表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/11

第1話 地味飯の女

第1話 地味飯の女


 雨上がりの夜だった。


 駅前のアスファルトはまだ濡れていて、コンビニの白い灯りを鈍く反射している。志乃は肩に食い込むエコバッグを持ち直しながら、スーパーの自動ドアを抜けた。


「ありがとうございましたー」


 店員の気の抜けた声が背中に飛んでくる。


 時刻は午後九時過ぎ。値引きシールだらけの惣菜棚には、今日を終えた疲れが貼り付いていた。


 志乃はゆっくりと野菜売り場を見る。小松菜百円。豆腐七十八円。鶏むね肉二百三十円。卵は今週少し高い。


「……よし」


 小さく呟いて、カゴへ入れる。


 昔から、買い物は嫌いじゃなかった。限られた予算で、ちゃんと食べて、ちゃんと暮らす。数字を見ながら献立を組み立てる時間は、不思議と心が落ち着いた。


 祖母がよく言っていた。


「生活を回せる人間は強いよ」


 その意味が、最近ようやくわかる気がする。


 マンションへ着く頃には、冷たい風がまた吹き始めていた。築二十年の古い賃貸。エントランスの電球は半分切れている。


 鍵を開けると、部屋は真っ暗だった。


「まだ帰ってないんだ」


 志乃は小さく息を吐き、ヒールを脱いだ。


 営業帰りの足はじんじん熱を持っている。けれど座る前にエプロンをつけた。冷蔵庫を開ける。昨日作ったひじき煮がまだ残っている。


 米を温め、味噌汁の鍋を火にかける。


 ジュワ、と鶏むね肉を焼く音が狭いキッチンに広がった。醤油とみりんの香りが立ち上る。小松菜を切る。包丁がまな板を叩く乾いた音。


 静かな部屋だった。


 けれど志乃は、この時間が嫌いではない。


 スマホばかり眺める世界から切り離されたようで、少しだけ呼吸が楽になる。


 三十分後、テーブルに夕食が並んだ。


 鶏むね肉の照り焼き。小松菜のおひたし。豆腐の味噌汁。雑穀米。ひじき煮。


 地味だな、と自分でも思う。


 けれど湯気の立つ味噌汁を見ると、心の奥が少しほどけるのだ。


 その時、玄関のドアが乱暴に開いた。


「はー、疲れた」


 拓海だった。


 香水の甘い匂いが冷たい外気と一緒に流れ込んでくる。高そうなコート。艶のある革靴。首元には見覚えのないマフラー。


 志乃は顔を上げた。


「おかえり。ご飯できてるよ」


「んー」


 拓海は気のない返事をして、ソファへスマホを放り投げた。


「今日さ、マジで大変だったわ。経営者ってほんと孤独」


「お疲れさま」


「志乃さ、俺の動画見た?」


「まだ見れてない」


「ありえなくない? もう五万再生いってるけど」


 誇らしげに笑いながら、拓海はテーブルを見た。


 その瞬間、露骨に眉をしかめる。


「……また茶色い飯?」


 志乃の箸が止まった。


「栄養考えて作ったけど」


「いや、そういう問題じゃなくてさ」


 拓海はスマホを操作し、画面を突き出した。


「萌香ちゃん見てみ? 女ってこういうの作るんだよ」


 映っていたのは、白い皿に並んだカフェ風の料理だった。アボカド。色鮮やかなサラダ。花が添えられたパンケーキ。


 照明まで完璧に加工されている。


「すごいね」


「だろ? センスある女って感じ」


 拓海は照り焼きを口へ入れた。


「でもまあ、味は悪くない」


 その言い方が、妙に胸に刺さった。


 志乃は黙って味噌汁を飲む。


 ぬるくなり始めた豆腐が舌の上で崩れた。


「そういや来週のパーティー、萌香ちゃん来るから」


「……パーティー?」


「俺の会社設立記念。言ったじゃん」


「聞いてないけど」


「あれ、そうだっけ?」


 悪びれもなく笑う。


「まあ、志乃はそういうキラキラした場、苦手でしょ?」


 拓海は続けた。


「萌香ちゃん華あるからさ。横にいると映えるんだよね」


 志乃は何も言わなかった。


 ただ、胸の奥に冷たいものが少しずつ沈んでいく。


 食事を終えると、拓海はシャワーも浴びずに寝室へ消えた。


 しばらくして、規則的ないびきが聞こえ始める。


 時計は午前一時を回っていた。


 志乃は一人で食器を洗っていた。スポンジを握る手は冷たい。蛇口から流れる水の音だけが部屋に響く。


 ふと、ソファの上でスマホが震えた。


 拓海のものだった。


 画面が明るく光る。


 通知には「萌香♡」と表示されていた。


 見るつもりはなかった。


 本当に。


 けれど視界に飛び込んだ文章に、指が止まる。


『今日もありがと♡ 志乃さん、全然気づいてなくて笑う』


 心臓が小さく跳ねた。


 次の通知。


『地味女から会社の金引っ張ったら、さっさと捨てなよ笑』


 頭の中で何かが真っ白になった。


 志乃はゆっくりスマホを手に取る。


 指先が震えていた。


 ロックは解除されていた。


 トーク画面を開く。


『ほんと便利なんだよな、あいつ』


『企画も金も持ってくるし』


『でも女としてはマジ無理』


『わかるー笑 なんか生活感すごいもん』


『冷蔵庫とかマジおばさん』


『早く萌香と住みたい』


 呼吸が浅くなる。


 視界が滲む。


 けれど涙は出なかった。


 代わりに、身体の奥が妙に静かだった。


 まるで冬の海の底みたいに。


 志乃は画面をスクロールする。


 そこには、自分が会社で考えた企画の話まで書かれていた。


『次のプレゼン、あの企画使えばまたバズるわ』


『志乃ってチョロい?』


『尽くす女ってラク笑』


 その瞬間だった。


 何かが、静かに壊れた。


 音はしなかった。


 叫びもなかった。


 ただ、ずっと信じていたものだけが、音もなく崩れ落ちた。


 志乃はスマホを置く。


 それから、冷めきった味噌汁を口に運んだ。


 ぬるい。


 少ししょっぱい。


 けれど不思議と、頭だけは冴えていく。


 窓の外では、また雨が降り始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ