1話
午後十一時を回っていた。
商社での勤務を終え、そのまま夜のバイトへ入った桜咲侑がようやく解放されたのは、日付が変わる少し前だった。
六月の夜気は生ぬるく、シャツの背に汗が張りついている。
最寄り駅から自宅までの十五分。
侑はコンビニで買った一番安い缶コーヒーを開け、一口だけ流し込んだ。
「……眠い。」
呟きは、誰にも届かない。
スマートフォンには、二件の通知が残っていた。
一件は、昼間勤めている商社の上司から。
『明日の朝いちで見積もりの再確認、頼めるか』
叔父の紹介で入れてもらった、営業アシスタントの仕事だ。
断れるはずもない。
「……了解です、とだけ返しとくか。」
もう一件は、妹からだった。
『おにいちゃん、ごはん残してあるよ。先に寝てる』
そのメッセージだけで、強張っていた肩から少しだけ力が抜ける。
桜咲零奈、中学三年。
侑にとって、たった一人の家族だった。
両親は、三年前に突然いなくなった。
理由も、行き先も、何もわからないまま。
残されたのは、わずかな遺産と、まだ小さかった妹だけ。
だから侑は、進学を諦めた。
昼は商社、夜はバイト。
生活費と、零奈の学費。
それを稼ぐために、一日を二つに割って生きている。
「……あいつが高校を出るまでは、倒れられないな。」
自分に言い聞かせるように呟いて、缶を飲み干した。
◇
最初の門が和歌山に現れてから、およそ五十年。
魔物との戦いが日常となり、能力者という職業が根付いて十五年。
世界は、すっかり様変わりしていた。
それでも、侑のような一般人の暮らしは大きく変わらない。
朝起きて、働いて、帰って、眠る。
門の攻略は、テレビの向こう側の英雄たちの仕事だ。
自分には、関係のない世界。
そう思っていた、その時
――ズンッ。
足元から突き上げるような振動が、街を揺らした。
「地震……?」
誰かが声を上げる。
だが、揺れは一度きりだった。
次の瞬間、少し先の児童公園から、眩い白光が夜空へ立ち昇る。
「な、何だあれ!?」
「また門だ!」
「新しく発生したぞ!」
深夜の住宅街に、人がぽつぽつと足を止める。
侑も、視線を向けた。
公園の中央。
何もなかったはずの空間が、水面のように揺らめいている。
揺らぎは徐々に形を持ち、二本の柱が立ち上がり、その上に一本の笠木が組み上がっていく。
まるで見えない職人が、空間そのものを削り出しているかのようだった。
十秒。
二十秒。
三十秒。
やがて、高さ五メートルほどの純白の門が姿を現す。
鳥居の形をした、門。
五十年前からこの国に現れ続けてきた、異界への入り口だ。
同時に、空気が変わった。
肌を刺す冷気。
耳鳴り。
門の奥には、底の見えない漆黒が広がっている。
侑の心臓が、嫌な音を立てた。
理由はわからない。
ただ、この白い入り口が、どうしようもなく不吉に思えた。
誰も近付こうとはしない。
遠くからサイレンが近付いてくる。
警察、消防、そして門の管理を担う特別能力者管理機関――トッカンの緊急部隊だろう。
「規制線が張られるまで、離れてください!」
駆けつけた警察官の声が響く。
野次馬たちが、少しずつ後退を始める。
侑も、その場を離れようと踵を返した。
その瞬間だった。
「きゃっ……!」
短い悲鳴が、夜の住宅街に上がった。
人波に押された一人の少女が、体勢を崩し、門の方へよろけていく。
制服姿の、中学生くらいの女の子だった。
「危ない!」
近くにいた母親らしき女性の悲鳴。
だが、その声は一歩遅かった。
少女の身体が、白い門の中へ、吸い込まれるように消えていく。
街が静まり返る。
誰もが息を呑んだ。
誰も動けなかった。
門へ入るということは、命を懸けるということ。
能力者ですら慎重になる未知の空間へ、一般人が飛び込んで、生きて戻れる保証はない。
だから、誰も動かなかった。
――ただ一人を、除いて。
「……くそっ!」
考えるより先に、侑の足は地面を蹴っていた。
「お、おい! 待て!」
背後で警察官が怒鳴る。
だが、侑は振り返らなかった。
聞こえている。
止められていることも、わかっている。
門の中へ入れば、二度と戻れないかもしれないことも。
それでも...
脳裏をよぎったのは、家で眠っているはずの妹の顔だった。
あの子は、零奈と同じ歳くらいだ。
もし、あそこに飲まれたのが零奈だったら。
自分はこんな所で、立ち止まっていられるか。
「……無理に決まってんだろ。」
誰に言うでもなく、呟く。
目の前で、小さな命が消えようとしている。
それを見て何もしない。
そんな選択だけは、侑にはできなかった。
白い門へ手を伸ばす。
その瞬間、世界が反転した。
音が消える。
光が消える。
重力の感覚すら、失われる。
一瞬なのか。
永遠なのか。
判断できないほどの、静寂。
そして――。
ドサッ。
「……っ!」
侑は、湿った地面へ膝をついた。
冷たい土の感触。
鼻を刺す、濃い植物の匂い。
ゆっくりと、顔を上げる。
「ここが……門の中。」
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