第1話 地味飯の女
第1話 地味飯の女
雨上がりの夜だった。
駅前のアスファルトはまだ濡れていて、コンビニの白い灯りを鈍く反射している。志乃は肩に食い込むエコバッグを持ち直しながら、スーパーの自動ドアを抜けた。
「ありがとうございましたー」
店員の気の抜けた声が背中に飛んでくる。
時刻は午後九時過ぎ。値引きシールだらけの惣菜棚には、今日を終えた疲れが貼り付いていた。
志乃はゆっくりと野菜売り場を見る。小松菜百円。豆腐七十八円。鶏むね肉二百三十円。卵は今週少し高い。
「……よし」
小さく呟いて、カゴへ入れる。
昔から、買い物は嫌いじゃなかった。限られた予算で、ちゃんと食べて、ちゃんと暮らす。数字を見ながら献立を組み立てる時間は、不思議と心が落ち着いた。
祖母がよく言っていた。
「生活を回せる人間は強いよ」
その意味が、最近ようやくわかる気がする。
マンションへ着く頃には、冷たい風がまた吹き始めていた。築二十年の古い賃貸。エントランスの電球は半分切れている。
鍵を開けると、部屋は真っ暗だった。
「まだ帰ってないんだ」
志乃は小さく息を吐き、ヒールを脱いだ。
営業帰りの足はじんじん熱を持っている。けれど座る前にエプロンをつけた。冷蔵庫を開ける。昨日作ったひじき煮がまだ残っている。
米を温め、味噌汁の鍋を火にかける。
ジュワ、と鶏むね肉を焼く音が狭いキッチンに広がった。醤油とみりんの香りが立ち上る。小松菜を切る。包丁がまな板を叩く乾いた音。
静かな部屋だった。
けれど志乃は、この時間が嫌いではない。
スマホばかり眺める世界から切り離されたようで、少しだけ呼吸が楽になる。
三十分後、テーブルに夕食が並んだ。
鶏むね肉の照り焼き。小松菜のおひたし。豆腐の味噌汁。雑穀米。ひじき煮。
地味だな、と自分でも思う。
けれど湯気の立つ味噌汁を見ると、心の奥が少しほどけるのだ。
その時、玄関のドアが乱暴に開いた。
「はー、疲れた」
拓海だった。
香水の甘い匂いが冷たい外気と一緒に流れ込んでくる。高そうなコート。艶のある革靴。首元には見覚えのないマフラー。
志乃は顔を上げた。
「おかえり。ご飯できてるよ」
「んー」
拓海は気のない返事をして、ソファへスマホを放り投げた。
「今日さ、マジで大変だったわ。経営者ってほんと孤独」
「お疲れさま」
「志乃さ、俺の動画見た?」
「まだ見れてない」
「ありえなくない? もう五万再生いってるけど」
誇らしげに笑いながら、拓海はテーブルを見た。
その瞬間、露骨に眉をしかめる。
「……また茶色い飯?」
志乃の箸が止まった。
「栄養考えて作ったけど」
「いや、そういう問題じゃなくてさ」
拓海はスマホを操作し、画面を突き出した。
「萌香ちゃん見てみ? 女ってこういうの作るんだよ」
映っていたのは、白い皿に並んだカフェ風の料理だった。アボカド。色鮮やかなサラダ。花が添えられたパンケーキ。
照明まで完璧に加工されている。
「すごいね」
「だろ? センスある女って感じ」
拓海は照り焼きを口へ入れた。
「でもまあ、味は悪くない」
その言い方が、妙に胸に刺さった。
志乃は黙って味噌汁を飲む。
ぬるくなり始めた豆腐が舌の上で崩れた。
「そういや来週のパーティー、萌香ちゃん来るから」
「……パーティー?」
「俺の会社設立記念。言ったじゃん」
「聞いてないけど」
「あれ、そうだっけ?」
悪びれもなく笑う。
「まあ、志乃はそういうキラキラした場、苦手でしょ?」
拓海は続けた。
「萌香ちゃん華あるからさ。横にいると映えるんだよね」
志乃は何も言わなかった。
ただ、胸の奥に冷たいものが少しずつ沈んでいく。
食事を終えると、拓海はシャワーも浴びずに寝室へ消えた。
しばらくして、規則的ないびきが聞こえ始める。
時計は午前一時を回っていた。
志乃は一人で食器を洗っていた。スポンジを握る手は冷たい。蛇口から流れる水の音だけが部屋に響く。
ふと、ソファの上でスマホが震えた。
拓海のものだった。
画面が明るく光る。
通知には「萌香♡」と表示されていた。
見るつもりはなかった。
本当に。
けれど視界に飛び込んだ文章に、指が止まる。
『今日もありがと♡ 志乃さん、全然気づいてなくて笑う』
心臓が小さく跳ねた。
次の通知。
『地味女から会社の金引っ張ったら、さっさと捨てなよ笑』
頭の中で何かが真っ白になった。
志乃はゆっくりスマホを手に取る。
指先が震えていた。
ロックは解除されていた。
トーク画面を開く。
『ほんと便利なんだよな、あいつ』
『企画も金も持ってくるし』
『でも女としてはマジ無理』
『わかるー笑 なんか生活感すごいもん』
『冷蔵庫とかマジおばさん』
『早く萌香と住みたい』
呼吸が浅くなる。
視界が滲む。
けれど涙は出なかった。
代わりに、身体の奥が妙に静かだった。
まるで冬の海の底みたいに。
志乃は画面をスクロールする。
そこには、自分が会社で考えた企画の話まで書かれていた。
『次のプレゼン、あの企画使えばまたバズるわ』
『志乃ってチョロい?』
『尽くす女ってラク笑』
その瞬間だった。
何かが、静かに壊れた。
音はしなかった。
叫びもなかった。
ただ、ずっと信じていたものだけが、音もなく崩れ落ちた。
志乃はスマホを置く。
それから、冷めきった味噌汁を口に運んだ。
ぬるい。
少ししょっぱい。
けれど不思議と、頭だけは冴えていく。
窓の外では、また雨が降り始めていた。




