僕の中の蟻たち
チリチリチリッ、チリチリチリッ、
神経を刺激するような感触。僕に電気ショックを与えるための電流が、人差し指から手首に向かってじりじりと近づいてくる。
しかし僕にはそれが、長い間自分の細胞の中に隠れていた生き物のように思えた。
小学生の頃、蟻の大群に(と言っても、たかだか十数匹だが)嚙まれたことがある。
畳の上に寝転んで昼寝をしていたときだ。
痛いような、くすぐったいような感じで目が覚めた。
見ると、僕の脇下の内側。肌のやわらかい部分に、一センチぐらいの黒い円があった。
「何だ、これは?」
それが蟻だというのは、すぐ分かった。
どうしてこんなところに、こんな形で集まっているのだろう。
僕は顔を横に向けたまま、円の中で蠢く黒い集団を観察した。
一匹の蟻の口元に小さな粉がついていた。
思い当たることがあった。
昼前食べたスナック菓子。畳の上に落ちた小さな欠片を踏んづけた記憶があった。
あのときの粉末が、何かの拍子に僕の腕に付いたのだろう。
と、僕の脳裏に絵本で見た一場面が浮かんできた。
ガリバー旅行記。こびとの国に漂着したガリバーが、浜辺で手足を縛られている場面。
もしかすると、今の僕は絵本と同じような状態なのかもしれない。
慌てて飛び起きた。
しかし、何ごともなかった。僕の周りに蟻の大群はいなかった。行列もなかった。もちろん縄で縛られてもいなかった。
安心した僕は、右手をそっと持ち上げた。
体を動かしたとき、蟻たちをふるい落としてしまったのかもしれない。そう思ったのだ。
しかし、先ほどと同じところに同じ大きさの黒い円があった。
僕はもう一度畳に横になった。
そして、改めて黒いかたまりのような蟻たちを見つめた。
僕の肌に粉は残っていなかった。
互いの頭をくっつけるようにして、2本の触覚を盛んに動かしている蟻の姿は、これからのことについて意見交換をしているように見えた。
(アリさんとアリさんと ごっつんこ あっちいって ちょんちょん こっちきて ちょん)
お使いアリさんの歌を口ずさみながら、ふと思った。
働き蟻の中にも指揮官はいるのだろうか。いるとしたら、最初に動き出すのだろうか。
もっとよく見てみよう。顔を近づけようとしたとき、一匹の蟻が僕を嚙んだ。
蟻の大あごを顕微鏡で見ると、鋭い牙のように見えるらしい。
だが、所詮、蟻は蟻。痛くもかゆくもなかった。
僕は、クスッと笑ってしまった。
ひとつのストーリーが浮かんできたからだ。
いま僕に噛みついたのは、一番最後にやってきた鈍くさい蟻。お菓子の粉を一粒も拾えなかった蟻。
今頃、何だよ。
遅すぎるよ。
ほら、見てみろ。何も残っちゃいないよ。
仲間に、そんなことを言われたこの蟻は、心の中でこう思ったはず。
みんなの手前、恰好だけはつけなくてはならない。粉がなければ、肌にしみ込んだ水分だけでも吸い取ってやろう。
そんなことを頭の隅で考えていると、腕に張り付いていた蟻たちが、号令がかかったように頭をぐっと持ち上げて、僕に顔を向けた。
その動作は、お礼を言っているように見えた。
(あなた様のおかげで、ワタクシどもは生きていけます)
足の裏で踏んづけたスナック菓子の欠片で、こんなに喜んでもらった。
僕は蟻たちに不思議な親近感を覚えた。自分が急に大人になったような気がした。
「またおいで。今度はもっと大きなお菓子をあげるからね」
声に出してそう言うと、蟻たちはそっと頭を下げた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
そんな声が聞こえたような気がした。
ひょっとすると僕は、ファーブル以上に、昆虫とコミュニケーションがとれる人間なのかもしれない。
そう思った次の瞬間、蟻たちは一斉に僕の皮膚に食らいついた。
「ねえ、何か感じない?」
言葉は短かった。でも、先ほどまでの緊張感はなかった。とてもゆったりとした声だった。
あなたを元の世界に戻すための私の役目は、もう終わったの。あとは自分でやってね。
暗にそう言われたように聞こえた。
「はっきり感じるよ」
と答えると、トリエステは少し甘えたような声で言った。
「どんな感じなのかしら? もっと詳しく教えてほしいな」
僕は頭に浮かんでいたことを、そのまま言葉にした。
「蟻の大群が、僕の細胞膜を食い破りながら進んでくる感じ」
「私、蟻を見たことがないんだけど」
「時間があれば、蟻の生態を話してもいいんだけどね」
と言ったところで、手先の感じが微妙に変わっていることに気づいた。
「ちょっと、待って」
チリチリ感に温かさが加わっていた。
「もし、僕の体の中に蟻が住んでいるとしたら」と僕は言った。「古い細胞を食べて、新しいものに変えるためだと思うよ。この調子でいけば、もうすぐ、」
元の世界に戻れそうだね。
と続けようとする前に、トリエステが言った。
「つまり私に関しては、何も感じていないということなのね」
しまった、と思った。先ほどの質問の趣旨を取り違えていたらしい。
僕は慌てて言った。
「そんなことはない。それは最初から感じている」
「どんなふうに?」
責めている口調ではなかったが、僕は指先に意識を集中した。
しかし、どういうわけか、何も感じなかった。
でも、それを口にすることはできない。
僕はとっさに浮かんだことを言った。
「とても言葉では言い表せない」
「その気持ち、分かる」トリエステは嬉しそうな声で言った。「よかったら、蟻さんたちの様子を実況中継してもらえないかしら?」




