体だけは元どおり?
「了解、まかしといて」
軽く返した後で、ちょっと考えてみた。
どうしてトリエステの存在を感じないんだろう。僕たちはしっかり繋がっているはずなのに。電流の刺激が強すぎて、指先の感覚がなくなっているのだろうか。
そのことについて、質問してみようか。
でも、すでに、了解と言ってしまった。これ以上間が空くと、トリエステが、変に思う。
気持ちを切りかえた僕は、ひとつ咳払いをしてから「じゃあ、これから実況を開始するよ」と言った。
「ただいま蟻たちは全員手首に集結中。彼らが通過したあとの指先が温かい」
「蟻たちは前進を再開した。いつの間にか数が増えている。動きも速くなっている。腕の温度も上がってきた」
「いま肘を通り過ぎた。足のはやい何匹かが、肩の付け根まできている」
「全員肩まで到着。蟻のおかげで右手はポッカポカ。こんなところで、温泉気分を味わえるなんて思ってもみなかったよ」
しばらくすると、首筋に痛みのようなものを感じるようになった。
でも、苦痛を伴うものではない。鋭い針の先で、チクチクチクと突かれているような感じ。どちらかと言えば心地よい。
うっとりしていると、トリエステの声が聞こえてきた。
「どうしたの? 寝ているんじゃないでしょうね」
「何と言えばいいんだろうね、この感じ」
実況を開始したところで、いきなり電流の動きが止まった。あまりにも唐突。予想もしていない事態に言葉も出ない。
電力不足、電流不足、電圧不足、何が原因なのか分からない。いずれにしろ、トリエステには僕に電気ショックを与えるだけの電気は貯まっていなかった。
あああ、
思わずため息がもれた。
今の僕は、孵化の途中で力尽きたトンボと同じ。中途半端のままで終わりをむかえなければならない。
弱気な思いが頭をよぎった瞬間、視界の中で、青白い光が炸裂した。
バシ、バシッ。
閃光は二回で終わったが、僕の目の奥では小さな光の点滅が続いていた。
いま、自分の身体が戻ってきた。
はっきりそう確信した。
いま僕の右手は、真正面に突き出されている。
目を閉じているのにも関わらず、それを認識できた。自分の体があたたかいものに包まれているのも分かった。
だが、僕は目を開けなかった。というより、開けるのが怖かった。
右手の指先に何も感じなかったからだ。トリエステと僕は、離ればなれになってしまったのかもしれない。そんな思いもあった。
僕は恐る恐る口を開いた。
「いま君は、どこにいるの?」
「もちろん、ここよ」嬉しいことに返事は真正面から聞こえた。「目を開けて、自分で確かめればいいんじゃないの?」
トリエステの言葉に従おうとしたが、思いとどまった。トリエステの声に力強さを感じたのだ。確率が非常に低いのは分かっていたが、訊きたいことがあった。
「ねえ」と僕は言った。「僕たち元の世界に戻ってきたんじゃないよね。ここは僕の部屋じゃないよね」
トリエステは少し笑ってから答えた。
「それも含めて確かめてみたらどう?」
僕はそっと目を開けた。
相変わらずの白い世界だった。
でも、先ほどまでとは違うところがあった。まっすぐ伸びた自分の右手が見えた。
しかし、その先にノートパソコンはなかった。
「どこにいるんだ」
つい大声を出した。
「目、の、ま、え。目の前」
からかうような口調は、言葉どおり目の前から。
「冗談は、よそうよ」
トリエステがいるはずの左横を向こうとしたが、体を動かすことはできなかった。
「君は腹話術ができるの?」
僕は前を向いたままで訊ねた。
「私が?」びっくりしたような声は、やはり正面から。「どうしてそう思うの?」
「いま思い出したんだけどね。パソピアで会ったときも、君の声は、あっちこっちから聞こえていたよね。天井、床、壁、誰もいない空中。君の中には、何か特別なスピーカーが組み込まれているんじゃないのかな」
「あら、そうだったの」トリエステは笑いながら言った。「あなたの耳に、そんなふうに聞こえていたなんて、今の今まで知らなかったわ」
そのあとトリエステは口調を変えた。
「本当に、私が見えていないの?」
心配したような声だった。
「冗談で言っているわけじゃないんだ。本当に見えないんだ。僕の前にあるのは広い空間だけ、ノートパソコンなんてどこにも浮かんでいない」
フフフフ、
忍び笑いとともに、甘えたような声が聞こえてきた。
「じゃあ、これならどうかしら?」
すると、条件反射のように、僕の脳裏に浮かんできたのは、大きくくびれた腰に片手を当てて、水着姿でポーズを決めている女性の姿。
ふと思った。トリエステは人間でいえば何歳に相当するのだろう。
パソコン業界の技術の歩みは、犬の年齢と関係があることを思い出した。
ドッグイヤー。成長の速い犬にとっての一年は人間の7年に相当するらしい。
トリエステは十年前のノートパソコン。
ぎゃっ、
僕は、慌てて頭の中の映像を払いのけた。
それを当てはめると、トリエステは七十を超えたお婆さん。




