コーラル。
困ったわたしは、もうこの場を逃げ出したくてしょうがなくて。
でも、ただ逃げたってすぐ捕まってしまうだろう。
それに、マドラさんに何の説明もしないで逃げ出しても……。
そう逡巡している時だった。
「フローラ、ここで話してると他のお客さんにも聞こえるから、奥に行って話さないかい? ほら、あんたも、奥の部屋貸してあげるからさ」
そう、声をかけてくれたマドラさん。
「ああ、おかみさん、すまない」
コーラルさん、素直にマドラさんに頭を下げる。
「いいよ、あんたはこの子を心配してここまできたんだろう? そんなにドロドロになってまで、歩き回ったってことだよね。そんな奴が悪い人なわけはないや。いいよね? フローラも」
「ええ。マドラさん、ごめんなさい」
「ほらほら、背中のマオちゃんもお腹が空いた頃だろう? 乳でもやってから、その人とゆっくり話してみな。そう悪いようにはならないと、あたしは思うね」
マドラさん、そう言ってわたしの肩をとんと叩く。
うん。そう、ね。
まずは誠実に話してみよう。
逃げるのなら、いつでも、できるもの。
「フローラ様……。この度は、ご無事で何よりでございます……。エドワード様も、さぞお慶びになるでしょう……」
キッチン横の休憩スペース。
長方形の素朴なテーブルの向こうにコーラルさん。反対側にわたし。
わたしがマオにお乳をあげてる時間に、マドラさんが気を利かせてコーラルさんにお食事を出してくれていた。
具沢山の賄いスープを飲み干し一息ついたのか、何とか肩の力を抜いた感じのコーラルさん、やっと言葉も出てくるようになって。
「エドワードには、知られたく、ないの……」
「それは……。せめてあなた様の無事だけでもお知らせさせてくださいませんか……?」
「でも……」
「その、お子さん、エドワード様のお子、でございますか……?」
うう。
これは、隠しても無駄、だろう。
マオの髪色や瞳の色は、どう考えたってエドワード様の色だもの。
「エドワードは、子供はいらないので……」
それだけ何とか口にする。
ああ、と、声を漏らす、コーラルさん。
「その子は、あの夜の、お子、でございますか?」
「ええ」
「なんと。そういうことでございましたか……。旦那様は……」
苦虫を噛み潰したような顔をして、コーラルさんはわたしの顔をじっと見つめた。
「わかりました。そのお子のことは、このコーラル、必ず内緒にいたします。旦那様とフローラ様の婚姻の事情は、私も存じておりました。なのに……。あの時二人きりにしてしまったこと、悔やまれます……」
そこまで言って、項垂れる。
ああ、違うの。違うのよコーラルさん……。
「違うのよコーラルさん。あの人は悪くないの。拒めなかったわたしが悪いのだもの」
「いえ。それでも、です。申し訳ありませんフローラ様」
「だって……」
「いいんです。旦那様がもっとちゃんと素直にフローラ様に接していれば、このような事態にはならなかったのは間違いないのですよ。ほんとに、あの人は……」
え?
「フローラ様は、旦那様の行為を酒の上の過ちだと、そう思っていらっしゃいますか?」
「え? だって。それ以外、考えられないもの……」
そして、そんな過ちに溺れたエドワードでも、触れてもらえて喜んでしまったわたしがいたことも……。
「私がこんなことを言うのもおかしな話ですが、旦那様はあれはあれで臆病なのですよ。自分自身に対する肯定感も低く、他人に好かれることも、人を好きになることにも、慣れていないのです……」
「そんな……」
「どうしようもなく情けなくて。それでも、そんな旦那様だからこそ、私は護って差し上げないと、と、ずっと思ってお仕えしてきました……」
目を伏せ。
そう続けるコーラルさん。
あのエドワードがそんな弱い人だった?
にわかには信じられないけど、嘘を言っているようには見えなかった。
「旦那様はあなた様に、真摯に謝罪をしたいとおっしゃっていました、が……。どうやら自分にはもうフローラ様に会う資格がないと、そうも思っていらっしゃるようでした」
ごめんなさいエドワード……。資格がない、とか、そんなことないのに……。
「お二人の間に何があったのか、それを案じておりましたが……。どうしようもないですね。本当にあの方は……。自分の気持ちを抑えられなかったのでしょう」
え?
「あの方は、あなた様が思っている以上に、あなた様を愛していらっしゃいます。自分にはそんな資格がない、と、そう卑下をしていらっしゃいましたが、私にはわかります」
「そんな! そんなこと……」
エドワードはわたしを救ってくれた、ヒーローだった。
そんな彼の優しさに、わたしは彼のことを愛してしまって……。
偽装結婚であったのに、それをまもることもできなくなって、逃げ出したのだ。
お酒に酔った上での過ちをわざと拒まなかったことは、彼への裏切りだと、申し訳ない、と、そう思っていた。
だから逃げた、のだ。
逃げずにはいられなかった。
だけど……。
「あなた様がいなくなった後の旦那様の憔悴ぶりは……、本当に痛々しく……。ですから、何としてもあなた様を見つけて差し上げなければ、と、私も……」
ああ……。
「ありがとう、ございます……。迷惑をかけたこんなわたしのことを、そんなになってまで探してくださって……。すみません……」
最初は、見つかってしまった、と、逃げなきゃ、と、そう思った。
でも……。
コーラルさんの言葉を聞くにつれ、苦労をしてでもわたしを探してくれたコーラルさんに、感謝の気持ちが湧いてきて。
申し訳ない、そう思え。
「いえ、あなた様が謝るような事ではないのです。まあでも、私も、どうしてもフローラ様に旦那様の本心を伝えたくて、ここまできたのですよ……」
そう。
今でも信じられない。
エドワードがわたしを愛してくれていた?
だって、でも、そんな……。
「嬉しい、です……。エドワードがわたしのことをそんな風に思ってくれてただなんて、考えもしなかったから……」
「それでは……」
でも、だめ。
ほだされてコーラルさんと一緒に帰る、そんな流れになりそうだけど、だめ。
それだけは、ダメ、だ。
「エドワードには、わたしが無事に暮らしている、と、それだけをお伝えください……」
「しかし……」
「この子、マオのことだけは、彼には内緒にして欲しいのです……」
わたしは胸に抱いたマオの寝顔を見ながら。
「この子がいたら、エドワードを苦しめてしまうかもしれません……。だから、お願いです……」
「わかりました。フローラ様がそこまでそうおっしゃるなら。それに最初にそうお約束しましたしね。ただ、お願いがひとつあるのです」
え?
「お願い?」
「私がこの地であなた様のおそばにとどまることを、許していただけませんでしょうか?」
「だって、そんな、申し訳なくて……」
この人は、わたしたち親子の力になってくれると、そう言っている。
それくらいはわかる……。
まるで、エドワードの代わりに、と、そう思ってくれているのだ、と……。
「きっと、エドワード様もそう望まれるでしょう。あの方は、それくらいあなた様を愛していらっしゃいますから……」




