元手いらずの万馬券
たぶん提案者がマドンナだったからだろう。ミスダツは頬を緩めた。
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
本当に嬉しそうな声で言った彼は、自分の腕時計に視線を落とした。
「で、何時までなんだ?」
「それは、先生にお任せします」
マドンナが答えると、ミスダツは生徒一人一人の顔を確認するように、教室を見まわした。
「弁当持参者は、いないよな」
全員が首を横に振った。
「よし」ミスダツは、にこっと笑った。「今日は非常に気分が良い。だから、昼飯は俺に奢らせろ」
話を脱線させる名人が、そんなことを言ったことは一度もなかった。
「どうしたんですか?」Pが茶化すような声で言った。「まさか、万馬券取ったんじゃないですよね」
「誰に聞いたんだ」ミスダツは真面目な顔で答えた。「俺が毎月万馬券を当てることを」
急に教室が静かになった。
「毎月、ですか?」
信じられないというような声でPがつぶやいた。
「ああ、そうだよ」ミスダツは、落ち着いた声で答えた。「ここ数年ずっとだ」
すこし間があって、Pが珍しく焦ったような声を出した。
「だったら、脳サーチより、そっちを先にお願いします」
「ああ、いいよ」
あっさりと承諾したミスダツは、Pに視線を向けた。
「ここの講師に、なればいいんだ」
「はあ?」
Pは面食らったような表情を浮かべた。
あははは、ミスダツは明るい声で笑った。
「そうすれば、毎月自分の口座に多額の金が振り込まれるようになる」
「なんだよ、もう」Pがふてくされたような声で言った。「真面目に聞いているのに、からかいやがって」
がっかりしたのは、Pだけではなかったようだ。マドンナまでもが、肩を落としていた。
「でもな」ミスダツは、真顔になって身を乗り出した。
「俺は本当にそう思っているんだ。だって、俺は何の資格も持っていないんだぞ。思いついたことを、勝手にしゃべっているだけなんだ。それなのに、毎月、そこいらのサラリーマン以上の金が振り込まれるんだ」
そこで言葉を切った彼は、声を落として言った。
「実を言うと、俺は給料のことを、元手いらずの万馬券と呼んでいるんだ」
唖然として声も出ない僕たちを眺めていたミスダツは、脚本家志望の生徒に視線を向けると「君は知っていると思うが」と言った。
「島崎藤村の言葉に『あぶく銭は人様のために使え』というのがあったよな」
後から聞くと、それはミスダツの出任せだった。でも、すっかり勢いに飲まれていた脚本家志望男は「あ、はい」とうなずいた。
「さてっと」
笑いをこらえたような顔で、ミスダツは話を変えた。
「どこで食う? ただし、今日の予算は一人千円以内」
このあたりには、大手のファミレスはすべて揃っている。僕は近くのファミレスのメニューを思い浮かべた。いつものランチメニューは、すべて予算内。だが、この時間に十三人が顔を見合わせながら食事できる店はない。
「あのう」マドンナが遠慮がちな声で言った。「この教室でどうでしよう」
話はそれで、まとまった。代表者が近くのコンビニで弁当を買ってくることになった。
代表者は、じゃんけんで負けた僕と脚本家志望男。
「領収書もおつりもいらない。だが、レシートは持ってこい。弁当と飲み物は、十三種類。制限時間は十五分」
一万円札一枚と千円札三枚を渡した後、ミスダツはそう言った。どうしてこんな条件を付けるのだろうと思っていた。でも、あとから考えてみると、その時点から、ミスダツの特別授業は始まっていたのだ。
両手に重いレジ袋を下げて教室に入ったのは、制限時間の十数秒前。額に汗を浮かべた僕たちを、残りの全員が拍手で迎えてくれた。
いつのまにか、机の配置はコの字型に変わっていた。入り口に近い机の上に弁当の袋を置いたところで、教室内に奇妙な緊張感が漂っていることに気づいた。
僕たちが買い物に出ているあいだに、何か起こったのだろうか。
ふと目を上げると、数人の生徒が、僕の手元にぎこちない視線を注いでいた。その中に、あのマドンナの顔もあった。
僕はミスダツに訊ねた。
「何かあったみたいですね?」
ミスダツは、ニッと笑った。
「良い勘をしているじゃないか」
と答えた彼は、あれを見ろというように、ホワイトボードにあごをしゃくった。