宿屋〈三日月亭〉と、あたたかいごはん
王都グランヴェルドの夕焼けが、石畳の通りを朱に染めていた。
ルーク・フレイアスはその中を、一歩一歩ゆっくりと歩いていた。
背中には少し汗が残り、手足に戦いの余韻が残っている。
Fランク討伐依頼の完遂。
戦闘未経験だった自分が、ゴブリン4体と《ジャイアントゴブリン》を倒した――というより、“収納”したというのが正確だが、それでも間違いなく、自分の力で達成した最初の仕事だった。
(……疲れた……でも、悪くない……)
ほんの少し、自分が何かを掴めたような気がしていた。
とはいえ、身体は正直だった。
空腹と疲労が一気に押し寄せ、足元がふらつく。早く宿を探さなければ。
そんなとき、ふと目に入ったのが、軒先に吊るされた三日月の木札。
《宿 三日月亭》
小さな花壇のある木造の建物。
他と比べて華やかではないが、柔らかい光が漏れる窓と、ほのかに漂う香ばしい匂いが、どこか心を引き寄せるようだった。
(……ここにしてみよう)
そう思って、木製の扉をそっと開けた。
カラン、と小さな鐘の音。
「いらっしゃ――」
カウンターの奥から顔を出した女性が、ルークの姿を見て一瞬、目を見開いた。
「……あんた、《白銀の牙》のルークじゃないかい?」
唐突な呼びかけに、ルークは少し驚いた。
「……あ、はい。そう……だったんですけど」
「あらまあ、やっぱり! 顔見覚えあると思ったら!」
女性はふくよかで、いかにも“おかみさん”という雰囲気の中年女性だった。
くるくると巻いた栗色の髪に、エプロン姿がよく似合う。
「冒険者雑誌で何度か見たよ。ほら、パーティー紹介のとき、補給担当って載ってたろ?」
「えっと……そうですね。たぶん、その記事かと」
「まったく、うちの娘が見てキャーキャー言ってたよ。『ルークさんが一番かっこいい』ってねぇ」
「えっ……?」
不意打ちの言葉に、ルークは戸惑いを隠せなかった。
「でも……もうそのパーティーには、いないんです。追放されて。……戦えない補助職は、いらないって」
静かにそう言うと、おかみの目が少し細くなった。
「そうかい。……それは、辛かったね」
ぽつりと落ちたその言葉は、あたたかく、重かった。
「うちは《三日月亭》。あたしはツネ。あっちで黙って料理してるのが旦那のダンさ。ごはんが絶品って、一部の冒険者にはけっこう知られてる宿屋だよ。ちょうど空いてるから、どうだい?」
「……ありがとうございます。あの、ちょうど宿を探してたんです。できれば……十泊ほどお願いしたいんですけど、大丈夫ですか?」
「十泊! そりゃまた、気合い入ってるねぇ。大歓迎さ!」
ツネは笑みを深くして、カウンターの引き出しから帳簿を取り出した。
「じゃあ、先にお会計だけさせてもらうよ。けど、今夜の一泊分と夕飯はサービスさせてもらう。初めての人にはうちの味、知ってってもらいたいからね」
「えっ……そんな、いいんですか?」
「うちの気まぐれさね。遠慮しないで」
そう言ってウインクするツネに、ルークは思わず頬を緩めた。
「……ありがとうございます。よろしくお願いします」
ルークはぺこりと頭を下げて、受付の帳簿に名前を書いた。
袋から銀貨を取り出し、残りの九泊分の宿泊費を支払うと、ツネがふんわりとした笑みを浮かべた。
「じゃ、部屋案内するよ。荷物はそこに預けてね」
二階の端にある小部屋は、小さいながらも清潔で、温かみのある内装だった。
布団もふかふかで、窓からは王都の夕景が望める。
「じゃ、夕飯できたら呼ぶから。風呂も沸いてるよ。汗と埃、流しておいで」
「……ありがとうございます」
ルークが再び頭を下げると、ツネはふっと微笑んだ。
「礼は、また明日。ちゃんとご飯食べて、しっかり寝てくれたら、それでいいさ」
風呂で汗と土埃を流し、すっきりとした気分で階下へ降りた頃、食堂にはいい匂いが漂っていた。
「お、来た来た。そこ座ってな。今、ダンが最後の一皿仕上げてるとこ」
食堂は木の家具で統一されており、壁には植物のリースが飾られている。
小さい宿だが、どこか居心地がよく、温かな空気に包まれていた。
「……あの、こんばんはっ」
控えめな声とともに、奥の厨房から一人の少女が現れた。
ショートカットに、軽いエプロン姿。
どこか小動物を思わせるような雰囲気の少女が、ルークを見て目を輝かせる。
「やっぱり、ほんとにルークさん……!」
「え……?」
「わ、わたし、メリアっていいます! この宿の娘で……ルークさんの、大ファンなんですっ!」
ぴょこっと頭を下げるその仕草に、ルークは不意を突かれたように固まった。
「え、ファン……?」
「はいっ! 《白銀の牙》の記事、毎号読んでて、ルークさんが補給担当で支えてるって知って……すごいなって……!」
「そ、そうですか……ありがとうございます……」
「ほらほら、メリア、あんまりテンパると変なこと口走るから落ち着きな」
ツネが笑いながら皿を並べる。
そこに、ご主人のダンが無言で巨大な皿を運んできた。
中には、香ばしい焼き肉と甘めのソースを絡めた野菜炒め。
湯気が立ち、ほんのりと香草の香りが鼻をくすぐる。
「……うまそう……」
「食ってみな。あんた、体ガリガリじゃないか」
初めて口を開いたダンの声は低く、しかしどこか優しかった。
ルークは一礼して、箸を取った。
一口。
思わず、目を見開いた。
「……おいしい……」
「だろ? ダンもあたしも昔は冒険者やっててね。引退してから宿屋やってんの。料理の腕も、野営じゃ鍛えられたもんさ」
「え……おふたりとも、冒険者だったんですか?」
「ん。私らのパーティー、短命だったけどね。でも、冒険者の食欲だけは忘れられなくてさ」
そう言ってツネは豪快に笑った。
話しながらも、箸は止まらない。
焼き加減、味のバランス、歯ごたえ、どれも完璧だった。
「これ、ほんとに……僕なんかが食べていいのかってくらい……」
「“僕なんか”っての、やめなさい」
ツネがピシャリと言った。
「戦って帰ってきたあんたに、そんなこと言う資格はないよ」
「……」
ルークは言葉を失った。
ツネは微笑む。
「誰かに追い出されても、戻る場所は一つじゃない。あんたは、ちゃんと頑張ってる。そういう人には、うちの飯を腹いっぱい食べてほしいの」
「……ありがとうございます」
その言葉には、何かがじんわりと染み込んでくるような重みがあった。
食後、ルークはメリアと並んで食器を下げながら、ぽつぽつと話をした。
「ルークさん、あの、今日の依頼って……危なかったですか?」
「うん。ゴブリン4体と、それに《ジャイアント》が1体。結構、ギリギリだったかも」
「ひゃあ……でも、無事でよかった。ほんとに、無事でよかったです」
そう言って微笑むメリアに、ルークは少しだけ照れたように笑った。
(こんなふうに言ってくれる人、今まで……いたかな)
夜。
ふかふかの布団に体を沈めたルークは、静かに目を閉じた。
ツネの声。ダンの料理。メリアの笑顔。
その全てが、傷ついた心をゆっくりと癒してくれていた。
(また……明日、頑張ろう)
そう思えた。
そして、その夜は――
久しぶりに、夢も見ずに眠った。