夕暮れの別れ
「う、ん……」
「む、目が覚めたか? そうだな、そろそろ昼食の時間になる。もう起きた方が良いだろう」
とても暖かで心地の良い微睡みの中、落ち着いた穏やかな声が優しく響く。髪を梳くようにそっと頭を撫でられている感触が気持ちよく、そのまま意識が沈みそうになる。
「……ヴァレーリア、其方また眠りそうになっていないか? 私はその、このままでも構わぬが、以前後から叱られたと言っていただろう? もう起きた方が良いと私は思うぞ」
「んん……」
頭の感触が撫でる動きからぽすぽすと叩くような動きに変わった事に不満を感じつつ、私は目をゆっくり開いた。
「あ、れ……?」
意識が浮上すると同時に、自分がうつ伏せで上体を斜めに起こしている様な不安定な体勢でいることに違和感を覚えた。疑問符を頭の上に出しつつ目をしぱしぱさせながら起き上がると、困った子を見るような生暖かい笑顔でこちらを見ているアルドリック様と至近距離で目が合った。
瞬間ぴしりと身体が固まり、状況を理解しようとまともに働いていない頭が急速に空回りを始める。
「お、おはようございます……?」
「あぁ、おはようヴァレーリア」
恐る恐るという感じで私がようやくそう言うと、アルドリック様は余裕たっぷりな笑顔で返して来た。その顔に少しばかりどきどきさせられながら周りを見渡して、やっと私は状況を理解した。
……ま、また同じ失敗をしてしまうなんて……!
一度ならず二度までも同じ醜態を晒してしまうなんて、緊張感と羞恥心と常識の欠けたやつだとアルドリック様に思われてしまっただろうか。私は慌てて体を起こして離れると、アルドリック様に謝罪した。
「あの、申し訳ありませんアルドリック様。私また失礼な真似を……」
「気にせずとも良い。それよりそろそろ昼時だ、いい加減締め出した従者達も入れねばならないだろう」
アルドリック様は本当に気にしてないのか穏やかに苦笑している。私はまだドキドキしているのにちょっと不公平だと八つ当たりじみた事を考えてしまう。
私だけずっと慌てているのも馬鹿みたいなので、一度ゆっくりと呼吸を整え気持ちを切り替えてニコリと笑顔を作る。
「もうそんな時間になっているのですね、時間を無駄にさせてしまい申し訳ありません」
「気にせずとも良いと言っただろう」
そう言ってアルドリック様はむっと僅かに眉を寄せる。少しくどく思われただろうか。
何かフォローの言葉を入れなければと笑顔の下で僅かに慌てていると、アルドリック様が何かに気付いたように私の右肩口の辺りに手を伸ばしてきた。
うつ伏せになっていたせいで変な跡でもついてしまっているのかもしれない。そう思って私が見上げると、アルドリック様はするりと手の位置を私の頬に添えるように変え、花が咲くような笑顔を浮かべると反対側の耳元に顔を寄せて言葉を続けた。
「それに私は無駄とも思っていない。……ヴァレーリアのとても可愛らしい姿を見ることが出来たからな」
「――っ!?」
囁くように続けられた不意打ちにびくりと震え、折角作った笑顔の仮面が崩され一瞬で顔に朱が差してしまったのが分かる。
混乱して言葉が出せない私をよそにアルドリック様はすぐに手を引っ込めて離れ、立ち上がる。それを思わず目で追うと、彼の横顔がとても満足そうな笑顔に溢れているのが見て取れた。
……か、からかわれたの!?
アルドリック様にそんなからかい方をされるなんて思っていなかった。というかゲームでもそんなキャラでは無かった筈なのだ。
一方的に攻められた事が悔しく、せめてもの抵抗とばかりに立ち上がったアルドリック様を睨むものの、彼は扉の方を向いていてこちらを見てすらいない。
……眠りに落ちてしまう前は私の方がお姉さんって感じになってた筈なのに……。
距離を少し置くようになり、勉強や訓練で勝ち続けて最初の頃の威厳が少しは取り戻せたと思っていたのに、一瞬でそれを不意にしてしまった気がする。どうしてこうなってしまったのか。
「それはそうと、そろそろ本当に外の者を入れねばならない。いい加減焦れている頃だ。私達が籠っていては昼食を取るのも難しいからな」
いつもの空気にに戻ったアルドリック様の言葉によってはっと私も現実に引き戻された。アルドリック様の言う通りだ、私は眠っていたせいで時間の感覚が曖昧だが、アルドリック様はそろそろ昼時と言っていた。
既に商品についての会議としては長過ぎるくらいだ。いつまでもこうしているわけにはいかない。
……でもさっきはアルドリック様がからかってきて、話を収束させるのを邪魔してきたのに。
ひっかかるものがちょっぴりあったがそれを飲み込んで、私も元のソファに座るべく立ち上がりながらアルドリック様に同意する。
「そうですね。試験は昼食後の最初にでも致しましょう、アルドリック様もそれで――ぅあっ」
「おっと。大丈夫か?」
長時間変な体勢のまま眠っていたせいか、片足がまともに動かなかった。バランスを崩した私がつんのめって倒れかけたところをアルドリック様が支えてくれる。
「ありがとうございます、アルドリック様」
少しどきどきしつつほっと息を吐いて微笑むと、アルドリック様は別段足が痺れているなんて事もないようで、エスコートするように自然な流れでそのまま私を導いてくれる。
「あぁ。……それと、私は昼食後には帰ろうかと思う。ヴァレーリアもまた本調子ではないようだからな」
「お気遣い頂けてとても嬉しく存じますが、私の体調は万全です。ご心配には及びませんよ」
反対側のソファに座らせてくれながらアルドリック様にそう言われ、私は内心少し慌てながら否定する。うっかりこけそうになったのは確かだけれど、それは変な体勢でいたからで、私はもう外で訓練が出来る程に治っているのだ。
アルドリック様をお見舞いに来させただけで碌な対応もせずに、体調を理由として追い返すような真似をしたくはない。
十分元気だと笑顔で答えるが、反対側に座るアルドリック様は真剣な目でじっとこちらを見た後に首を横に振った。
「気を抜いた途端眠りに落ちるような体調で何を言われようと説得力に欠ける」
冷静にそう返され言葉に詰まった。実際には以前から抱きしめられている時は結構寝落ちそうになっていたわけだが、それを告白するのも流石に恥ずかしい。
つい目を泳がせてしまったのをこちらの肯定と捉えたのか、アルドリック様はまた表情を和らげて言葉を続けた。
「それに元々今日はヴァレーリアの様子を見に来たのだ、顔を見ることが出来ただけでも十分だ」
そんなむず痒くなるような事をまた言われると、こちらはますます何も言えなくなってしまう。それにここまで言われてしまっては、これ以上食い下がるのはかえって失礼かもしれない。
ちらりと窓の外を見れば、欠片の曇りも見えない空で太陽が明るく照らしているのが分かる。朝は相当に寒かったようだが、今ならばきっと降り注いだ光でいくらか暖かく感じられる事だろう。馬車を走らせても比較的良く感じられる筈だ。
心に思うところがないわけでは無いけれど、折角の気遣いを無為にしては気を悪くされるかも知れない。
「わかりました。気を遣って頂いてありがとうございます、アルドリック様」
「あぁ、次会う時に元気な姿を見せてくれればそれで良い、近いうちに連絡を寄越す。……その時にはまたゆっくり話をするとしよう」
やや悩んだ末に私がそう微笑むと、アルドリック様もそう言って優しく笑う。
私が物足りなく感じるように、彼もまた惜しく感じている事が分かって、荒みかけていた心が慰められる。
この暖かな空気をとても崩したくはないけれど、またしばらくすれば会えるからと自分に言い聞かせ、私は人を呼ぶベルを手に取った。
その日のアルドリック様は宣言通り、昼食を共にした後すぐに帰られてしまった。
アルドリック様が帰ると告げた時、従者の顔に僅かに浮かんだほっとした雰囲気から察するに彼はそうとうスケジュールに無理を強いて来ていたのかも知れない。原因となってしまった身からするととても申し訳なく感じる。
昼食の最中も帰る直前も、アルドリック様からくれぐれも身体に気を付けるようにとか、危ない行動は慎むようにとかリッサやベアノンに言われている様な事をまた何度か言われてしまった。
アルドリック様が心配してくれるのは嬉しいけれど、アルドリック様も他の人も、私が体調を崩したりうっかり危ない行動をとったりしたのは今回が初めての事なのに、そこまで口を酸っぱくして言われるのは少し不本意に思う。
そうしてアルドリック様が去った後、私は自室に向かっていた。普段なら午後に訓練をするけれど、休息の為にとアルドリック様が帰られたのに運動をするわけにもいかない。今日はまた大人しく本でも読むことにしよう。
いつもよりも早く戻った自室は応接室と違ってまだ寒い、暖炉もあるが、自分の火で暖めた方が早いだろう。
……外は明るく照っているけれど、彼の帰る時間はやはり夕暮れなのでしょうね。
リッサから呆れ混じりのお小言をつらつらと言われつつ、自分の火で寒さを紛らわす私にはそんな風に感じられた。
アルドリック様の周りもヴァレーリアの周りも同じくらい大変だと思います。




