ちいさな再出発
朝の光が、宿屋〈三日月亭〉の窓から静かに差し込んでいた。
ルーク・フレイアスは、ふかふかの布団の中で目を覚ました。
目覚めの瞬間、頭の奥に残っていたのは、久しく感じなかった――安らぎ。
(……寝坊したかも)
飛び起きた彼は、慌てて服を整え、一階の食堂へ降りた。
しかし、階段を降り切った先で、ツネが手を腰に当てて笑っていた。
「おはようさん。あんた、そんな焦んなくても朝食は逃げないよ?」
「あ、すみません……」
「冒険者だって寝る時は寝な。命削って働くんだからさ」
食堂のテーブルには、温かいパンとハーブ入りスープ、甘く煮込まれた根菜のソテーが並んでいた。
それらは決して豪勢ではないけれど、胃に沁みる香りがする。
「メリア、ほら、お客さんにおはよう言いな」
「おはようございますっ!」
奥から顔を出したメリアが、元気にルークへ頭を下げた。
顔が赤くなっているのは、火照っているからか、まだ少し緊張しているのか。
ルークは思わず、ふっと笑った。
「おはよう。朝から元気だね」
「う、うちの朝は戦場なんですっ。お母さんの料理手伝って、洗濯機回して、それで……あ、これ、できたてのパンです!」
手渡されたパンを受け取ると、ほわっと湯気が立ち、柔らかいバターの香りが広がった。
それはまるで、優しさごと包まれているようだった。
(本当に、ここに来てよかったな……)
ゆっくりと朝食を味わいながら、ルークは今日、何をすべきかを考え始める。
Eランクへの昇格は、冒険者としての新たな門出だ。
昨日、ギルド職員のリーナからはこう言われていた。
『新しい依頼、用意しておきますね。次はEランク帯です。ちょっとだけ難しくなりますけど……ルークさんなら大丈夫です』
彼女のまっすぐな言葉が、今でも心の中に残っていた。
「ツネさん、今日……ギルドに顔出してみようと思います」
「お、いいね。戦える若いもんが真面目だと、世界もちったぁ明るくなるよ」
「帰ってきたら、今日の夕飯は煮込みハンバーグですよっ!」
「おい、メリア、ネタバレすんなっての」
ダンが奥からぼそっと言いながら、鍋の蓋をかるく叩いた。
それにツネが肩をすくめ、ルークは思わず笑ってしまった。
この笑顔の時間が、どれだけ救いだったか。
今なら、胸を張って言える。
(――もう、僕は荷物持ちじゃない)
そしてルークは、小さく背伸びをして、扉を開けた。
今日もまた、新しい一日が始まる。
石畳の街路を歩きながら、ルークは朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
昨日の夕方とは違い、街は活気に満ちている。
行き交う人々の声。露店から漂う焼き菓子の匂い。遠くから響く鐘の音。
(こんなにも、世界は明るかったんだな……)
ほんの数日前までは、後ろをついて歩くだけだった。
他のメンバーの影で生きていた。けれど今は、自分の足で進んでいる。
王都グランヴェルドの中央通りを抜け、ほどなくしてギルド本部の建物が見えてきた。
重厚な石造りの建物に刻まれた《冒険者ギルド》の紋章。
あの日、自分が脱退を告げた場所でもあり――昇格を伝えられた場所でもある。
扉を開けると、朝のギルドはすでに活気に満ちていた。
依頼の貼り紙を食い入るように見つめる冒険者、報告に並ぶ列、剣や槍を磨く音。
「……えっ、あれって、ルークじゃない?」
「《白銀の牙》の……ひとりで来てる?」
「昇格したって話、ほんとだったのか……?」
ちらり、ちらりと視線が集まる。
けれどルークは、それらに動じることなく、受付カウンターへと向かった。
「おはようございます」
「ルークさん!」
受付にいたリーナ・エステルが顔を上げ、ぱっと表情を明るくする。
「今日、来てくれると思ってました! 調子はどうですか?」
「はい、おかげさまで。〈三日月亭〉って宿に泊まっていて……すごく、いい場所でした」
「……あの宿、私も一度泊まったことあります。ごはん、おいしいですよねっ!」
「はい。すごく癒されました」
リーナが笑顔で頷くと、すぐに数枚の依頼書を取り出した。
「Eランク昇格後にお勧めの依頼、いくつかありますよ」
【Eランク通常討伐依頼】
依頼主:北門警備団
内容:近郊の林道に出没する〈牙獣ラット〉群の討伐
目標:5体以上の殲滅
報酬:26,000リル+追加査定あり
備考:単独も可だが、推奨人数2〜4名
「今のルークさんなら、十分対応できると思います。ただ……この依頼、ちょっと問題があって」
「問題……?」
リーナが視線をそらし、カウンターの隅に座る少女に目を向けた。
小柄でおとなしい雰囲気のその少女は、胸元まである栗色の髪を結ばずに垂らし、肩をすくめながら依頼書をぎゅっと握っていた。
その指先は、かすかに震えている。
「あの子……レイナさんっていうんです。以前は中堅パーティーに所属してたんですが……戦闘で声が届かないとか、自己主張が弱いとかで、追放されて……」
リーナはため息をついた。
「今は回復魔法を使って、一人で依頼を受けようとしてるんですが、この討伐依頼は“単独より複数推奨”で……申請が通らなくて」
「理由があるんですか?」
「はい。……弟さんが重い病気で、薬代を稼がなきゃいけないって。でも、他の依頼だと報酬が少ないんです。彼女、どうしてもこれを受けたいみたいで……」
ルークは、もう一度その少女――レイナの背中を見つめた。
細い肩。下を向いたままの視線。不安で満たされたその姿が、かつての自分と重なる。
(……あの時の僕と同じだ。悔しくて、でも誰にも頼れなくて)
「……誰かと組めば、受けられるってことですか?」
「はい。正式なパーティー登録ができれば、すぐに申請可能です」
ルークは頷き、静かにレイナへと歩み寄った。
「こんにちは。……その依頼、受けたいんですか?」
声をかけられたレイナは、びくっと小さく肩を揺らした。
「え……? あ、あの……はい……で、でも、私は……その……」
「僕も、同じ依頼を考えてたところなんです。もしよかったら、一緒に行きませんか?」
レイナの瞳が、驚きと困惑で揺れた。
「で、でも……足手まといになったら……」
「君が回復してくれたら、戦える人は助かる。僕もそんなに強くないですし、お互いに補えると思うんです」
「……!」
ルークの言葉に、レイナの目がかすかに潤んだ。
しばしの沈黙のあと、彼女は、小さく、小さく頷いた。
「……お願いします。ご一緒、させてください……!」
ルークはやわらかく微笑む。
「こちらこそ。よろしくお願いします、レイナさん」
ふたりがカウンターへ戻ると、リーナは安心したように笑顔になった。
「それじゃあ、おふたりのパーティー登録と、依頼受理の手続き、進めますね!」
書類に手早く判を押し、リーナが言った。
「正式に登録完了です。西側林道の〈牙獣ラット〉討伐、目標は5体。支給品と地図もお渡しします」
「ありがとうございます。……準備して、明日の朝、出発にします」
「はいっ。……おふたりとも、気をつけてくださいね」
新しく組まれたばかりのパーティー。
小さな冒険のはじまり。
だが、それは確かに、ルークにとってもレイナにとっても――
“はじめて”の、本当のスタートだった。




