英雄を知る者
流れに沿うように、斬る!
「暗技流水制・滅慟!」
刃にそれを乗せたなら、それは閃光の如き一瞬の輝きをもってして、あらゆる敵の命を絶つ。
博士の喉元に刃が伸びる。
その目に慌てた様子はない。
こちらに気付いているが、手を下す必要はないというかのようだ。
ならば死ね。
確実に倒せる、そのはずだったが……
「あれ?視界が……?」
気がつけば俺は逆さになって宙を彷徨っていた。
視界の中央にはフードの男。
手に握られているのは氷の槍か。
暗技でも速すぎて反応できなかった。
一緒に飛び込んできた実が水を操り、博士との間に立つ男へと向かう。
危険だ。
口に含んだ薬を飲み込み、魔力で足場を作る。
間に合わない。
それを理解した俺は、狙いを博士へと変える。
気付いているならこっちへ来い!
しかしその願いに反して、フードの男は実に刃を向ける。
振られた槍は実の水の鎧にぶつかると、そのまま叩き斬るものだと思っていた。
しかしそうはならなかった。
実の体は武器の衝突による鎧の変形に合わせて移動し、そのまま地面を滑るように男の懐から抜けていく。
そんな実を横目に、魔力の足場を蹴り博士へとナイフを向ける俺。
実と挟み込んだ、とれる!
しかし何かに足を掴まれ、俺の攻撃は防がれる
視界にフードの切れ端が映る。
なぜこっちにいるんだッ⁉︎
引き戻され地面に叩きつけられると、博士に向かう実を止めるためか、投げられ博士の真横を通過し実の鎧に激突する。
俺を受け止めた実は水の上を滑って移動し、博士と男から遠ざかる。
危なかった……
なんとかナイフを霧散させて事故は防ぐ。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫だ。骨折はしたが問題ない」
こいつら相手に奇襲失敗、これは勝てないっぽいな。
「そうですか。あなた方は侵入者だったのですね。となると、報告の真偽も疑わしいですね。これは困りました」
余裕があるからか自身の性格からか、まるで俺たちに興味はなく、ただ自分の目的について考える博士。
俺たちでは、フードの男一人倒せないんだ、その態度も当然か。
「どうする?」
「逃げるしかないな」
俺たちが日本語で話していると、日本語も話せるらしい男が、不思議そうに俺たちに告げる。
「取り返しにきたのではなかったのか?」
エルドラドの元の持ち主が実だと知っていたなら、当然その質問は妥当なものととれる。
しかし、おかしい。
なぜこの男は、俺の目を見て、俺に向けて話す?
「どうした?派世広人?」
「ッ⁉︎」
どうしてこいつは俺の名を⁉︎
博士に気付かれた様子はなかった!
なのになぜ、俺を知らないはずのあいつが!
「なに?それがあの派世広人だと言うのですか?」
「この俺に見間違いはない。ことそいつに関してはな」
バカな!
俺は一度だって会ったことはない!
ここまで奇妙な流れなら、忘れようがないから間違いない!
徹底して情報は隠している、だから知っているなんてこと、ありえない!
「なるほど、どうりでここまで辿り着くわけです」
日本語で話すようになった二人、そのおかげで実にも理解できる。
だからこそ実は驚く。
俺と敵とを見比べていたが、驚きに揺れていた瞳は定まり、敵を睨みつける。
動揺から戻るのが早い。
さっきの動きもそうだが、そこそこ戦い慣れているな、
最初の追跡の算段を立てていた時もそうだったな。
放っておいても大丈夫かもしれない。
「辿り着いておいてなにもせず逃げる、それもいいだろう。なにも守れない無力なお前にふさわしい道だ」
なにを知っているのかは分からないが、無力な俺は守るために逃げる必要がある。
「足掻かなければならない。そう理解していながら、それを行動にしない」
一人で逃げてもらおう。
外で奏未を呼んで逃げさせる、それがベスト。
俺はその時間を稼ぐ。
実が逃げる時間を!
「ムダだ。14位では俺の手から逃げられない」
あいつ!奏未のことまで……!
戦って、生き残るしかないのか……
「さて、どうする?」
逃げられないことを悟った俺と、それを察した実は、やはりそれしか道はないと交戦の道を選ぶ。
「フードの方は私が相手するね」
「いや、あれは俺が相手をする。お前は後ろの壁を破壊してくれ」
「この壁を?」
「ああ。そこの壁の向こうは外だ。逃げ道は絶対に必要だ。任せる」
「うん」
「やはりそうくるか。いかなる選択をしようと、俺を倒すことはかなわない。それを理解していながら」
全部お見通し……
だが、なんだろう、この穏やかな感覚は……
「どれだけ警戒していようとも、背を向けていようとも、俺の前ではなんら変わりない。俺ならいつでも殺せるのだ、そこの桃髪くらいならな。そうしないのだから、何か目的がある、もしくはできない理由がある。さあ、なぜだろうな?」
こいつ、俺を試しているのか?
助かる道はその期待に応えることだけか?
できるのか?
分からないが、やるしかない。
「はっ!安い挑発だな!いいだろう。乗ってやる。もとよりその他に選択肢はないみたいだしな」
ナイフを再び作り出す。
今度は左右に一つずつ。
「行くぞ」
二段開門。
久しぶりに開いたような気がする鬼門。
このまま、決める。
蹴り出し放った最初の一撃、それは槍に防がれる。
そしてそこからの暗技による連撃、それもことごとく受け流される。
反撃に振られた槍を躱して、同時にそれに足を絡めて、腹筋の要領で体を懐に潜り込ませると、ナイフを剣に変化させながら振り上げる。
それが体に触れたと思われる瞬間、俺の体を横から何かが叩く。
強烈なものをもらったが、体を捻ってその方向に沿って回転することで、その勢いを殺して壁に止まる。
感触で理解した。
こいつは俺が遠く及ばない、格上だ。
触れるその瞬間に移動し攻撃した。
これほどに機敏な動きは奏未でもできないし、二段開門でも追いつけない速度は黒白凰でもできない。
それだけでも新たなる可能性程の実力があることは証明できる。
しかしそれだけではない。
あの氷の槍、あれは俺では干渉できない。
あの速さと関係があるのかはわからないが、それもその比類なき力の根拠になる。
流れが読めないのもキツイな。
俺の戦闘は暗技に頼っている節がある。
だから流れが読めない相手には、かなりの遅れをとってしまう。
黒白凰との戦闘でそれには気付いていたが、それへの対策がまだ練られていない。
鬼門を使ってもこれだけの差があるから、力押しという手段は取れそうにない。
壁を壊し終えた実が、俺に不安そうな目を向ける。
不安にもなるだろう。
多分俺たちの戦いは実の目に追えない。
もし俺が倒されれば、とそう不安になるのは当然だ。
「暗技絶式……」
「羅貫滅慟か」
「ッ⁉︎」
なぜ知ってる⁉︎
これは俺の暗技、俺だけの暗技のはずだ。
なのになぜ……いや、今は驚き攻撃を止めてる場合ではない。
当てればそれで終わる。
剣だったそれをナイフへと変えて、鬼門の馬鹿力で壁を蹴り、力の限りを叩き込むべくさらに多量の魔力を込め、威力を増幅させる。
俺の攻撃に槍を合わせた男。
刃同士が衝突し、それは爆発音にも等しい大音量の振動を引き起こし、そこから発生した衝撃波は、上下に伸びて床と天井を切り裂く。
不自然な衝撃、おそらく男が操ったからだろう。
氷の槍はビクともせず、男に反動のようなものは見られない。
対して俺は反動で仰け反り体勢を崩してしまっている。
ナイフを維持するほどの魔力さえなくなった。
これは、一撃もらうな。
素早く動く槍、振られたそれから身を守るように魔力の盾を作り出す。
しかしそれは敵の予想の範疇にとどまる。
振り上げられた足が俺の体を打ち上げられ、槍はこのためかと理解する。
振り下ろされた槍。
体を捻り槍を蹴り、ビクともしない槍を足場として、力を入れてその攻撃から逃れる。
濡れた地面を転がる俺、その水に触れて異変に気付く。
なぜだ、なぜ気付くのが遅れた!
「この数、躱せるか?」
無数の槍が俺めがけて降り注ぐ。
鬼門が体温を上げていたことで、周囲の気温が下がっていることに気付くのが遅れてしまった。
この数、躱しきれない……
「広人くん!」
水が俺の体を包む。
槍が触れるとそこの水が俺の体を押し、槍の軌道から外す。
それが高速で、何度も行われる。
「助かる!」
距離を取る。
戦場を広く見る。
能力はなんだと考えてみるが、氷の槍を扱っているのにまるで正体がつかめない。
あれは氷を操る能力でなければ、冷気を操る能力でもない。
解るのはそれだけ。
「やはり俺には勝てないか」
挑発するようにそう言った男は、自分のフードを指差して口角を上げる。
「このフードを剥がせたら、お前の勝ちにしてやろう。エルドラドも好きなだけ持ち帰っていい」
適当言いやがって……
「何を勝手に決めているんですか?」
「安心しろ。たとえ黒騎士が相手だとしても、俺のフードは剥がせない」
なぜ黒騎士の名をここで出したのか……
まさか、俺が黒騎士だと知っているとでもいうのか?
残りの薬を全部飲む。
まあ二錠しかないから、右目が紅く染まる程度しかないが。
空だった魔力が体に満ちて、俺の手にナイフが再出現する。
「勝てないことは理解している。だが、それでも止まるわけにはいかない。何をするつもりかは分からないが、エルドラドを集めさせるのは危険だ。個人的な恨みもある。だから……」
氷の槍が宙に浮かび上がる。
男の目が、一瞬だけフードの中から覗く。
それと目が合った瞬間、俺の体を衝撃が駆け巡る。
今回の博士への怒り、昨日の研究所での怒り、抑えつけられなくなったそれが、消えていなかったそれが、混ざり合い、俺に変化をもたらす。
「おや?まだ何か力を有しているようですね。見込みがありそうなら、収容してしまいましょうか」
博士が発したそれが引き金となり、俺の意識を刈り取る。
自分ではない何かが流れ込んでくる感覚に、深層へと沈んでいく感覚に支配され、溶けて消えていく。
「様子が変わりましたね」
「この感じ……まさか……」
立ったまま動かなくなった広人は、ただ静かに呼吸を繰り返す。
「広人くん?ねえ、どうしたの?」
広人の様子が気になった実は、駆け寄り声をかける。
「どうした、か。さて、どうしたんだろうな?」
自分がそこにいるのを不思議がるように、周囲をキョロキョロと見回している広人。
そんな異常な状況に困惑する実。
「私は守りに徹します。彼を退けるのはあなたに任せますよ」
そう言った博士に対して、黒いナイフが高速で飛来する。
次の瞬間にはそれが博士に突き刺さり、しかし瞬きすると、チャンネルを変えたかのように全くそういった痕跡が見られない状態で座っている。
「逃したか」
そう悪態をついた広人は、それに反応しなかった男に意識を向ける。
「バンと一緒にいたということは、お前は敵ということでいいんだよな?『クロノス』?」
聞いたことのない名前が二つも飛び出した実は困惑する。
当然広人に疑惑の目が向けられるが、それでも見限ることはない。
そんな実に応えるように、広人は目配せして頷く。
「なぜ?なぜお前が『お前』になっているんだ?ありえない……こんなことは、今まで一度だって……」
「どういうことですか?」
「本来ならば起こり得ない事象が起きた。倒すことには倒せるが、非常にやり辛い相手だ」
バンは博士、フードの男がクロノス。
名乗っていないクロノスにいたっては、広人は存在を今日知ったはずだ。
しかしそれが誰かを知っている。
そんな異常に、一番思考が追いついていないのは、クロノスだ。
広人の暗技を知っていた、広人の弱点を知っていた、そんなクロノスが、こうなることを知らなかった。
「何か知っているようですが、彼はどうなったのですか?」
「あいつは……あいつはかつての英雄になった。誰もが知る英雄に。英雄、派世広人に。これまでの誰も知らない広人ではなく、『絶望』の称号を与えられた英雄に」
「『クロノス』、お前さえ倒せば、バン博士など取るに足りない相手だ」
「ああ、そうだろう。俺の劣化に過ぎない博士では、俺を倒したお前には勝てない。しかしそれは、お前が俺を倒せることが前提だ」
「俺はお前を一度、倒している」
「それはお前が万全だったからこその結果だ。今のお前は不完全、体は未熟で、魔力だって不足している。勝ち目はない」
話している間に落ち着くクロノス。
しかしどれほど考えても、広人が『広人』になった訳を、その仮説の一つさえ立てることはできない。
「忘れたか?俺がそんな状況を、何度も覆してきたということを」
「分かっているとも。お前は世界に名だたる騎士なのだから」
「ああそうだ。俺は騎士。さて、暴力をもってお前を葬らせてもらう」
「何をどうしようとも、俺は倒せない」
「絶望を知れえ!」
「永遠に沈め」
魔力でできた黒いナイフを手に握る広人。
そんな広人に向け放たれた数多の氷の槍。
それを広人は、弾く、弾く、弾く。
正面から迫るそれを真っ二つに切り裂くと、広人はそのままクロノスに刃を振り下ろす。
斬ったかと思われたがしかし、クロノスの体は揺らぎ消えていき、背後から槍を突き出す。
体を回して受け流した広人は、回転したまま足を振り上げ、踵で頭を狙っていく。
もう一本の槍でそれを防ぐと、広人はそれに足を引っ掛け、そこを軸とし体を振り回し、こんどはナイフで首を狙う。
素早く手放し引いたクロノスが、一本になった槍を握って困ったように俯く。
心許無くなった槍を見つめているのだろうか、とその様子を見れば思うだろう。
しかし、そこまで追い詰められているわけではない。
「戦い辛いな……」
広人は分かってはいたが、と自分の体に向けて呟く。
「なるほど……そういうことだったのか……」
何かを理解したクロノス。
なぜそれがそこにいるか、それをなんとなくだが理解したのだ。
「その身体は依り代となるんだったな。本来は神を降ろす身のはずだが、お前の身体は別のものを降ろした。英雄、それも、存在するはずのないものだ。その目の力か」
そう語るクロノスへ、再び攻勢に出る広人。
「考える時間も与えない、か」
最後の槍が砕かれると、クロノスは懐からマッチを取り出し、それを擦って火を起こす。
「氷だの火だのと、そんなもので能力を誤魔化そうとしてもムダだ」
「能力を誤魔化す?俺の力をすでに能力の域を超えている。こいつもその一部にすぎない」
マッチを広人へ投げるクロノス。
そんなことをすれば火は消える。
しかしそれは激しく燃焼し、さらには無数のマッチが出現し、火をより大きなものにする。
「絶対破防ノ剣」
ナイフを消し大剣を握った広人は、それを一振りして火を薙ぎ払う。
「やはりか。今の派世広人が完成させていない術式、“ぜつぼうシリーズ”を用いるか」
「?何を当たり前のことを言っているんだ?お前と戦った時に多用した技だぞ?当然使うだろ」
「そうだったな」
二人の戦いに圧倒された実は、もうついていけないからと、一応警戒はしながらも両親の形見のエルドラドを視線だけで探そうとする。
しかしそれを下がってきた広人が、手で視線を塞ぐことで妨げる。
「広人くん?急にどうしたの?」
「誰かは知らないが、視力に頼って探すのは危険だ。失明する可能性があるからな」
「誰かは知らないって、えぇ……」
「ふむ、知らないのか……なるほど」
そんな些細な会話からも何かを得たクロノス。
実はイマイチ状況を理解していない広人は、一旦そこで一呼吸おく。
「理解した」
「何のことだ?」
「お前がその身体に宿るわけだよ」
「そうか。分かって良かったな」
一瞬休憩した広人は、もうすでに臨戦態勢へと戻っている。
「さて、理解できたし、終わりにしよう」
クロノスはこれまで頑なに見せなかった力の一部を惜しげもなくみせる。
長い時計の針のような槍、それを手に握る。
広人の身長の2倍ほどはあるそれは、しかしその見た目に反して軽いようで、軽々と片手で振り回す。
「そいつを出したか。では、俺も騎士たる力を出さなくてはな」
広人は大剣を片手で握り、それを肩の上に乗せる。
「下がってろ、ピンク頭」
「ぴ、って……なんだか悪意を感じるなぁ……まあいいんだけどね」
クロノスが腰低く構えると、周囲の空間が歪みだす。
「人知を超えたもの同士のぶつかり合い、今後のためにも目に焼き付けておくとしましょうか」
「ああ。それをおすすめする」
「今度こそすり潰す」
「不可能だ。お前の剣は届かない」
広人の体から黒い魔力が噴出する。
そんな二人に対抗するかのように、室内の結晶の中から、黄金の輝きが立ち上る。
地面を蹴る音、それより速く閃光が届き、続いて轟音が施設を震撼させる。
数多のエルドラドが反応する中、一つだけ発光しないものがあった。
二人は同時に技を繰り出す。
「大剣あってこその一文字……暗技絶一文字・“絶”龍」
「超時間 消失座標」
大剣と槍の衝突。
広人の剣の周囲の闇が、槍に近い方から少しずつ歪んでいく。
クロノスの槍の先の周囲の歪みに、絶望の魔力が侵食していく。
互いに侵食を始めたが、しかしそれも中程で止まり、それらは剣と槍の接触点へと集まりだす。
それでも剣を、槍をぶつけ合わせる二人は動かず、直後にそこを中心に発生した黒く淀んだベールに包まれる。
二人が収まるとそれの拡大は止まる。
「な、何が起きたの?」
「……どういうことでしょう?こんなにもエルドラドが震えるなど、未だかつてありませんでした」
未知を怖れるのが人間の心理、それに忠実に従う実は腰が抜けて尻餅をつく。
反対にそれに興味を抱き身を乗り出した博士は、しかし生物的本能で体が動かなくなる。
「な、なんだ……?あれは大変興味をそそる。だのに!だのになぜ!体はこれ以上動こうとしないのですかあ!」
二人が動けずにいると、それが破裂し内側から広人とクロノスが飛び出す。
「ひ、広人くん!」
駆け出し広人の体を受け止める実。
広人はゆっくりと目を開ける。
その紅い瞳は、優しく実を見つめている。
「何があったのですか?」
中にいたクロノスに、興味津々といった様子で訊ねる博士。
「いや、俺の場合は特別な何かってわけでもない。ただ、そういう場所だってだけだった」
「そういう……場所?」
「ああ。俺の根底にあるもの。そこには、全てがあった」
「よく分かりませんね」
「そんなものだと諦めろ」
当たり前のことだと処理したクロノス。
広人はなぜか鬼門が解けた体で、なぜか動く体で、立ち上がると拳を構える。
「安心しろ、実。守り切ってみせるから」
「やはり、お前はまだ戦い続けるか。たとえそれが無謀なものだとしても」
「広人くん!もういい!もういいよ!ここから逃げよ?これ以上戦ったら広人くんが……」
「大丈夫だ。まだやれる」
広人の落ち着き払った声が、クロノスに大きな疑問を抱かせる。
何かが違う、と。
「やろうか。なぜだか分からないが、俺たちはここで負けない。そんな気がする」
「気がするだけだ。お前自身が強くなったわけじゃない。勝ち目なんてないぞ?」
「負けるのが怖いから、諦めを促すのか?」
「愚かな……格上相手に挑発など、死期を早めるだけだというのに……」
「どうかな?やってみろよ。そういうならな」
「フッ……そうだな。戦ってやろう」
ここはどこだ……?
沈み込んだその後で、明るい色で彩られた視界に意識がはっきりとしてくる。
「ここはどこだ?」
その疑問を口にすると、強い風が吹き抜けて花弁が舞う。
こりゃたまらんと腕で目を塞ぐ。
風が収まり再び目を開けると、目の前には一本の木と一人の少女が立っていた。
幼いが暖かい。
なぜだろう、その長い髪、小さな体躯、感じるはずのない母性を感じる。
幼ささえ残る顔立ちで、その長い髪も、どこか子どもっぽいと思わせているのに、どうしてこんなにも暖かいのか。
「少し話をしよう」
背後から声が聞こえて、振り返るとそこには一枚の大きな鏡があった。
「なんだ、どこから声が……?」
「ここだよ。ここ」
また背後から声がして、振り返ると木も少女もなく、そこには一人の少年が立っていた。
「よう、広人」
「誰だ、お前は……?」
突然のことで呆然としていると、少年は俺を、いや、俺の背後を指差して笑う。
「俺は……」
少年の指差した方を、つまりは再び背後を向くと、鏡の中の俺が笑う。
「……お前だ」
瞬きをするとそれらは消えて、今度は左側から足音が聞こえる。
「しかしお前は……」
体を向けるとそれはすり抜けて消えてゆく。
また後ろかと思い振り返るが誰もいない。
俺の肩に手が置かれる。
首だけで振り返ると、近い場所に俺の顔がある。
「俺じゃない」
なんだ、ここは……?
なんなんだ、こいつは……⁉︎
そいつは下がって距離をとる。
「これはお前の見てる幻想。お前の本来見るはずのない過去」
「過去?これが?」
「そう。過去。本来見るはずのない過去。存在しなくなった過去」
まるで意味がわからない。
存在しなくなった過去?
それってどういうことなんだ?
俺が詰め寄ろうとすると、俺の姿をしたそいつは消える。
そして視界が切り替わると、目に花畑が飛び込んでくる。
そんな場所を見渡すと、小さな丘を発見する。
花畑、それ以外何もない空間に、花のない丘、それを目指して歩いていく。
一歩踏み出すと、背後に気配が出現する。
「誰だ?」
「ゆっくりと目を閉じてください」
呼びかけに応じた背後の誰か、それは柔らかな女性の声だ。
俺の体はその声に従ってしまう。
優しい声に包まれて、意識がだんだんとぼやけていく。
日光を存分に浴びせて干された毛布にくるまっているような、そんな心地よい感覚に、いつまでも寝ていたいと思いながらも目を覚ます。
あどけない笑顔。
その少女は、俺の顔を覆い被さるようにして眺めていた。
そんな状況に置かれていながら、俺は戸惑うことなく、むしろそれが当たり前のような感覚さえ覚える。
ああ、なんだろう、この感じ……
ずっと一緒にいたような、ずっと守られていたような、なんでだろうな……そんな、気がするんだ……
「起きてください」
再び目を閉じようとしていた俺に、そう優しく呼びかける。
「ここは、どこだ?お前は、誰だ?」
まだ明確な意識を持っていない俺は、ぼーっと見上げてそう呟く。
「広人。あなたは生きねばなりません。何度も苦しみに喘がねばなりません。しかし決して、折れてはいけません」
優しいその声は、そうなると確信を得ているような、そんな言葉を紡ぐ。
「あなたは今まで、愛のために生きていました。しかし、それはもう終わりにしましょう。あなたはあなたの愛のために生きてほしい」
「なぜ、そんなことを言うんだ?」
意識が明確になってきた俺は、暖かい声をかけるその少女を見つめ返す。
「変わったのです。ここに来てようやく変えられるのです。あなたは違う。これまでのあなたとは、違う。だからあなたなら、きっと……」
少女のものじゃない手が、俺に差し出される。
その手を取ると、力強く握り返され引っ張り起こされる。
「怒りはお前に希望を与えた。しかしそれは、永遠にも等しい闘争の始まりでもある」
空間が剥がれ落ちて俺が戦っていた施設が見えてくる。
「ああ……話したいことがたくさんあるのに……もう語らう機会はないかもしれないのに……こんなにも早く終わってしまうなんて……」
「絶対に、自分は裏切るな!徹底しろ!譲っちゃいけないものがあるなら、なんとしてでもそれを貫け!」
「?それ、どういう……⁉︎」
消えていく……
全て壊れて……引き戻されていく……
体が放り投げられて、やがて落下していく感覚を覚えて、そして柔らかい何かに受け止められる。
うっすらと目を開ける。
桃色のそれが鼻をくすぐる。
それを払って目を開けると、不安そうな実の顔がそこにある。
あれは夢だったのだろうか……
鬼門が解けている。
しかしリバウンドがなく問題なく動ける。
どうなっているんだ。
俺が体を起こすと、実はそんな俺の手を取る。
不安を拭い去るほどの力は俺にはない。
「安心しろ、実。守り切ってみせるから」
俺は男と向き合う。
あれはなんだったのか、それが今更分かるはずもない。
だが、なぜだろう……うまくいく、そんな気がする。
紅い目を大きく開き、名前も知らない男を見据える。
さて……やろうか。




