壊れたおもちゃはゴミ箱へ
いざ鬼ヶ島へ。
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別荘宅の中に第一王子を招き入れ、イザベラに紅茶を用意させる。「別荘ってのはキャンプする時に使うだけで良いんだ」というお父様の意向で、別荘宅には非常に簡素な生活用具が入っているだけだ。
逆に言えば、だからこそ隣国とはいえ公爵家所有の資産を使うことが出来たとも言える。これがもし公爵家にある家具と同じレベルの物で揃えられていたら、最低限の支援と言える物ではなくなり使えなくてもおかしくなかった。もっとも、そもそも勅命が雑すぎてそこまで厳密に取り締まるかどうかは疑問ではあったが。
荷解きもせずに客を迎えなくてはならないことに甚だしく苛立ちつつ、それを王妃教育の賜物である見事な表情操作で隠しながら、招かざる客をもてなした。
「第一王子殿下におかれましては…」
「マリアンヌ。堅苦しい挨拶は抜きにしよう。僕と君との仲じゃないか。」
平然と、そしてまるで恩を着せるような言い方に苛立ちでは済まないストレスを感じた。
この人は自分が言っていることを理解できているのだろうか。
確かこの人は私のことを悪女と言っていたはずだが。
「恐れ多くも私は殿下による、国王に代わって下されました"勅命"によって国外追放された身でございます。それに、これまで殿下とそのように気さくに話せる間柄でも無かったと記憶しています。あくまで私と殿下は政略結婚を約束した間柄であり、愛があっても無くても関係はない。そう言ったのは殿下自身です。」
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それは殿下と私が学園に入る5年前の出来事だった。
婚約して間もない私と殿下は、当時まだ10歳。私はまだせいりゃくけっこんの意味さえ分かってなくて、親が結婚相手を決めたんだなという認識でしかなかった。
だが、婚約者であるセドリック第一王子は、キラキラ輝く金髪を備えた美少年であり、見た目だけで言えば私好みだった。だから私は殿下に好かれようと色々試みた。
お茶の種類と淹れ方を覚えた。
殿下が好きなお菓子を調べてお茶会の時に出すようにした。
国内外の情勢について勉強した。
法律のことを勉強した。
そして王妃教育に精一杯取り組んだ。
私は私に出来る事を精一杯やったつもりだった。
『マリアンヌ嬢。すまないが僕にはあなたを愛する自信はない。これは政略結婚だ。お互いに愛情など求めず、利益だけを求めようじゃないか。』
でも、殿下は私の方を見ようとはしなかった。
私も殿下に見られようとするのに疲れてしまっていた。
殿下のことをちゃんと見る努力をしていないことに気づいた頃には、もう手遅れだった。
殿下はもうイザベラのことしか見なくなっていた。
私も政略結婚を理由に、愛を育もうとはしなくなっていた。
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「殿下はご自身のお言葉をどうお考えなのですか?」
「あの頃の僕はどうかしていたのだ。真実、愛している女性が誰なのかを理解していなかった。イザベラ嬢は確かに愛らしく、知力においてもあなたに劣らぬ才女だったことは認めよう。しかしマリアンヌ、私はようやく気づいたのだ。あなたのように聡明で視野の広く、第一に国のことを考えられる女性こそ、私の伴侶に相応しい。」
殿下のお言葉を喜ぶ昔の私と、殺してやりたいほどの憎しみを抱く今の私がせめぎ合う。
何故、何故それを今言うのか。
私とイザベラを前にして。
「いや、逆かもしれないな。あなたの隣に立てる人間と言えば、いずれ王となる私以外にあり得ないのだ。それほどまでにあなたの才覚には比類がない。学園においてもユーモアに富み、学力は頂点に居続け、たかが平民のために自らを盾としながら、その傍らで王妃教育を完璧にこなした。卒業パーティーではそれを悪行と誤解されながらも醜く言い訳することなく、潔く身を引いた。あなた以上に国母たらしめる女性など存在しない。」
「お言葉ですが、殿下の誤りを訂正しないようでは国母足りえません。誤りを指摘し、事実を認め、より良い未来を共に選び取れる方こそが相応しいのです。それが王の隣に立つものの資格と責務です。」
私はついに仮面を被り続けるストレスに耐えられなくなった。
悪戯好きな私が心の中に隠れ、国母を目指していた私が、殿下に心を残していた部分が表に現れる。
「殿下の口から出てくるお言葉の数々は、私が在学中に…いいえ、せめて卒業の時に欲していた言葉です。もしそのお言葉が偽りであったとしても、あの日あの時頂けていたら、たとえ側室としてイザベラを迎えていたとしても、私は殿下と国の為に身を粉にして働いていたことでしょう。私は殿下に愛されたかったのではありません。ただ、私の頑張りを見てほしかったのです。殿下、ご存知ではないかもしれませんが、私は幼少の頃から殿下に見てもらおうと必死だったのですよ。」
口から、頭で考えるより先に言葉が紡がれていく。
それは本音の数々であり、心の奥底にしまっていた物であり、コルディエ王国の卒業パーティー会場に捨ててきたはずの私だった。
言葉の中身はともかく、その姿は王妃教育を完了させた完璧な公爵令嬢そのものだっただろう。ニノンとアリスが信じられないものを見ているかのように目を見開いてる。
イザベラは顔を伏せていて、何も伺えない。
「しかし殿下はイザベラを選び、イザベラは殿下を選びませんでした。そして私は、イザベラと心から信じあう友となり、ニノンを義妹に迎え、アリスという義妹の友を迎えました。今の私はそれで満足してますし、コルディエ王国のために働こうとは思えないのです。殿下、私はもう、マリアンヌ・フォン・ベネ・コルディエたらんとしていた私ではありません。」
私が今ここに居られるのは。今あなたとこうして対峙できるのは。あなたの婚約者だからではない。
「悪戯が好きで、おもちゃとゲームが大好きな国外追放者、マリアンヌ・フォン・クローデルです。今の私は、もう国母には相応しくありません。どうぞ、お引き取りください。」
そう、これが現実なのだ。殿下、あなたは何もかも遅すぎたのです。
「…ふふふ。はははは。面白いことを言う。実にユーモラスだ。でもすまないが、これは"勅命"なのだよ。」
「……なんですって?」
「父上から僕は、最後のチャンスを頂いてここにいる。それはマリアンヌ、あなたをもう一度コルディエ王国に連れ戻すことが出来れば、僕を王位継承権一位に戻し、マリアンヌを妃としても良いという条件での一時釈放だ。」
「一時釈放…!?一体どういう…!?」
殿下の目に危険な、昏い輝きが灯っていた。
全身がここから逃げろと警告しているのに、動けなかった。
「ああ、そうか。あなたは知らないのだったな。今の僕は本来北の塔に幽閉されている身なのだ。愚かにもあなたがあの卒業パーティーで言った通り、裁判所と王に対する越権行為でね。他にも余罪があると言われたがね、それらもあなたを連れ帰れば全て帳消しだ。」
言い切るが早いか、ニノンとアリスが殿下の"影"たちによって拘束された。イザベラだけは油断なく逃れたが、二人が人質になってしまい迂闊に手が出せない。
「マリアンヌ様!」
「駄目よ!ここで動けば、二人が危ない!」
くそ、くそ!してやられたというの!?
考えなくてもわかることだ。殿下の周辺に護衛や影がいないはずがない…!別荘での生活に浮かれて、油断していたのか、マリアンヌ!?
「マリアンヌ!あたし達のことはいいから逃げて!行っちゃだめ!!」
「マリアンヌさん!!」
拘束されて痛いだろうに、健気にも妹とその友達は私を逃がそうとしてくれている。こんな…!私のせいで、皆が…!?
「さあ、どうしますか?大人しくついてくれば、その子達は無傷で解放しましょう。そこのメイドも…おや?君はイザベラだったのか。顔つきが変わってて気付かなかったよ。学園でメソメソとしていた君のほうが、僕の好みだったな。」
「御託はいいから皆さんを解放してください。殿下、あなたは皆さんの命を握ってるとお思いでしょうが、逆です。今はあの子達のおかげでそこに立っていられるのですよ。それをよくご認識した上で、これ以上私を怒らせないでください。」
イザベラの全身からこれまで感じたものとは比較にならない殺気が溢れ出て、その場にいる全員を硬直させた。彼女自身は無表情なのに、私は鳥肌が止まらなかった。殿下の影達ですら、一瞬目眩を起こしたように体勢を崩す。イザベラの近くにあるイスが恐怖するようにガタガタと震えていた。
彼女が持つ光の魔力は本来癒やしのために使われるもののはずだが、もしかしたらその本質はもっと危険なものなのかもしれない。
殿下も底の知れない圧力を正面から受けて、遂に気持ちの悪い微笑をかき消さざるを得なかった。額に冷や汗が滲んでいる。
「……驚いたな。君がこれほどの殺気を出せるとは。学園でその顔をされてたら、私も君に夢中にはなれなかったろうね。」
「イザベラ!落ち着きなさい!……殿下、承知しました。私をコルディエ王国へ連れて行ってください。」
「マリアンヌ様!?」
これ以上、この子達を危険に晒すわけにはいかない。
私一人の身で彼女達が救われるというなら、喜んで身を捧げよう。
幸せな時間をくれた彼女たちに、対価を支払うときが来たんだ。
「イザベラに代わり、不敬をお詫びします。どうか、罰するのであれば主人である私を罰してください。」
「………ふふふ…くはははは!いいねマリアンヌ!友の為に自分の身を捧げるのか!やはりあなたは美しい!なら罰として着の身着のまま今すぐ馬車に乗るがいい!僕は優しいからそれで許してやろう。あのみすぼらしい背嚢も荷物も、全部ここに捨てて行くんだ。これからは僕がなんでも揃えてあげる。望むならあの平民たちに手切れ金も送ってあげるよ。そしてすぐに結婚式を挙げようじゃないか。民衆へ朗報を伝えるなら早い方がいいからね。」
気分を急激に回復させた殿下にエスコートされて、私は馬車に乗り込む。目の端に、3人の絶望した表情がチラリと見えた。
ごめん、皆。私のことは忘れていい。
お願いだから、私の分も楽しく生きて頂戴。
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「うそだ!うそだうそだ!こんなことあって良いわけないでしょ!!」
「ニ、ニノンちゃん!落ち着いて!」
「くそ!くそぉ!あたしまだマリアンヌにお義姉ちゃんって言えてないのに!大好きって言えてないのに!こんなの、こんなことって!!くそぉー!!」
ニノンちゃんを落ち着かせる役目をアリスちゃんに任せて、私はマリアンヌ様を救出する手立てを考えていた。
幸いなのは行き先がコルディエ王国の王城と確定していること。とにかくそこへ向かえばマリアンヌ様の元へは辿り着ける。
だが、行ってどうすればいい?私が下手に戦えば、マリアンヌ様にも危害が及びかねない。下手すれば全員処刑だろう。
そんなの、マリアンヌ様がお望みになるとは思えない。
私は、私はどうすればいい?何が正解なんだ?
私はもう、マリアンヌ様の為に出来る事はないのか?
「イザベラさん!」
迷っていた私にニノンちゃんとアリスが掴みかかってきた。
「マリアンヌさんを助けに行こうよ!ウチ達にしか出来ないよ!」
「で、でも私達にはその手段がない…私たちだけじゃ王国の騎士には勝てませんよ…。」
「そんなのは向こうに行きながら考えればいい!マリアンヌの顔を見たでしょ!?」
マリアンヌ様の…顔…?
「マリアンヌ、今にも泣きそうな顔してた!あれは買われていく奴隷の顔だ!いつも笑ってたマリアンヌがしていい顔じゃない!!きっとマリアンヌはあたし達を助けようとしてる!でも逆にあたし達がマリアンヌを助けられるわけないって思ってるんだよ!!」
「そうだよ!マリアンヌさんにウチと同じ間違いをさせちゃ駄目なんよ!早く行こう!」
そこまで言われて、私はハッとした。
そうだ、なぜ私は手立てが無いことを問題にしていたんだろう。
出来ない理由ばかりを並べ立てて、私は何を考えていた。
『あらあらあらあら!貧乏で教養が無いと何でもお金のせいにしますのねぇ!!身だしなみに貧乏なんて言い訳にもなりませんわ!!』
思えばマリアンヌ様に最初に叱られたのも、自分の境遇を言い訳にして、出来る事を出来ないと決めつけたことではなかったか。
私がそういう人間だとマリアンヌ様は知ってるから、マリアンヌ様は諦めてしまったんじゃないのか。私がマリアンヌ様を諦めさせたんじゃないのか…!?
『私はね、調子に乗ってる人達のお鼻をへし折るのが大好きですの。だって楽しいんですもの。ニノンもよくご存知でしょう?』
今まさに地位と財力と暴力で強奪して嗤っている王子様と結婚する事が、マリアンヌ様の希望であるはずがない!
『私ってば、本当にいじわるよね。…こんな私でも、これからも一緒に遊んでくださる?』
「……はい。私はマリアンヌ様に生涯仕えるおもちゃですから。」
「イザベラ姉ちゃん!」
「よし、行こうよ!ウチは馬車の御者さんを探してくる!いつも広場にいる紫帽子のおっちゃんならすぐ出してくれるんよ!!」
「あたしも手伝う!高いところからならすぐ見つかるよ!」
イザベラ…お前がマリアンヌ様を泣かせるな!
お前はマリアンヌ様の一番のおもちゃなんだ!
マリアンヌ様が笑って遊べる未来を作れなくてどうするんだ!
今こそマリアンヌ様のおもちゃとして本懐を果たすんだ!
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アリスちゃんとニノンちゃんは、その美声と健脚で件の御者を瞬時に見つけ出し、文字通りすぐに馬車をコルディエ王国へ走らせてくれた。その人はアリスちゃんのファンだったらしい。
だがあれほど馬車に乗りたいと言ってたニノンちゃんも、歌うのが好きなアリスちゃんも、中では何も喋らない。多分、向こうについてからどうすべきか考えてるのだろう。
さあお前も考えろ、イザベラ。あの王子などどうでもいい。
それより重要なのは王子を動かしたプレイヤーである国王だ。
恐らく国王には国王の狙いがあるはずだ。
私は卒業パーティーの後で国王と直接会っている。その時はとにかく息子にも自分にも厳しい人に見えて、やや神経質で潔癖な印象を持った。だけど私を見る目は優しく、同時に悲しみがあった。
何よりも、あの日。
『私の息子がそなたとクローデル公爵令嬢にしたことは、非常に愚かなものだ。国王として平民に頭を下げることは出来ないが…一人の父として、そなた達に申し訳なく思う。だからもし――。』
王は平民である私に、一人の人間として謝ったのだ。それは王としてはあってはならないことかも知れなかったが、決して器の小さい人には見えなかった。
あの人が、マリアンヌ様を誘拐してでも連れ戻せと命じるとは思えない。
王が殿下に命じた勅命とはなんだったのか?
私が国王なら、王の権威を蔑ろにする息子をどうする?
浅はかで、短慮で、自分の望みを叶えるためなら司法も王権も軽視する危険な息子だ。処刑せずに北の塔へ入れたのは何故だ。そしてわざわざ一時的にでも開放してマリアンヌ様に接触させたのは何故だ。
王にとって一番望ましく、一番望ましくない結果とはなんだ?
あの、父親としての器を捨てきれない国王が望んだ希望とは。
考えに考えを重ねた結果、閃きが舞い降りてきた。
『――それはマリアンヌ、あなたをもう一度コルディエ王国に連れ戻すことが出来れば、僕を王位継承権一位に戻し、マリアンヌを妃としても良いという条件での一時釈放だ。』
「………なるほど。国王の考えはわかりました。大した親心ですね。」
「…イザベラさん?」
「………。」
多分私は、セドリック・フォン・ベネ・コルディエという男とその父親を許すことはできないだろう。
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コルディエ王国に着いてから一週間。私は殿下の部屋の隣で監禁されたまま、婚約式の日を迎えていた。
コルディエ王国の貴族たちは、結婚式を行う半年前に婚約式を行う。それは結婚式までの準備期間を置くための慣習であると同時に、本来ああいった婚約破棄騒動を防止するための楔であるはずだった。故に、間違いが起きる前にこの婚約式を拒否することは万人の権利として保証されている。
そして私は、今日人生二度目の婚約式をすることになった。それもつい先日婚約破棄を宣言してきた第一王子との婚約式を。
恐らく過去に類を見ない、最も恥の多い再婚約だろう。
だが私に拒否は許されない。拒否すればあの子達が危ない。
もしかしたら民衆からは、追放された後の生活に耐えかねた私が殿下に懇願したように映るかもしれない。いや、そうに違いない。王家が第一王子の醜聞をわざわざ公表するはずないではないか。
なんという喜劇。なんという茶番だ。可笑しくてたまらない。
その筈なのに、何故か笑う事ができなかった。
………そういえば私はここ数日、一度でも笑っただろうか。
「よく似合っているよ、マリアンヌ。」
私は殿下が用意したドレスに身を包んでいる。ここ最近は着ることの無かった、王族の横に立つためのドレスだ。
幾重にも重ねられたレースと、殿下の瞳と同じ色の宝石を散りばめたその白いドレスは、事情を知らない人からは私への溺愛具合をアピールする物に映るだろう。ウェディングドレスにも似た装いは、もう結婚式を意識しているのかと、そう思わせるには十分だ。
だが実際は違う。これは鎖だ。それも首にかけられた鎖だ。
私から目を離さないこと。私を手放すつもりはないこと。そして私が殿下の所有物であることを周囲に示すための。
私は今後、殿下のために生きる他に道を無くしたんだ。
ニノン…あなたはこんな気持ちで、どうして生きてこられたというの。どうして、そこまで強くなれたのかしら。
アリス…あなたも怖かったわよね。あなたにこんな思いをさせなくて本当に良かった。
「さあ、婚約の儀を行う前に、父上に報告をしに行こう。既に準備は整っているよ。」
「………はい。」
イザベラ…こんな人のために嫉妬して、本当にごめんなさい。せめてあなたが幸せになれるよう、国を豊かにすることを考えることを許して頂戴。
殿下にエスコートされて向かったのは、謁見の間ではなかった。そこは陛下の私室の隣にある応接間で、王族かその親族だけが入る事を許される部屋だ。
もう、私を手に入れたつもりでいるのですね、殿下。
「父上。このセドリック・フォン・ベネ・コルディエ、その最愛の伴侶となるマリアンヌ・フォン・クローデル公爵令嬢を連れて参りました。」
「入れ。」
それはかつて私が欲しかった言葉だったが、今は臓腑が腐り落ちるような不快感と吐き気を伴った。重々しい空気の中を泳ぐように歩みを進めていく。柔らかい絨毯に足が沈む感触が気持ち悪くて、顔をまともに上げることも出来なかった。
陛下の足元が見えるより前に、臣下の礼を執って頭を下げる。誰かが隣の部屋から入ってくるのが見えたが、それどころではない吐き気に襲われていて気にする事ができない。
この不快感を毎日味わっていたら、私は壊れてしまうに違いない。
「楽にせよ。」
それでも擦り切れる気持ちを振り切るように顔を上げると、そこにはかつて見た時よりも少し痩せた国王と。
「なっ!?お、お前たちは!?」
「お義姉ちゃんを返してもらいにきたぞ!!この人攫い!」
私の愛しいおもちゃ達が立っていた。
--------
イザベラ達を見た殿下の目には狂気が宿っていた。その目に光るのは王族が持つ傲慢と、所有物を奪おうとする者たちへの憎しみだ。思わずといった様子で立ち上がると、イザベラ達を指差して叫んだ。
「お前ら!この応接間は王族とその賓客だけが入れる神聖な場所だ!誰の許可を得てここに居るんだ!!」
「私が許したのだ。」
答えたのは王だった。
「私がこの娘達をここに招き入れたのだ。セドリック。」
「何故です父上!この小娘共はマリアンヌの心を惑わし、コルディエから気持ちを離れさせた痴れ者ではありませんか!この者達がいなければ!マリアンヌは迷うことなく私の元へ戻ってきてくれたのです!即刻処刑すべきです!」
興奮する殿下は、もはや何かを考え、取り繕う余裕すら無くなっていた。臣下の礼を執らず、父親である以上に国王であるその人の判断に異を唱えていることに気付いていない。
「痴れ者は貴様だ。お前は国王になる地位と立場を持ちながら、民の安寧ではなく私欲を優先してマリアンヌ嬢を脅迫したな。貴様に一欠片でもマリアンヌを思う心があって、マリアンヌがお前とコルディエ王国を許し"我が国に戻っても良い"と思ってもらえたならば、お前の晩節を汚す事も無かったであろうに。」
「なっ……どういう事ですか父上!?」
"晩節を汚した"と言われた殿下は、完全にパニックを起こしていた。これは、遠回しの処刑宣告に等しい。
「情けないことよ。貴様よりもこの娘たちの方が余程私の気持ちを理解してくれていたわ。発言を許す。この愚か者に説明してやれ。」
発言の許可を貰ったイザベラが、無表情のまま話しだした。
「発言の許可を頂き、申し上げます。殿下、そもそもあなたは陛下のお言葉を完全に誤解されています。」
「誤解…!?誤解だと!?貴様こそ立場を誤解しているぞ!発言の許可を得たからと言って王族に対し何たる不敬!処刑を覚悟しろ!」
かつてイザベラに向けていた優しげな風貌はどこにもなかった。
そこにいたのは、ニノンの両親が見せていた物と同じ。
人の心を損なった鬼そのものだった。
「うるさいな!黙ってきけよ誘拐犯!あんたが馬鹿で考え無しだから皆辛くて苦しい思いをしたんだ!そもそもあんたは王様から勅命なんて貰ってないんだよ!!」
「な…なんだと…!?」
ニノン、あなた何を言っているの!?
勅命を貰ってないですって…!?
「ウチは覚えてる!あなたはこう言ったんよ!"父上から最後のチャンスを頂いた。マリアンヌさんをもう一度コルディエ王国に連れ戻すことが出来れば、僕を王位継承権一位に戻し、マリアンヌさんを妃としても良い"と言われたって!だけどそれがそもそもおかしいんよ!」
「おかしいものか!マリアンヌを連れ帰れば全て元通りじゃないか!」
「いいえ、違います。」
最も激しい怒りと憎悪をたたえた、絶対零度の声が応接間を支配した。
「卒業パーティーの場で婚約破棄を宣言し、王の権威を軽視して勅命を下したあなたの言動は、当時の騎士ですら剣に手をかけそうになるほど危険なものでした。そして多くの貴族たちが悲鳴を上げて逃げ出し、恐怖を伝播したのを私も見ています。あの時点であなたは国王になる資格を失っているのです。司法を軽視した独裁を良しとするようなあなたの王位継承など、マリアンヌ様が許したとしても、高級貴族達が良しとしないでしょう。国が割れるような王位継承など、陛下が認められるはずがありません。」
「ならば何故!父上は私に王位継承権の復帰を打診したのだ!」
「それがそもそも違うと言っているのです。」
それはいつもの私であれば簡単に気付けるはずの違和感。
そしてある意味当然の話だった。
「陛下は…いえ、あなたのお父様は、"マリアンヌ様が我が国に戻ってもいいと思うことが出来たら殿下を許す"と、そう仰ったのではありませんか?陛下は殿下に対し親としての出来る最後のチャンスを、マリアンヌ様に直接謝る最後のチャンスを与えられた。それを父としての優しさ…いえ甘さではなく、国王としての勅命だと拡大解釈した。違いますか?」
「………っ!!?」
つまり陛下は元々、私をこの国に無理矢理縛りつけようとした訳では無かったのか。
ただ息子であるセドリック殿下に、王族としてでなく人として最低限すべきことを、悪いことをしたら謝るというただそれだけのことをさせてあげたかったんだ。
それをこの人は、私を連れ戻せばすべてが元通りになると、勝手にそう解釈したんだ。
なんて馬鹿馬鹿しい。なんと愚かな。
王族である自分を肥大化させすぎた殿下も。それを国王として処理しきれなかった陛下も。
私のことをどれだけコケにすれば気が済むのだ。
しかし…それにしても。
「……あ、ありえない!そんなことはありえない!そ、そもそも何故お前らは父上に謁見出来たのだ!ただの平民でしかないお前らが、謁見など叶うはずもないだろう!」
殿下の言う通りだ。どうやってこの子達はここに来られたのだろう。平民が呼ばれてもいないのに王城に立ち入るなど不可能だ。
「当たり前でしょ!あたし達の身分で謁見なんて無理だよ!」
「そもそもウチらは陛下に謁見など申し出ていません。」
「じゃあどうやって!?」
イザベラはそれを言おうかどうか迷ったのか、今日初めて表情を見せる。これは…哀れみと悲しみの表情だ。
「……陛下。」
「…よい。そのまま話せ。」
陛下の許可を得たイザベラが、一度深呼吸をしてから、この場に立てた理由を明かす。それは、私も初めて聞くものだった。
「………私はあの卒業パーティーの翌日、陛下の召喚に応じてこの部屋でお会いしました。その時にこれまでの事情を説明し、殿下との婚約を正式に拒否しています。その際、陛下が私にこう仰ったのです。」
『私の息子がそなたとクローデル公爵令嬢にしたことは、非常に愚かなものだ。国王として平民に頭を下げることは出来ないが…一人の父として、そなた達に申し訳なく思う。だからもし――。』
「――もし再び私にあれの父として出来る事があれば、クローデル公爵を通じていつでも私に会いに来なさい。それが私にできる、唯一の償いになるのだからと。」
「そ………そんな………っ。」
どこまでも国王としてでなく、父親としてその身を案じていたことを知った殿下は、とうとう立っていることが出来なくなった。両手を柔らかな絨毯に沈め、嗚咽をこぼす。
…あの日、私は壊れゆく殿下を見捨てて旅立った。
殿下に対して僅かに残ってた未練が、私に壊しきる勇気を与えなかった。
そして壊れかけた殿下を、陛下は捨てられなかった。
こんな事になるなら、私は卒業パーティーの日に、ちゃんと殿下を徹底的に壊してゴミ箱に捨てるべきだったのかも知れない。
そうすれば、陛下のお心を迷わせる事は無かったかもしれない。
そう考えたら、虚しさが込み上げてきた。
「………マリアンヌ・フォン・クローデル公爵令嬢。」
「…はい。」
「今この時をもって、そなたの国外追放を下した勅命を取り消すと同時に、そなたの名誉を回復するため努力することを国王として約束しよう。この決定はそなたが旅立つより前に公爵には伝えてあることだ。息子の更生にそなたを利用するような真似をしてすまなかった。」
勅命の取消は原則としてありえない。それは王の資質に疑問を抱かせるから。そして、それをお父様もすでに知っていたのか。
だからこそのあの余裕でしたのね。
わかりましたわ、コルディエ王。そしてお父様。
一生覚えておいて差し上げます。
「……ご用件がそれだけでしたら、私はここで失礼させて頂きます。」
「許す。そなたの大事な仲間たちと共に、自由に生きよ。……達者でな。」
未だに嗚咽をこぼし続ける第一王子に目を向けることなく、私達は王城を後にした。
--------
「お義姉ぢゃあああああん!!うあああああん!!」
王城から出てすぐのところで、ニノンが号泣しながら抱きついてきた。久しぶりに感じる小さな体の温かさと、手の平で感じる体の小ささに、これまで感じなかった安心感と幸福感が染み渡っていく。
「……全く、私の義妹は本当に泣き虫ね。」
「泣かせたのは誰だぁ!馬鹿ぁ!!」
「私よね…ごめんなさい、心配をかけたわ。…私のことを義姉と呼んでくれるのね?」
「当たり前でしょお!!お義姉ちゃんのこと大好きなんだからあ!!」
またこうして、この子を抱き締めることができるなんて思わなかった。胸に顔をうずめて泣き続ける義妹を抱いたまま、功労者達を労う。
「イザベラ、アリス。二人も本当にありがとう。とても難しい役目を与えてしまったわね。」
「良かった…!良かったよ…!ウ、ウチ、皆に助けられっぱなしだからっ、マリアンヌさんのことっ、助けたいってっ、それだけでっ…!!」
アリスは、まだ知り合って間もない私の為にそこまで思ってくれていたのか。なんて、優しい子なのだろう。
「マリアンヌ様。」
「イザベラ。陛下のお心に気付いたのはあなたね?」
「…はい。陛下とのことをマリアンヌ様に予めお話せずにいたこと、お詫びいたします。」
何を謝ることがあろう。あなたのおかげで、私は壊れずに済んだのに。
「いいえ、良くやってくれたわ。あなた達は私の、自慢のおもちゃよ。誰にも渡したくないくらいのね。」
そう言うと、ついにイザベラまでもが泣き出して、抱きついてきた。
3人分の熱を一身に受けたことで、私までのぼせて目から汗が出てきてしまったではないか。
全く、本当に仕方ないおもちゃ達ですこと。
「………ねえ、お義姉ちゃん。この後、あたしたちはどうすればいいの?…この国の家に帰るの?」
「ウチは…ウチはどっちでもいいよ。どこへでも着いてく。」
イザベラは何も言わずに微笑んでいた。たぶん、私の答えをわかっているからだろう。
「私は――」
--------
二人の目線がチェス盤越しに交差する。
ニノンが震える手で私のクイーンの前にビショップを配置したのを見て、それを秒で弾き飛ばす。絶望の表情で無駄と知りつつポーンを伸ばすのを尻目に、とどめを刺した。
「はい、チェックメイトですわ♪」
「にゃあああああ!?信じらんねえええええ!?また負けたああああああ!?なんだこの盤面きれいすぎるんですけどおおお!?」
ニノン側には殆ど駒が残っていなかった。全て私が殲滅したからだ。
「おーーーほほほほほほほほ!!未熟未熟ですわあ!どうしてあの場面でナイトをとってしまいましたの?見え見えのトラップにハマって墓穴を掘っていく様はお笑いでしたわよおー!?おーーほほほほほ!!」
そこは別荘宅にあるテラスだ。柔らかな木漏れ日が差す中、私とニノンはチェスに興じていた。やはり義妹は覚えがいいみたいで、まだ数回しか遊んでいないのにもう基本ルールをほぼマスターしている。その内良い打ち手になるかもしれない。
「ぐぐぐぐぐぬぬぬぬぬ………!!だ、だけどコツはつかめた!今度は負けない!もう一度勝負してください!」
「おーーほほほほほ!!ならお昼ご飯を食べてからにしますわよ?イザベラー!アリスー!お昼にしましょう!」
「はい!ただいま!」
歌の練習をしていたアリスと、庭に作った小さな畑を整えていたイザベラが家に入り、軽食のサンドウィッチを見繕ってきた。チェス盤を一旦片付けて、皆でテーブルを囲む。それはひどく幸せなひとときで、いつまでも続いてほしいと願って止まなかった。
『私は――この国を捨てますわ。だって、もう十分遊びましたもの。飽きたおもちゃに未練はないし、壊れたおもちゃも処理できましたわ。…それに、もうおもちゃは十分足りてますわ。宝物は3つもあれば十分よ。』
私達は隣国の別荘宅へ戻り、買ってあった荷物を荷解きし、ここで生活を始めた。公爵家からはたくさんの「ごめんなさいもうしませんゆるしてくださいなんでもしますから」という手紙が届いているが、「その言葉、覚えておいてくださいね」という一言だけを送り返してからは無視している。
まぁ、二人とも悪気があって黙っていた訳でもないので、その内許してあげようと思う。
セドリック元第一王子は、これまでの罪状に加えて脅迫と誘拐の容疑まで追加された事で、ついに廃嫡となった。しかし王国の機密を数多く知る殿下…彼を市井に落とすことは、私達に逆恨みを抱いている可能性も考慮すると出来なかった。
そこで居住を北の塔よりもさらに過酷とされる炭坑へと送り、そこに生涯従事させることを罰としたらしい。恐らく、彼が10年以上務めることは不可能だろう。炭坑業務は肺に炭を吸い込むので、呼吸器官に異常を来して亡くなることが多い。
これで王位継承権を持つ人間は第二王子のみとなった。せめて、第二王子殿下が善政の人であることを願うばかりだ。
そして私は、公爵家の業務から離れ、別荘の敷地を使って商売を始めることにしていた。
「ねえ、お義姉ちゃん。本当におもちゃ屋さんを開くの?」
「ええ。奴隷制度の改革はお父様とお母様が尽力して進めてくださってますから。私は今の私でもできる形で、この荒んだこの世界に笑顔を提供してみせますわよ。」
「ご立派です。マリアンヌ様。私も運営のお手伝いをさせて頂きます。」
「宣伝のテーマソングならウチに任せてよ!今までのバラードとは違う、とびきり楽しい曲を歌うからね!」
「ならあたしは広告をいっぱい撒くよ!お義姉ちゃん仕込みの健脚とスタミナを見せてあげるんだから!」
ああ、なんて頼りになるおもちゃ達でしょう。
この子達がいれば、きっと私はどこまでも頑張れますわ。
「よろしい!大変よろしいですわよ!それでこそ私自慢のおもちゃ達ですわ!!」
この世界は残酷だ。
今もどこかで奴隷や恵まれない人たちが泣いているに違いない。
きっと今も悲劇はどこかで起きているのだろう。
だから私は、せめて目の前で泣く人たちに教えてあげたいのだ。
「さあ!ニノンをボコボコにした後で、また開店準備を進めますわよ!きっと世界で一番楽しいおもちゃが集まる店になりますわよ!楽しみですわねえ!」
楽しく遊んで、たくさん笑うことこそが、生きる力を与えてくれるのだと言うことを。
「そして明日も明後日もめいいっぱい遊びますわよ!!イザベラ!ニノン!アリス!覚悟はよろしくて!?おーほほほほほ!!おーーほほほほほほほほ!!」
木々の隙間から見える抜けるような青空は、あの日と同じで、とても美しかった。
ありがとうございました。