1-2
子狐が封印されて長い時間が経った。
その間に世界は激変した。
まず高度な文明を誇っていた人間世界は、未曾有の天変地異によって完全に崩壊した。
始めは流星群。星詠みらの力により無数の流星が隕石として世界に降り注がれるという予言がなされる。
世界で最も偉大な一大帝国は緊急事態宣言。全力でこれに対処。幸い流星群は偉大な魔導士らの尽力によりその被害を軽微に収められた。
だが、終焉はそこから始まった。
対処しきれなかったいくつかの小さな隕石は世界のマナを乱し、地脈は大幅に狂う。
それに伴い、精霊らもまた各地で暴走した。
暴走により竜巻、火山噴火、地震、津波、山崩れ、洪水、ありとあらゆる天災が世界各地を襲った。
それは月をまたいでも続き、最大最強の帝国を始め人間や亜人の国と文明は一度徹底的に破壊された。挙句には氷河期到来。
いつしか世界は正常に戻ったが、かつての文明はロスト・テクノロジーとなっていた。
再び人間が世界に台頭してくる頃には彼らはかつての力を大幅に失っていた。天地を揺るがした魔法の威力は見る影もなく、かつては世界各地の霊獣を狩っていた脅威の戦士らも弱体化した。
それでも人間の歴史は再び紡がれ始める。
また知恵を振り絞り、知識を蓄え、少しずつ、少しずつ文明・文化を築き上げて行く。
やがて封建制度が出来上がった頃、地下で運よく災禍を逃れていた子狐に転機が訪れた。
遺跡の地下倉庫から数々の遺物と共に発掘された子狐の封印球は、古代遺産としてアイルーツという名の土地を治める領主の家に献上された。
この時期になると封印の力もかなり弱まっており、子狐の肉体は未だ冬眠状態だが意識自体は既に覚醒し、外界の様子もわずかながらも拾えていた。
若い領主は同じ場所から発掘された古文書を解読し、その球が何を封じているかという事とその経緯を知った。同時に解放の方法も載っていたが、封印に至った経緯から決して解いてはならないと厳重に保管。
ただ、その銀狐の美しさは目を奪われるほどあまりにも魅力的で、仕舞ったままではあまりにも惜しく、家宝として大事に扱いながら愛でていた。
そんなある日、侵略者がこれまでにない規模の大軍団を率いて厳しい山脈越えをしてまでやってきた。しかも彼らが蹂躪した街は全てが奪われ、捕らわれ、焼き払われる無慈悲な軍として有名だった。
領主はすぐさま防衛線を構築し、前線の砦に入る。
街の屋敷に残った家族はずっと彼らの無事を祈り続けていた。
だがそんな祈りも虚しく数日で砦は陥落し、領主と残った兵が街まで後退して急いで再編成している。
近隣の軍事拠点に援軍要請を出したがまだ到着していない。
逆に侵略者は勢いに乗って押し寄せてきている。
そして元々この街は防衛には向いていない。せいぜいがお粗末な外壁が一枚あるだけ。急いで外壁の修復や陣の構築を進めているが付け焼刃にすぎない。
街が戦場になり、領主の屋敷が落ちるのも時間の問題と見られる中、領主の一人娘は一人決意を持って動いていた。
15歳になったばかりの線の細い少女が父である領主の部屋にこっそりと入って、なにやら家捜しをしていた。
「確か……ここに。あった」
丁寧に梳かれた栗色の髪を背中に流し、病的なまでに白い肌をした手でそっと壊れ物を扱うようにそのガラス球を手に取った。
「えっと……こう、かな?」
わずかな魔力を込め、願う。
するとガラス球が澄んだ音をたてて砕け、部屋に突風が沸き起こった。
「きゃっ!?」
突然の事に目を閉じていた少女が恐る恐る目を開くと、目の前の中空には美しい銀色の子狐がいた。
「あ……本当、だったんだ」
今まで封印球越しに眺めた事はあるが、こうして間近で見ると触れてはならない神秘を前にしたような畏怖を覚える。だが、それ以上に少女はその毛皮に触れてみたいという純粋な好奇心を覚えていた。
静かに浮く子狐の目がゆっくりと開かれ、目の前の少女を見定める。
それを察した少女は我に返り、すぐさま頭を下げて振り絞った声を上げた。
「お、お願いがあります!」
”ふざけるなっ!!”
「きゃっ!?」
少女を撃ったのは激しい怒りと敵意。子狐が魔力で無差別に生み出した風のハンマーだった。
打ち据えられて崩れ落ちた少女の頭に小さな前脚を乗せ、子狐は鼻に皺を寄せて獰猛に唸りながら冷たく暗い目で見下ろす。
”大体の事情は知ってる。お前達の敵が来ているんだろう。あの中でも外の話はぼんやりと聞こえてくるからな”
「は、はい……」
”で、そんな時になんで今、僕を解放した……答えろ”
「そ、それは……」
殺した母狐と一緒に生け捕りにした子狐。
当然、人間に良い感情は抱いているはずもない。しかも悠久の時を閉じ込められていたのだ。
それでも少女は大きく深呼吸をして、頭を上げて子狐と真正面から向かい合って懇願した。
「あなた様の力をお借りしたく……お願いします。どうか助けて下さい」
”ずっと僕を閉じ込めておいて、今更? はっ、今更そんな都合のいい事を頼むのか?”
「重々承知の上です。どうか……どうかお慈悲を」
”いやだね。勝手に死ね”
「このままじゃ皆がひどい目に合わされるんです。もう何も手立てがなく。何でもしますから、どうか」
必死に少女は縋る。
街では既に裏切り、降伏などといった不穏な空気が民衆の間に漂っているのだ。劣勢どころか敗北を前提に動き始めている輩も多い。
”ふうん……何でも?”
「はい! あたしにできる事なら! あたしの命でもなんでも構いません。このままでは街が、お父様やお母様が……どうか恐ろしい異邦の侵略者からお守りください! お願いします!」
”へえ……分かった。いいよ。力を貸してやる。ただし、代償はお前の命と体だ”
そのあまりにも必死な姿を見て湧き上がってきた嗜虐心に、少女を試す意味も兼ねて子狐はついそう言っていた。
もし少女が土壇場で怖気づくようなら嘲ってやるつもりだった。
「あ……ありがとうございます!」
”だけど、いいな! 嘘をついたりごまかしたりするなら絶対に許さないからな!”
「はい……はい!」
涙を流しながら何度も頷く少女に、子狐はつまらなさそうに鼻を鳴らして言う。
実際、例え約束を反故にされようが子狐にはどうでもよかった。どちらにせよ殺すつもりなのだ。大人しくその身を差し出すか、泣き喚いて必死に抵抗しながら逃げる姿をいたぶるかの違いにすぎない。
この近くにはかつて自分を捕らえたほどの力を持つ人間の脅威を感じ取れなかったのも遊び心を生まれさせた要因だ。
”まず、水と肉を出せ。何でもいい。急げ”
「は、はい!」
飛び上がった少女が慌てて父の部屋を飛び出し、途中よろめきながら厨房に駆け込む。短い距離ながらも息を切らせて辛そうに戻ってきた時にはニワトリ一羽丸ごとと水の入った木のカップをこぼれないようにして手に持っていた。ニワトリは羽根を毟って血抜きをしており、それに子狐はそのままかぶりつく。
食事と水の補給が終わり、子狐は何百年ぶりかの味と水を堪能していた。
やがてペロリと平らげた子狐は風で乱暴に木窓をぶち破り、空へと飛び出す。
”忘れるな。戻ってきたら次はお前の番だ。ゆっくり手足を噛み千切り、その腹と顔をぐちゃぐちゃにして引き裂いてやる”
外からの子狐の脅しに、だが少女は気丈にも毅然と目を合わせたまま頷いた。
「はい。重ねてどうか皆をお願いします」
”……ふん”
わずかに震えた声。だが思っていた反応と随分と違う事に子狐は少々面食らうが、さほど気にせずに彼は懐かしい青空の下を開放感を堪能しながら、風に乗って炎と血の臭いの流れて来る戦場へと飛び発った。
☆☆☆☆☆☆
戦いは防衛側が劣勢だった。
耐え凌げば援軍が来る。街を守る守備兵達はそう信じて粘ろうとするも、侵略者の士気の高さは砦を落としてからというものの、今や火の玉の如く手の付けられないほどだった。
装備の質、兵の錬度からして違う。量産品としては上質の金をかけた装備に身を包み、精兵と言っても過言ではない熟達した侵略者達は、野戦では一兵で三人を次々と切り伏せる事も可能だった。
よほどの数の戦いをくぐり抜けているのだろう。
もう後がない崖っぷちの守備兵らも奮闘を見せるが、敗色濃厚の戦場に腰が引ける者も多い。
「おい! 門に近づく一団がいるぞ! 張り付かせるな!」
矢と魔法が飛び交う外壁に侵略者の工作兵が迫る。そして素晴らしい手際で門を一気に破壊しようと動き始める。
その一点を中心に攻防が偏り、わずかに過密する。
大木を杭の形にして作り上げた破城槌。それが何度も前後し、勢いをつけて叩きつけられる度に門を激しく揺らす。
二度、三度。
破城槌を持ち上げる兵らには風の加護により更なる脚力を、槌には土の加護により更なる重量と硬質化を。
そうしてやがて門の内側にある閂がゆがみ、徐々に悲鳴が大きくなる。
「くそ、止めろ! 止めろ!」
外壁の上で声を張り上げるも、地上の侵略者から絶え間なく放たれる矢や石飛礫を前に思うような対応ができない。魔法で生み出された石飛礫の弾雨は、一発の強さより量と継続性を重視していた。
もうここも時間の問題かと諦観が広がりつつあった時、彼は空からやって来た。
”よくもまあ、こんなにうじゃうじゃと……目障りだ。今すぐ消えろ”
外壁の内側から空を駆けてきた一匹の小さな獣。その冷たい声が戦場にいる全ての兵に降り注ぐ。
死神の宣告。その場全員が思わず身震いし、そう思うほどその声は重量を伴って戦場に届いた。
子狐の体が眩しく光り、思わず見上げていた兵らの目が白で焼き付く。
そして視界が回復した時、子狐は渦巻く炎の嵐の上に立っていた。
「銀の狐……まさか、神獣だと!?」
侵略者の将が悲鳴に似た絶叫をあげる。
そう。力ある霊獣の種は氷河期の時代に盛衰を経て全体的にパワーダウンをし、銀狐の種は相対的に更に上位へと位置づけられ、霊獣から神獣と呼ばれるようになっていた。
その力は人間の手に余り、絶大。
神の遣わした聖なる獣。
故に。
「いかん! 何か仕掛けてくるぞ! 総員退避せよ!」
子狐の放った広範囲の炎を防げる者は誰もおらず、侵略者らは逃げるのも間に合わず次々と炎の波に巻かれ、動かなくなっていった。
炎が治まると、侵略者の大半の兵が鎧や兜の隙間から肉を焼かれて平野に転がっていた。
”ふん……こんなものか。人間も随分とひ弱になったな……”
彼は更に魔法を使う。稲光と共に腹に響く重低音が空気を奮わせる。
今度は雷だ。
次々と電撃を生み出し、紫電の一本線は目にも止まらぬ速度で容赦なく侵略者を払っていく。
彼の母を殺し、彼を捕らえた男は今の炎と雷を前にしても怯むことなく耐え、ぶち破って迫ってきたものだ。
憎いあの男が世界でも有数の力を誇っていた戦士であった事を差し引いても、今の人間の凋落ぶりに彼はいっそ呆れるばかりだった。
侵略者から反撃の雨が子狐へと殺到するが、ほとんど問題にならない。敵将の放つ攻撃だけがそれなりに脅威を覚えるが、毛皮にわずかな傷を負っただけだ。
ジワリと侵食するような呪いに似た気配に子狐は顔を顰めるも、彼の反撃は敵将とその周りを風の刃で切り刻んで手酷い傷を与えた。
片や街の守備兵らはあまりにも突然の事にただ頭上の子狐を見上げる事しかできない。
何故か侵略者を追い払ってくれる神獣。そうとしか見えない事に困惑しつつも、やがて敗走していく侵略者を目の前にして守備兵らはこの降って湧いた守護神に大歓声を上げた。
拳を突き上げ、武器を投げ出して同胞らと抱き合って喜ぶ守備兵。
だが、その熱気は当の守護神によって盛大な冷や水を浴びせられる。
”黙れ。お前達人間なんて大っ嫌いだ”
凍えるような憎しみの篭った言葉を一つだけ残し、子狐は尾を翻して再び街へと戻って行く。
その先に領主の屋敷がある事を悟り、若い領主は屋敷に残してきた家族や使用人らがあの神獣に襲われる想像を思い浮かべる。そして血相を変えて屋敷へと走りだした。
「ま、待て!」
重い鎧姿のまま転びそうになりながらも馬に乗って鞭を入れる領主に毛ほども関心を払わず、子狐はそのまま約束を果たすべく少女の元へと向かう。
既に民衆は最寄の神殿といったいくつかの避難場に集まり、通りにはまったく人気がない。
そんな街中。少女は苦悶の表情で息を切らせ、喘ぎながら屋敷と外壁の正門とを結ぶ道の中途にいた。
その華奢な体はあまりにも頼りなく、胸にやった手はきつく服を握り締めていた。
子狐が屋敷を出ていってから、少女もまたついて行こうとしたのだ。だが少女が普通よりずっと遅い事や子狐の力が凄まじい事もあり、追いつく前に全ての片がつけられてしまっていた。
「あ……銀狐様」
”ふん。全部終わったぞ。ここを攻めていた連中は山に逃げていった”
「ああ……なんという。ありがとうございます。本当にありがとうございます」
”礼なんかいらない。それよりだ……”
感極まったように何度も頭を下げる少女。
だがそれに構わず、子狐はいよいよ待ちわびた時を迎えて酷薄に、獰猛に口の端を深く歪め、小さな牙を覗かせる。
”約束だ。生きたまま、お前の瑞々しい血と肉、命をもらおうか”
まだ年若い娘にそう宣告する。
少々肉付きの薄く、肌に艶もなく健康的な丸みもないのが難点だったが、別に味や腹を満たす事が目的ではないためそこは目を瞑った。
せいぜいいい悲鳴をあげてもらおうとその小さな口を開けた彼に、少女はだが淡く微笑んで言った。
「どうぞ。あたしの病に侵された残り短い命でよければ好きにしてください」
胸の前で手を組み、祈るように少女は優しく穏やかに言った。
それは死を受け入れ、満足した者の笑顔だった。
”……なんだ、それは”
歯茎をむき出しに唸る子狐。彼の思っていた目論見がズレてきているを感じ、その目にはありありと不満が浮かんでいた。
「あたし、生まれつき体が弱いんです。病気がちで、今もどんどん体が弱っていって……お医者様が言うにはあと数年しか生きられないだろうって……だから、いいんです。こうしてお父様やお母様、こんなあたしを優しく、本当に優しく見守ってくれた皆を助けられた代償があたしの命で済むのでしたら……これまで厄介者の身でしかなかったあたしが受けた恩を返せるならもう充分です。お父様とお母様もまだお若いから、赤ちゃんはまたできるだろうから、もう思い残すこともありません」
”なんだよ……それ。くそっ。こんなの、違う。全然違うじゃないか! 僕はもっと……こんな、こんな顔を見るためなんかじゃ……!”
「銀狐様?」
顔と尾を力なく下げ、子狐は強く強く歯噛みする。
そんな彼を不安そうに、いや心配そうに首を小さくかしげて少女が小さく手を伸ばそうとしては引っ込めていた。
「どうしたのかしら。どこかお加減が優れないのかしら。あ、もしかして傷がお体に障っているのですか? どうしましょう」
そんな見当違いの方向に突っ走りつつあった少女だったが、水と清潔な布を探そうとしたところで子狐が再び口を開く。
そこには陰湿な光を宿した目があり、口は笑みをかたどっていた。
”なら、これから毎日お前の苦痛の悲鳴を聞かせてもらえれば十分だ。毎日僕が求める時にお前はその体を差し出せ。僕はお前に食らいつき、苦痛と共にお前の生き血で喉を潤してやる。そして徐々に衰弱して死ぬんだ”
「あたしをお食べにならないのですか?」
”ああ。それじゃつまらない”
ふつふつと胸の奥から沸き上がる暗い感情に身を任せ、子狐はいっそ残酷な声色で少女を脅しつける。
「そうですか。ありがとうございます! まだあたしに猶予を下さるなんて」
何故か感謝してくる少女に、子狐の苛立ちは加速するばかり。
だがそれもいつまで保つか。それを考えるだけで子狐は暗い喜びを覚える。
「あたし、マリーです。銀狐様の御名前を教えて下さいますか?」
”……名前なんてない”
「えっ、そうなんですか? じゃあ……アル様!」
”なんだそれ”
「銀色だから、アル様です! ……お気に召しませんでしたか?」
”どうでもいい。勝手に呼べば”
「あ……はいっ」
鼻を鳴らし、耳を不機嫌そうに動かし、垂らした尻尾を左右に小さく揺らしながら子狐は少女と連れ立って屋敷へと向かう。
こうして、少女マリーと子狐アルの奇妙な日々が始まった。
なお、少女から見ると。
「やーん。この子かわいー! 毛皮綺麗! 伝説が目の前にある! あーん触りたい、撫で回したい!」
「おいっ! いいか、僕は怒ってるんだぞ! 聞いてるのか!」
嘘です。たぶん。