八本の矢――上杉謙信と八人の養子たち
天正五年の春、上杉謙信は養子たちを春日山城の広間へ集めた。
正確には、集められた者が全員、謙信の養子というわけではなかった。
「景信殿は、御実家から他家へ養子に入られた方であって、御屋形様の養子ではございません」
奉行が小声で申し上げた。
「上杉から養子に出たのであれば、養子の一種であろう」
「その理屈では、養子縁組に関わった上杉一族が全員集まってしまいます」
「細かいことを申すな」
広間には、上杉景勝、上杉景虎、上条政繁、上条義春、佐野虎房、山浦国清、上杉景信が並んでいた。
高梨政頼の娘については、本人を軍議へ呼び出すわけにもいかず、一本の矢だけが代理として席に置かれていた。
「なぜ私だけ矢なのでしょう」
どこからか抗議の声がしたような気がしたが、謙信は聞かなかったことにした。
「そなたたちを呼んだのは、ほかでもない」
謙信は一本の矢を手に取った。
「一本の矢は、容易く折れる」
ぱきり。
矢は折れた。
「これは毛利元就殿の話では」
景勝が言った。
「よい教えは広く用いるべきだ」
「元就殿は三人の実子へ申された話です」
「わしには実子がおらぬ」
「だからといって、養子を大量に集めればよいという話ではございません」
謙信は聞かなかったことにし、二本の矢を重ねた。
「二本でも折れる」
ぱきり。
「三本ならば――」
ぱきり。
三本とも折れた。
広間が静まり返った。
「矢が古かったのであろう」
謙信は平然と言い、残りの矢をまとめて束ねた。
「しかし八本ならば折れぬ」
「七人と一本です」
景信が言った。
「八本だ」
「私は数に入れないでください。御屋形様の養子ではございません」
「上杉一族であろう」
「同族であるというだけで、同じ矢筒に入れられては困ります」
謙信は八本の矢を両手で曲げた。
今度は折れなかった。
「見よ。これほど多くの一族が心を一つにすれば、決して折れることはない」
「重くて持てません」
山浦国清が言った。
「誰が中央を持つのです」
景虎が言った。
「中央を決めることが何より重要です」
景勝が言った。
謙信は矢の束を卓上に置いた。
「仲良くしなさい」
「無理です」
全員の声がそろった。
この日初めて、八本の矢は心を一つにした。
「なぜ無理なのだ」
謙信は心底不思議そうに尋ねた。
景勝が一歩進み出た。
「では、まず家督を継ぐ者を明らかにしてください」
「家督?」
「はい」
「なぜ今からそのような私心を論ずる」
「私心ではなく、政務上の確認です」
景勝は懐から数通の文書を取り出した。
「私は御中城と呼ばれ、奉行人を介して政務に関与し、官途も与えられております。御屋形様の側で実務を担っている者が後継者である。それが最も自然な理解でしょう」
どこからか、紙をめくる音がした。
『実務を担っていたことのみをもって、直ちに家督継承者であったと断定することには慎重であるべきである』
景勝が周囲を見回した。
「今、誰か申しましたか」
「未来の研究者であろう」
謙信が言った。
「無視せよ」
「無視できません。私の家督がかかっております」
景虎が、待っていたように一歩前へ出た。
「では、軍役帳について御説明いただきましょう」
「軍役帳?」
「後世に伝わる上杉家の軍役帳には、上杉一門や有力武将の名が並んでおります。しかし、私の名はない」
景勝は景虎を見た。
「名がないことを自慢するのですか」
「軍役を課される者の名が載る帳面に、私が載っていない。それは私が軍役を課される側ではなく、軍役を編成し、課す側にいたからではありませんか」
景虎は胸を張った。
「すなわち、御屋形様の後継者として扱われていたから、軍役帳に名がない。そう考えるのが自然です」
紙をめくる音が、急に速くなった。
『ただし、その軍役帳が謙信期の軍事編成をそのまま反映したものとは限らない』
「来ましたね」
景虎が天井を睨んだ。
『作成年代、記載目的、後世における編集や書き継ぎの可能性を検討する必要がある』
「なぜ私の根拠だけ、そんなに厳しく史料批判されるのです!」
『軍役帳に名がないことを、ただちに軍役賦課者であった証拠とすることはできない』
「まだ言いますか、片桐殿!」
「まだ生まれておらぬ者へ怒鳴っても仕方あるまい」
謙信が言った。
「御屋形様は黙っていてください。元はといえば、御屋形様が後継者を明記しなかったから、四百年以上後まで議論されているのです」
景勝が静かに口を挟んだ。
「名がない理由なら、単に景虎殿が軍事編成の外にいた可能性もあります」
「北条家から迎えられ、御屋形様の旧名『景虎』をいただいた私が、軍事編成の外にいたと?」
「名をもらったことと、家督を継ぐことは同じではありません」
「では、なぜ御屋形様の旧名を私に?」
二人は謙信を見た。
謙信は矢の羽根を整えていた。
「名は名だ」
「意味なく旧名を与えたのですか」
「良い名であろう」
「そういう話ではありません!」
景虎はさらに景勝へ向き直った。
「それを申すなら、景勝殿の官途も怪しいではありませんか」
「私の官途?」
「弾正少弼です。正式に官途を与えられたことが後継者の証だと申すのでしょう。しかし、その文書には偽作説がある」
広間が静まり返った。
「しかも、後世の者が誤って作ったのではなく、景勝殿御本人が、後に御自分の由緒を整えるために作らせた可能性まで指摘されております」
景勝はゆっくり景虎を見た。
「私が、自分の官途を偽ったと?」
「そういう研究がございます」
「未来の研究者を証人として召喚するのは卑怯では」
「先ほどから片桐殿に私を攻撃させている方に言われたくありません」
『なお、問題の文書を直ちに偽作と断定することもできず、官途名、花押、文書様式、伝来を総合的に――』
「そこは最後まで聞きましょう」
景勝が言った。
『検討する必要がある』
「つまり、偽作とは確定していない」
「私が後継者でなかったとも確定していません」
「あなたが後継者だったとも確定していません」
「だから今、御屋形様に聞いているのです!」
二人は同時に謙信を見た。
謙信は、折れた三本の矢を新しい矢に交換していた。
「お話を聞いておられましたか」
「聞いていた」
「では、どちらが後継者です」
「そなたたちは未来の研究者に頼りすぎである」
「御屋形様が明確な史料を残さなさすぎなのです」
景勝と景虎の声が完全にそろった。
上条政繁が手を挙げた。
「そもそも、我々を一括して『養子』と扱うことに無理があるのではございませんか」
「なぜだ」
「養子縁組の意味がそれぞれ違います。家督継承、家格秩序、国衆統制、他家との結合。景勝殿や景虎殿と、我々とでは役割が同じではありません」
「異なるからこそ秩序を作ったのだ」
謙信は得意げに言った。
「上杉一門、国衆、関東の諸家を婚姻と養子で結び、わしを頂点とする家格秩序を築く。皆がそれぞれの家を継ぎ、それぞれの役目を果たせばよい」
広間の隅で、上杉憲政が小さく咳払いした。
「……その『わしを頂点とする上杉の家格秩序』とやらの、もとの家督を譲った者がここにおるのだが」
謙信は一瞬だけ憲政を見た。
「御前は御前で、お静かに」
「静かにしていたら、いつの間にか上杉家が全部お前の設計になっておる」
どこからか紙をめくる音がした。
『そもそも山内上杉家が常に他の上杉諸家より上位であったという前提についても――』
「そこまで言わんでよい!」
憲政はすぐに黙った。
上条義春が尋ねた。
「では、その家格秩序における我々の順位をお示しください」
「順位?」
「誰が誰より上で、誰が誰に従うのです」
「それぞれ相応に」
「具体的には」
「よく励め」
「それは順位ではありません」
佐野虎房が言った。
「景勝殿は御中城だから上位で、景虎殿は旧名と関東との縁を持つ。上条家、山浦家、佐野家、その他の養子はどこに入るのです」
「その時々の役目による」
「家格がその時々で変わるのですか」
「状況に応じて変わることもあろう」
「それでは秩序ではなく、その場しのぎでは」
謙信の眉がわずかに動いた。
山浦国清が続けた。
「八本の矢を束ねると仰いましたが、八本すべての長さも太さも役割も違います。中央も決めず、上下も定めず、ただ紐で縛れば結束になるとお考えですか」
「支え合えばよい」
「誰が誰を支えるのです」
「皆で皆を」
「御屋形様は戦場でもそのように曖昧な指示をなさるのですか」
「戦場ではもっと具体的に申す」
「では、家督についても具体的に申してください」
謙信は黙った。
上杉景信が、卓上の矢を一本拾った。
「私は御屋形様の養子ではないのに、なぜこの場へ呼ばれたのでしょう」
「上杉一族だからだ」
「では、上杉一族すべてについて、どの家を誰が継ぎ、誰がどの位置に立つか、文書にしてください」
「そこまで書かずとも分かるであろう」
「分かっていないから集まっているのです」
高梨政頼の娘の代理として置かれた矢が、かたりと倒れた。
「女性を養子にして他家へ送り込みながら、本人には発言の場すらないのですか」
誰の声か分からなかった。
謙信は倒れた矢をそっと起こした。
「それは時代の都合である」
「都合の悪いところだけ時代のせいにしないでください」
全員が言った。
謙信は八本の矢を並べ直した。
中央に景勝の矢を置いた。
景勝が頷いた。
「やはり私が中心です」
「待ってください」
景虎が矢を動かした。
「なぜ景勝殿が中央なのです」
「御中城だからだ」
「それは居所の呼称でしょう」
『居所の呼称が政治的位置を示す場合もある』
「片桐殿は少し黙っていてください!」
景虎が叫んだ。
謙信は景勝の隣に景虎の矢を置いた。
「これでよかろう」
「同列ですか」
「隣に置いただけだ」
「左右の配置に政治的意味は」
「ない」
『中世の座次において左右・前後の配置は――』
「今は座次論まで始めないでください!」
景勝まで叫んだ。
上条政繁が矢を一本ずつ指した。
「景勝殿が家督、景虎殿が関東、我々が各家の継承。このように役割分担をお考えだったのですか」
「さあ」
「さあ?」
「そなたたちが、それぞれ最もよく働けばよい」
「結果を見て後から決めるおつもりだったのですか」
「能力ある者が重く用いられるのは当然であろう」
「では家督も能力次第ですか」
「家督に執着するな」
全員が謙信を見た。
「それを決める立場の方だけが、家督に執着するなと言うのは卑怯では」
景虎が言った。
「我々に私心を捨てよと命じながら、御自身は何も説明しない」
景勝が言った。
「多くの養子を置けば、皆が自然に秩序を理解するとお考えだった」
上条政繁が言った。
「役割だけ与え、権限と順位は曖昧なまま」
山浦国清が言った。
「そして死後に争いが起きれば、我々の不徳ということにする」
佐野虎房が言った。
「御屋形様」
景信が静かに尋ねた。
「この八本の矢の紐は、いったい誰が結ぶのです」
謙信は答えなかった。
全員が一歩、謙信へ近づいた。
「御屋形様が結ぶのではないのですか」
さらに一歩。
「誰が後継者です」
「家格の順位は」
「それぞれの権限は」
「御中城とは何です」
「旧名を与えた意味は」
「軍役帳に景虎殿の名がない理由は」
「官途文書は本物ですか」
「私をなぜ数に入れたのです」
「私をなぜ矢で済ませたのです」
謙信は後ずさった。
「そなたたち、少し落ち着け」
「落ち着いています」
「では、仲良く――」
「その前に説明してください!」
広間が揺れるほどの声であった。
謙信は八本の矢をつかみ、もう一度束ねた。
「これほど多くの兄弟が結束すれば、上杉家は安泰である!」
景勝と景虎が同時に束の中央へ手を伸ばした。
「私が持ちます」
「いや、私が」
上条政繁が上から押さえた。
「その前に順位を」
山浦国清が下から支えた。
「役割を明文化してください」
景信が自分の矢を抜こうとした。
「私は帰ります」
佐野虎房が紐を引いた。
「結び方が間違っています」
高梨政頼の娘の矢が再び倒れた。
束ねていた紐が切れた。
八本の矢が広間へ飛び散った。
一本が謙信の額に当たった。
謙信は額を押さえながら、床に散らばった矢を見た。
「紐が弱かったのだ」
「御屋形様の相続設計が弱かったのです」
全員の声が、三度目に一つになった。
謙信はその日初めて、八本の矢が本当に結束した姿を見た。
全員が、謙信を責めるために。
大変申し訳ございません。




