1-3
侵略者を撃退してから二ヶ月ほどが過ぎた頃。
子狐アルはアイルーツ領主の屋敷に勝手に居ついていた。
基本的に屋敷の広い庭を縄張りにし、時には屋敷に入り込む事もある。またフラリと思い出したように山に向かう姿も見受けられた。
そしてアルは侵略者撃退の代価として約束を交わした少女マリーの命を、生かさず殺さずじっくりと搾り取っていた。
”おい”
「あっ、アル様。あたしの血ですか? 今日は腕でしょうか、首でしょうか?」
明るい笑顔で部屋のベッドから体を起こし、服の首元をはだけさせようとするマリーにアルは苦い唸り声を出しながらゆっくりと近づく。
元々病気でベッドに伏しがちだった少女は、今や血を徐々に失って更に白くなっていた。
”……今日は腕だ”
「はい。どうぞ」
だがそんな事は知ったことではないとばかりに子狐は容赦なく露になった腕に口を近づける。腕にはもういくつもの牙の噛み痕があったが、最近ではそれを見る度に内心自分でも分からない苛々と不満が溜まるばかりだった。
”……面白くない”
「どうしましたか?」
”別に……”
彼が二本の牙をそのほっそりとした腕に突き立てると、破られた肉から赤いものがどんどん溢れ出して行く。
最初は痛みに顔を顰めたマリーだが、少し経つとアルの血を舐め取る舌のザラザラをくすぐったそうにしていた。
やがてそれも落ち着き、舐め終わる頃にはマリーの噛み傷は塞がり、痕が残る程度だった。小さいながらもアルの力による治癒能力増強の効果だ。
恒例のお勤めが終わり、わずかに眩暈を覚えたマリーはまたベッドへとその身を沈みこませる。
それからその隣で大人しくお座りをしている銀色の子狐アルに目礼をした。
「アル様にはこの地を助けていただいて本当に感謝しております」
”うるさい。僕はそんなつもりじゃない”
「はい。分かっております。それでも……言わせてください。願いを聞き届けてくださって、ありがとうございます。こうしてまた今の穏やかな日が過ごせるのもアル様の尽力が大きかったのですから。アル様は恩人です」
あれから今回の不手際を繰り返さぬよう、領主は山にもより厳しい監視体制を敷き、防衛機構の改善を進めていた。
無論戦で体を張り、命を賭けて戦った中心は兵達だ。彼らの砦や市街戦での踏ん張りを忘れてはならない。
その上でマリーは憎い人間に力を貸してくれた子狐にも感謝をしていた。
「あ、あの。もうちょっとあたしの具合がよくなったら、ぜひその毛並みにブラシを入れさせてください」
”それはいやだ”
「では撫でるだけでも……ダメでしょうか」
”い、や、だ!”
お座りしたままアルは尻尾で一度大きくベッドを叩き、プイっと顔を背けてマリーの部屋を出て行った。
その後にはしょんぼりとした様子のマリーがいたが、やがてその可愛らしい両手に握りこぶしをつくり、小さく気合を入れていた。
「よしっ。どうしたら撫でさせてもらえるのかよく考えようっと」
どうやらまだマリーは諦めていないようだった。
そしてアルの受難は続く。
マリーの父である領主は始め、大事な娘に危害を加えられるのを黙って見ている事を善しとせず、様々な手でアルを排除しようとした。
嘆願から始まり、決意をもっての怒声もアルは馬耳東風。実力行使としてごろつきからアサシンまで雇い、アルにけしかけるも全て翌日には死体として屋敷の前で発見された。
神獣という銘の重みを領主は嫌というほど実感した。
最後にはそれを知った娘マリー自身の抗議もあって、領主は苦悶の内に見て見ぬ振りをするようになった。
アルの矛先が領主に向かいかけたのだが、結局はマリーの必死な助命に相手をするのが煩わしくなり止めた。
こうしてアルはマリーを除いた屋敷の全員に恐るべき神獣として、触らぬ神に祟りなしという扱いを受けるようになっていた。
庭で日向ぼっこしてまどろんでいる子狐を見かけても使用人らは決して近寄ろうとはしない。いつその力が気まぐれに己に向けられて殺されるか分からないのだ。
しかも子狐自身が人間を非常に嫌っていると公言している。近づくにはあまりにも危険すぎた。
封印から解放された神獣はほとんど疫病神や娘に取り付いた死神の扱いだった。
当のアルはといえば、嫌いな人間に恐れの目を向けられるのを当然のものとして心地よく思っていた。安易に踏み込んでこられないその遠い距離感を当然のものとして、安息を覚えていた。
元々は高位の霊獣であり、その誇りもあった。人間などと馴れ合うつもりもない。
それに狐は犬族の一派だが、母離れをすると群れずに単独で行動する生き物だ。
だから周りに誰も仲間がおらず、自分一体だけでも寂しいなんて思う事はないし、むしろそれは許されない事だと思っている。
人間は憎い相手。それだけはしっかりと胸に刻み込んでいる。今も刻み続けている。
気がついたら親弟妹もおらず、見知らぬ世界に幼い身で一体だけで放り出され、同族がどうなったかも分からず、行く当てもない。
今いる場所では人間に恐れられ、疎まれ、怯えの視線を向けられる。当然そこに温かみはない。
だがそれを改善する気もないし、仲良くなるなんて真っ平ごめんだった。
このままで十分何の問題もない。
そう思っていた。
そんな世界でただ一人だけ、当の神獣に命を削られ続けているマリーだけは違った。
周りなどお構い無しにガンガン子狐へと突撃していく。
ベタベタ触ろうと手を伸ばしてくる。
色んな事を話しかけてアルの事を知ろうとしてくる。
彼女の気配を感じ取った途端にアルは耳を垂直に立て、尻尾の先まで毛を逆立てて身を起こす。そして彼女の手の届く範囲には入るまいと間合いを取り続ける。
「アル様!」
”……なんだそれ”
「イチゴです! 美味しいですよ、どうぞ!」
”食べたら撫でさせろとか言わないだろうな”
「大丈夫ですよ、さあぜひ!」
”まあそれならいいけど”
マリーの綺麗な手の平に乗せられたイチゴを、アルはふんふんと鼻を近づけて毒などないか確認する。その様子にマリーは内心黄色い歓声を上げていた。
最初はマリーに食べ物を地面に置かせて離れさせた後、アルが近づいて食べていた事を考えれば二人の距離は随分と縮まったといえる。無論、子狐のアルはその事に気がついていない。
マリーは密かに段階を踏んでお近づきになろうと計画を立てていた。最終目標は無論ブラッシングや撫で撫で、果てはその胸に抱きしめる事。
アルの陥落は時間の問題かもしれなかった。
「今度何かプレゼントしようかな……どんな物が喜んで下さるのかしら」
そんな風に考えているマリー。
そしてそのままパクっとイチゴに食いついたアルはといえば。
”!? すっぱい! なんだよこれ!”
「ああっ、大丈夫ですか!」
飛び上がって身悶えする小さな神獣にマリーはおろおろしていた。
☆☆☆☆☆☆
そんなこんなで一年が過ぎた頃。
庭でアルの毛皮にブラシを丁寧に入れているマリーが嬉しそうにある報告をした。
「あのね、アル様。あたし、結婚するの」
はにかむように言ったマリーに、アルは大した感慨もなさそうに相槌をうっただけだった。
マリーが話すところによると相手は六歳の頃からの婚約者で、マリーの先の短い状態を知っていてもなお縁談を反故にする事はなかったという。
領主の親同士が仲がよく、アイルーツの家に婿入りする形で以前から次期領主として教育を受けていたそうだ。
それが今度王都から戻って来ていよいよ式をあげる事になった。
「どうしよう。今からどきどきしちゃう」
”それより今はまだ小康状態なんだろ。大人しくしておけよ”
舞い上がっているマリーとは対照的にアルは興味無さそうだった。その膝の上からそっと抜け出し、地面に降り立つアルはそのままあくびをした。
「……ねえ、アル様」
”ん?”
「やっぱり、あたし達人間がお嫌いですか?」
”――当たり前だろ”
アルの胸の底にある冷たい感情は今なお溶ける事はない。
血を吐くような声色に、それでもマリーは目を逸らす事はない。
「あたしは好きですよ、アル様の事」
”あ?”
「こんなにお綺麗でいらっしゃいますし、撫で心地は最高ですし、小さいですし」
”それ全部愛玩ペットの理由だろうが!”
「そして……僭越ながら、可愛い小さな男の子の友達ができたようにも思っております」
”誰が友達だ、誰が”
くだらなそうに後ろ脚で耳を掻く。そして付き合いきれないというように踵を返そうとした時、また声がかけられた。
「アル様」
”まだ何かあるのか。言っとくけど、お前のプレゼントとやらのベルは何度持ってこられてもいらないからな。飼い犬じゃあるまいし”
うんざりした様に言うアルはここ最近マリーがお手製のベルを「つけてつけて」と迫ってくるのに辟易していた。
だが彼の耳に飛び込んできたのは静謐な声だった。
「ごめんなさい」
アルの足が止まる。
”なんで……謝る”
「だって……アル様に悲しい思いをさせたのはあたし達ですから……」
”別に謝って欲しいわけじゃないし……相手もいない。もう、謝罪なんてどうでもいい”
「ごめんなさい」
”だから……!”
なおも繰り返すマリーに激しい苛立ちを覚えながら振り返ると、マリーは深々と頭を下げていた。
「どうか人間を許しては頂けませんか。伏してお願い申し上げます。そのお怒りを鎮めるのに必要とあらば、あたしを今ここで噛み殺して頂いても構いません」
”おい、婚約者はどうするんだ”
「構いません。あたしのこの身は既にあの日、アル様を解放した時にアル様へ捧げております」
”…………”
苛烈とも言えるマリーの言葉に、知らずアルの後ろ脚が一歩後退る。
「アル様、どうか」
”許せるもんか……”
「アル様」
”僕ら霊獣や神獣は長い間人間と争ってきた。人間は敵だ。時には協力してやってきていたけれどそれはごく一部だけ。それなのに許すもなにもないだろ”
「ではその一部になることはできませんか?」
”――できない”
硬い声だった。
”本当は、今はもう分かってるんだ。僕がもっと大人しくさえしていれば……山で遊び半分に人間を殺し過ぎなければきっとあの憎い男の戦士がやって来る事だってなかったんだ。お母さんの言う事をちゃんと聞いておけば……けれど”
銀狐は知能が高い。だがアルはまだ子供だ。
理解に感情が追いつかない。
”こんな胸が潰れるような苦しみ、お前に分かるもんか”
目の前で自分をかばった母狐を殺された。
その光景を忘れられない。
だからアルは憎み続ける。憎み続けようとする。
「あたしはアル様の本当の胸の内は分かりません。でも、アル様の悲しみを推し量ることは……できると思うんです」
”そんなのはうそっぱちだ。分かりっこない!”
「それでもきっと近づくことはできると思うんです。アル様の気持ちを想像することはできます。そうしてあたし達は知っていくんです。だからあたしは謝りたいのです。そしてアル様に許して頂きたいのです。その辛いお心を鎮めて頂きたいのです」
”もういいっ! 聞きたくない!”
「アル様っ!」
空を踏みしめ、アルは空へと駆ける。
マリーがどれだけ呼びかけても返事も姿も戻ってくる事はなかった。
一日が過ぎ、三日が過ぎ、一週間が過ぎ……一月が過ぎても。
マリーが息を切らせてあちこち探しに行っても見つからなかった。
そしてマリーは結婚し、弱い体でなおも一児を儲けた翌日、静かに息を引き取った。