1話 社長自刃
六月十六日・早朝、田園調布
新葉に纏わり付いていた朝靄。
まだ明け遣らぬ薄墨色の空に鳥の群。
メルクスの社長・藤堂の自宅周辺は、ぴりぴりした空気が張り詰めていた。
藤堂の自宅から少し離れた所、捜査本部の刑事二人が黒塗りのワンボックス
で藤堂の動きを昨日から張っていた。
村上がドアのウインドーガラスを軽くノックするとスーツと音も無く
ウインドーが下がった。
「ご苦労さん。動きは?」
確かめるように訊いた。
「昨夜午前二時頃銀座のクラブ『嬪』から帰宅したまま動きがありません」
息を潜めた応えが返ってきた。
「よし! 裏は固めたか?」
村上の徒ならぬ執念を押し込めた瞳が、血走っている。
「大丈夫です」応えは短い。
「マスコミは?」三森が訊いた。
「まだ気付かれていないようです」
「よし! 主任行きますか?」
目線が絡み合い同時に肯いた。
藤堂の自宅玄関扉は、彫刻の施されたマホガニーの無垢板、扉の中央に
設けられたブロンズのドアノッカーを三森は三つ叩いた。
「……」内部からの反応はない。
再度ノッカーを乱暴に打ち付けた。
「……」相変わらず反応がない。
「警察だ! 扉を開けろ!」
暫し待った。反応がない。
三森は、破壊槌を持って待機していた捜査員に眼で合図した。
「ガッツン!ガッツン!ガッツン!!」
玄関扉に衝撃が加わると錠前が破壊された。
これを合図に捜査員が雪崩れ込んだ。
木造二階建て延床面積約八十坪の大邸宅だが、住人は夫婦二人と通いの
お手伝いが一人だ。
藤堂夫人は日中、主に二階で暮らしている。
藤堂社長は一階の書斎と寝室が主な居場所である。
たまの休日、お昼に夫婦らしく一緒に食事をしながら、他愛無いお喋りを
する。
一人娘・梅美の交通事故死、そして娘婿、小早川瑛介の自殺と続いた。
その後、夫婦らしい会話が消えた。
「はっ! はっ! 発見しました!」
若い捜査員のオクターブ高い悲鳴のような声が一階奧で聞こえた。
三森は、内ポケットの逮捕状を握りしめ、悲鳴のような声の方向へ走った。
駆けつけた先は洗面化粧室の様だ。
人を掻き分け進んだ先は浴室になっていた。
見ると上半身裸の藤堂が真っ赤に染まった浴槽に両手を突っ込み息絶えて
いた。 血の気のない青白い顔が真っ赤な水の中に鼻まで沈んでいる。
そこに村上係長が、息を切らせて三森の肩越しに藤堂を覗き込んだ。
五十嵐が、いつの間にか瞠目し手で口を押さえ三森の脇にいた。
「救急車を呼べ! 大至急だ!」
五十嵐が絶叫すると、床に屁垂り込んだ。
三森は、五十嵐に憐憫の視線を撃ち、藤堂をゆっくりと浴室から引き上げた。
右手に持ったペテイナイフが左手の手首に深く刺さったままの状態で硬直が
始まっていた。それを見た村上が
「何が何でも死にたかったのか?」
藤堂の死に顔を睨んだ。
魂が軋んだ。
三森が乾いた声で
「こんな壮絶な自殺、見たことないですね。ナイフの先が手首の裏側まで顔を
出していますよ」
愕然とし表情を凍らせた。
二階から妻が捜査員に掴まりながら階段を降りてきた。
すると、捜査員を振り切っておそるおそる浴室を覗き、血まみれで
横たわっている夫と真っ赤に染まった浴槽をゆっくりと交互に見て
「ギエー」と
腹の底から一つ叫び、気を失いその場に崩れた。
書斎のデスクに残された一通の遺書
『私は自ら晩節を汚した。
長年に亘って加盟店から売上金の搾取をしていた。
これは香坂財務担当役員に指示して始めた。
その累積が裏帳簿に記載されている。
内容は当社の恥部に他ならない。
当初は営業不振店の救済に出費した。
時が経つにつれ加盟店の数も増え救済にかかる費用が不足してきた。
この時から不振店を斬り捨てる事に決め、営業方針の転換を計った。
だが加盟店から搾取するシステムだけが残った。
私は弱い人間だった。
あの時、詐欺まがいのシステムを終了させていればと常々悔やんだ。
反面定期的に裏金の入金が有るとそのシステムを止められなかった。
烈烈たる悔恨の念に苛まれた。
私の預貯金・不動産他の全遺産を搾取された加盟店に返却して欲しい。
次に小早川君の自殺 榊君の殺害 二之宮君への濡れ衣逮捕は、
いずれも私が指示し実行させた。
中でも榊は私の一人娘・梅美を交通事故死に至らしめた。
その上、それらの事実を認めなかった。
この事が私に殺意を抱かせた。
裏帳簿紛失で彼の命を奪うつもりは無かった。
弁解の余地は無く慚愧に堪えない。
斯く故に、私は自らの命と引き替えに、その罪を償う。
恥を晒して生き存えることは出来ない。
迷惑を掛けた人々に深く謝罪する』
三森は、遺書を読み終えると紅黄色に染まる東の空の一隅を細めた
眼で睨んだ。
虚空の暗闇を奔走して真実を掌に掴んだと思ったが、指の間から溢れ
真っ赤な水に熔けて消えた。
渦巻く喪失感に翻弄され不条理のみが腹の底で響いた




