沈黙の入社式 (鳴る腹)
春の風がスーツの裾を揺らした。
新しい革靴がまだ硬くて、足に馴染まない。
それでも、男は胸を張って歩いていた。
——今日は、入社式。
社会人としての一歩。
けれど、彼にとっては、それだけではない。
「初任給で、何か贈ろう」
そう決めていた。
普段はぶっきらぼうな父。
心配性のくせに、それを隠す母。
反抗期も長く、距離をつくってしまったけれど、
そのくせ内心では、ずっと甘えていた。
だからこそ、せめて社会人になった今、
「ちゃんと大人になれた」と伝えたかった。
言葉ではなく、形で。
初任給でプレゼントして、
ようやくひとつ、けじめをつけたかった。
そのためにも——
「今日は、ちゃんと乗り越えなきゃいけない日」だった。
けれど、そんな決意を鼻で笑うように、
腹の奥で“悪童”が目を覚ます。
ぐるる、と不穏な音が鳴った。
男の顔から、サッと血の気が引く。
——またか。
小学生のときから、
人生の節目に限って決まって腹を壊してきた。
発表会、卒業式、入試、成人式。
何か大事な場面になると、
決まって腹の中で暴れ出す、名もなき不安の塊。
それが今も、変わらずそこにいた。
式の直前。
椅子に腰かけるも、痛みがじわじわと広がっていく。
今立てば、周囲の視線を集めてしまう。
けれど、我慢できる自信もなかった。
「やっぱり……俺、変わってないな」
情けなさが胸を打つ。
せっかくの門出の日に、またこれか。
自信も誇りも、一瞬で霧散していく。
そのときだった。
——世界が、止まった。
会場のざわめきが凍りつく。
周囲の新人たちは、誰ひとりとして動かない。
空調の風も、時計の針も、静止していた。
ただ、自分だけが動けていた。
「……なんだこれ」
呆然としながらも、背筋を伸ばす。
今なら、トイレに行けるかもしれない。
だが、席を立とうとしたその瞬間、胸ポケットに違和感があった。
探ると、薬の小包が入っていた。
——水なしで飲めるタイプだ。
母の仕業だった。
出がけに「ちゃんとネクタイしなさいよ」と、
背中を叩いた手が少し強かった。
きっとあのとき、こっそり入れてくれたのだ。
「……なんでも、お見通しかよ」
くすりと笑いそうになる。
と同時に、もうひとつのポケットに指が触れる。
今度は、父がいつも使っていた整腸薬だった。
あの無口な父が、照れくさそうに渡してくれた朝の光景を思い出す。
「役に立つか知らんけど、まあ……な」
言葉数は少なかったけれど、
この二人にとって、自分はまだ“息子”であることが伝わってきた。
——初任給で何を贈るか。
それを考えていたけれど、
今、本当に贈るべきものは、
“ここで逃げないこと”なのかもしれない。
いま腹が痛くても、情けなくても、
支えられてここに立っているのなら、
せめて今日は、真正面から向き合いたい。
「ありがとう。
でももう、大丈夫だよ」
心の中で、そう呟く。
薬を口に含み、静かに目を閉じる。
そして——世界が、動き出す。
司会の声が戻り、拍手が響く。
未来が、また歩き出した。
男は立ち上がり、前を向く。
痛みが完全に消えたわけじゃない。
でも、背中に宿るものは確かだった。
初任給が来たら、ちゃんと贈ろう。
薬じゃなくて、もっとまっすぐな感謝を。
そう心に決めながら、男は歩き出す。
まだ始まったばかりの時間を、自分の足で刻んでいくために。
——その日、世界は3分間だけ止まった。




