲み込んだ。
悲鳴が響き、瓦礫が崩れ、誰もが逃げ出す中——
彼は炎の中へ走った。
「ばあさんがまだ中だ!」
誰かが叫ぶのを聞いた瞬間には、
もう走り出していた。
燃えさかる小屋、崩れかけた壁。
煙にむせび、足を取られながらも進んだ。
腕に老婆を抱えようとしたとき、
背後から壁が崩れる音がした。
彼は老婆を庇った。
——その瞬間、
世界が、止まった。
空中で炎が凍り、崩れた瓦礫が宙に浮いたまま動かない。
息苦しさも、耳鳴りも、すべてが止んだ。
ただ彼ひとりだけが、その世界を動くことができた。
瓦礫をどけ、老婆を背負い、
崩れた床の上を慎重に歩いた。
炎に巻かれても、片足が動かなくても。
彼は知っていた。
この3分間は、自分のためにあるのではない。
誰かを生かすための時間だ。
「もう少しだけ、頑張れるだろうか」
かすれた声で、誰にともなくつぶやいた。
そして、世界が動き出す。
老婆は救出された。
人々は歓声を上げ、拍手が巻き起こった。
だが、青年はそれを背に、ひっそりと立ち去った。
どこへ行ったのか、誰も知らない。
毛布も、集めた食べ物も、
すべてあとかたなく消えていた。
それから、スラムでは噂が絶えなかった。
「主は他の街を救いに行ったのか」
「いや、世界を守る精霊になったんだ」
「きっとまた、そのうち現れるさ」
誰も本当のことは知らない。
けれど、この街の誰もが想った。
彼がいなければ、今のこの街はなかったということを。
彼の優しさと、手の温もりが、
確かに人から人へと残っているということを。
——その日、世界は3分間だけ止まった。




