第二十二話
あの子が噂通りの悪質な男娼なのか、言葉を交わした今となってはよくわからない、というのが正直なところだ。
傷ついて彼の元を去る私をあんなふうに追いかけて、わざわざセデュイールが愛しているのは自分ではなく私なのだと、嘘まで吐いて。手切れ金を要求する狡猾さと、私を気遣うような態度とが、どこかちぐはぐなのだ。
けれど、こういう掴みどころのなさが、あの子の手管であるのかもしれない。セデュイールは、簡単明瞭な私では飽き足らなくなって、こういう、私とは真逆な子に惹かれたのかも…。
部屋に電話がかかってきたのはホテルに帰り着いてから間もなくだった。日は落ちて薄曇りの空は青く淀み、不吉な風が鳴っている。
「ルーがどこに行ったか、知らないか。フェリシア」
どこかを駆けずり回ってきた後のように、あなたは息を切らしている。勢い込んで尋ねながら、明確な回答が期待できないことを確信しているひとのような絶望が、口調に滲む。
「ルーってあの、男娼の子? あの子ならもうあなたのもとには帰らないわよ。手切れ金を渡したの。あの子も納得していたわ」
「……。わかった。話してくれてありがとう。また明日」
簡潔に言って電話は切られる。
私はブツリと途切れられた受話器をしばらく眺めて、席を立つ。
また彼の別荘に向かうためだ。彼が何か、取り返しのつかないことをしでかすのじゃないかという、嫌な予感がしていた。
たどり着いた屋敷に彼の姿はなかった。
「坊ちゃんはあの子を探しに、飛び出して行かれました」
とヨランダに告げられる。
日はすっかり落ちて庭には夜が広がっている。暗い道を、汗だくで駈けずり回るあなたの姿を想像する。あの子を求めて、消えてしまった愛する人を求めて、走り回るあなたの姿を。
優しくて、理知的で、いつでも私を気遣ってくれて、如才なくて――私の知っていたあなたは、こんなふうに、みっともなく、去った相手に追い縋るようなひとではなかった。汗を流して、息を切らして、走り回ったりしなかった。そんなふうな熱を、あなたが私に向けてくれることは、一度だってなかったの。
あなたは私を愛せないと言った。何度も私に言い聞かせた。その意味が、ようやく私にもわかった気がする。
あなたの愛は、こんなふうな形をしていたのね。生々しくて、汗みずくで、必死で、脈打つ心臓のように、情熱的で、それなしでは生きていられないというように、熱烈な。
私は彼を追って駆けだしながら悔やんでいた。私はあなたの形を自分の好みに合うように、世間の声に合わせるように、矯正できると思っていたの。あなたの性的嗜好も、簡単に捻じ曲げられると、「正しい」形に変えることができると。そう傲慢にも、思い込んでいたのよ。
私は愚かだった。何も知らない小娘だった。あなたが逃げ出したくなるのも当然だ、私は自分の傲慢さで、彼の魂を殺し続けてきたのだから。
夜更けに彼は、あの子を連れて屋敷に戻ってきた。
びしょびしょに濡れて、泥で汚れたみっともない格好のまま、あなたはあの子のピアノを聴いて、私の見たことのないような仏頂面で文句を言いながら、譜面を書きつけて――
無邪気に跳ね回る妖精を必死に捕まえようとするように、あなたは必死で、汗にまみれ、泥に汚れて、雫を滴らせたままで、あの子と手を取り合って、周りなど目に入らないみたいに、息を合わせて、踊っているかのようだった。
憂いなど微塵もないかのようなあの子の笑い声が転がりだして、あなたはそれに目を細めて、愛おしそうに、慈しむように微笑んで――私はあなたたちの間に入ることも、目線を向けてもらうことすらもできないのだと、思い知らされた。
朝の光の中で抱きしめあう二人は天に祝福されているかのように鮮やかで、きれいで、眩しくて――私はようやっと、自分の決断に、向き合うことができたのだ。
あなたのために、あなたと別れるべきなのだと言う、自分の決断に。
真昼のカフェに呼び出したセデュイールはストライプの三つ揃えのスーツにシルバーのネクタイ姿で、ウエイターにコートを渡している。
昼食を済ませ空になった皿をウエイターに下げてもらったちょうどその直後だった。
ミュシャ風の浮彫りのあるガラスと木の壁で区切られた奥まった席に掛けた私は軽く手を上げて彼に知らせる。
彼は迷うことのない足取りでこちらに来る。別れてからこうして会うのは、何度目になるだろう。彼と別れてから配給会社を創設した私は、仕事の関係でこうして彼と顔を合わせる機会が何度かあったのだ。
実のところ、彼と繋がっているために、この事業を起こしたと言っても過言ではないのだ。少しでも彼の役に立ちたかったから。まだ私は彼を愛しているから。これは贖罪の意味もあるのだ。彼に5年も、無理をさせてきたことに対する。
離婚の際には、ルーという男娼のことは伏せ、仕事の上でのすれ違いが原因だと父には伝えた。決して憎しみあって別れるわけではない、互いに自分の人生を大切にするために別れるのだと。
父はセデュイールの家との繋がりが絶たれることを惜しんでいたが、私の決断に異を唱えるようなことはしなかった。
決して彼の活躍の邪魔をすることはないよう、私は父に念を押し、父は鷹揚に承諾した。父の息のかかった事務所から出て行ったセデュイールが、その事務所に例の子、今は作曲家だというルーを所属させたのは、予想外だったが。
事務所の社長とよく話し合った結果、そういうことになったのだと、ある映画の打ち上げの席でセデュイールは私に話してくれた。
事務所と信頼関係を築いていたセデュイールは、敢えて他の事務所にルーを預けるよりは、老舗で影響力の大きいこちらに所属させる方がルーのためにもなるはずだからと、淡々と語っていた。
彼は事務所の人たちを信頼していた。私の紹介した、父の息のかかった事務所だけれど、そこに働く人たちは皆誠実だからと。
――私と過ごした彼の5年間は、決して無駄な時間ではなかったのだ。私はそれを感じられて、嬉しかった。
とはいえまあ、恋敵ではあるわけなので、敢えて私からルーに近づくようなことはせずに今日まで来たわけなのだけれど。




