第23話 食料庫を守れ
黒い影が、山の木々を押し分けて現れた。
最初に見えたのは、地面につきそうなほど長い腕だった。岩のように盛り上がった肩から伸び、その先の爪は夜を削り取ったみたいに黒く濁っている。一本一本が木の枝ほど太く、動くたびに空気を引っかく音がした。
黒爪猩型魔物。
奴隷商人の馬車を裂き、鉄格子をねじ曲げ、黒脈石を食った魔物。
そいつは村人を見ていなかった。
鼻先は、まっすぐ食料庫の方へ向いている。穀物。干し肉。家畜の餌。逃げてきた小型魔物たちが引かれた匂いを、黒爪猩型魔物も追っている。
けれど、それは腹を空かせた獣の動きとは少し違った。黒脈石の嫌な匂いに引っ張られながら、村の命そのものへ吸い寄せられているようだった。
背中の毛の下で、黒い筋が血管のように脈打っていた。息を吐くたび、黒く冷たい匂いが風に混じる。
足取りはぶれている。なのに、一歩ごとの力は落ちていない。
体の中で何かが暴れていて、それを無理やり筋肉で押さえ込んでいるような歩き方だった。
「……やっぱり、同じ匂いだぞ」
レクスは指定された場所の後ろで、拳を握った。
包帯の奥で、脇腹が引きつった。傷は塞がっているわけではない。ノエルが止血し、開かないように押さえているだけだ。強く踏み込めば、また血が噴き出す。
けれど、それよりも胸の奥が熱くなりかけていた。
あの黒い匂い。
黒角熊型魔物。黒牙鹿型魔物。そして、黒爪猩型魔物。
全部が繋がっている。
ユリウスが喉を鳴らした。
「ガレンが、レクスを守りながら膝をついた相手と……同じくらい危ないってことか……」
「正面から受ければ終わります」
ノエルは治療場所で膝をつき、治療鞄の紐を握りしめていた。声は冷静だった。けれど、顔色は白い。
リシアは幻惑を置く位置に立ち、狐耳を伏せた。
「あんなの、狐の幻で全部騙せるわけないでしょ……。鼻も目も、黒い匂いに引っ張られてる。ずらせても、ほんの少しだよ」
「ほんの少しでいい!!」
ユリウスが振り返らずに叫んだ。
「リシア、まだあいつには使うな!! 最後の半歩まで残せ!!」
「分かってる!! 何回も言わないで!! 怖いけど、まだなのは分かってる!!」
リシアは怒鳴り返した。けれど、声の奥には震えがあった。
黒爪猩型魔物の後ろで、藪が別方向に揺れた。
灰色の小さな影が三つ、村の柵の横へ走る。
灰牙鼠型魔物。
さらに、脇腹に傷を負った裂牙猪型魔物が、家畜小屋の匂いに引かれるように低く唸った。
黒爪猩型魔物だけではない。
そいつに追われた魔物まで、村へ流れてきている。
村人たちの間に悲鳴が走った。
「小さいのも来てるぞ!」
「家畜小屋の方だ!」
「食料庫だけじゃないのかよ!」
ユリウスが地図を握り潰しそうな勢いで叫んだ。
「黒爪猩型魔物だけ見るな!! 小型も来てる!! でも配置は変えるな!! 食料庫前に集まるな!! 昨日決めた通りだ!! 今変えたら、全部詰まる!!」
母親が子どもの避難先へ走りかける。ロープを握っていた若者が、恐怖で手を離しかける。
ユリウスの声がさらに強くなった。
「逃げるなら決めた道を使え!! 食料庫前は通るな!! ロープ隊、手を離すな!! 怖いなら俺を見るな、ロープを見ろ!!」
「それで落ち着くと思ってるの!?」
リシアが叫ぶ。
「思ってない!! でも何か言わないとみんな止まるんだよ!!」
ユリウスの声は震えていた。
震えていたが、止まらなかった。
レクスは一歩、前へ出かけた。
包帯の奥で、脇腹が痛む。まだ走れる傷ではない。強く踏み込めば、また開く。血が出る。ノエルを呼ぶことになる。
その瞬間、ノエルの声が飛ぶ。
「走れば、傷が開きます」
「でも、来てるぞ!!」
「来ています。だからこそ、あなたが勝手に出ると全部崩れます」
ユリウスも振り返らずに叫ぶ。
「レクス!! まだだ!! お前が出る場所はそこじゃない!!」
レクスは歯を食いしばった。
黒爪猩型魔物が食料庫へ向かっている。小型魔物も村に流れ込んでいる。山なら、とっくに走っていた。父ちゃんといた頃なら、危ない匂いの前に飛び込んでいた。
けれど、昨日それで失敗した。
ノエルの手が届かなかった。
ユリウスの声が届かなかった。
リシアの幻を置く場所もなくなった。
レクスは足を止めた。
「……分かってる!!」
拳を握り、黒爪猩型魔物を睨む。
「俺が出る場所は、ユリウスが作るんだろ!!」
ユリウスが一瞬だけ目を見開いた。
だが、すぐに前を向く。
「そうだ!! だから待て!! 絶対に、届く場所を作る!!」
黒爪猩型魔物が食料庫へ向かう。
その直線上に、二台の荷車が斜めに置かれていた。村人たちは安全圏の縄を握り、ユリウスの合図を待つ。荷車の後ろには支え木が差し込まれている。外せば、荷車はさらに斜めに倒れ、食料庫への道を狭める。
ユリウスが手を上げた。
「荷車、倒せ!! 食料庫への直線を潰せ!!」
村の男たちが縄を引いた。
支え木が外れ、荷車が軋みながら傾く。車輪が土を削り、木材がきしむ音が村に響いた。
黒爪猩型魔物は止まらない。
だが、真っ直ぐだった進路が、荷車の壁に押されるようにわずかに右へ曲がった。
村人の一人が叫ぶ。
「止まってないぞ!!」
「止めるためじゃない!! 曲げるためだ!!」
ユリウスが叫び返した。
レクスの目が細くなる。
「曲がったぞ!! 足の向きが変わった!!」
ほんの少しだけ、村人たちの顔に息が戻った。
その瞬間、灰牙鼠型魔物の一体が避難路側へ飛び出した。子どもを避難させていた母親が悲鳴を上げる。ロープ担当の若者がそちらを見て、持ち場を離れかけた。
「そっちに走るな!! 食料庫前に行くな!!」
ユリウスの声が飛ぶ。
だが、恐怖で体が動く。若者の足が一歩、食料庫側へ向かった。
「ちっ……小さいの一匹なら、ずらせる!!」
リシアが歯を食いしばり、狐耳を伏せた。
空気の輪郭が揺れる。
灰牙鼠型魔物の視線が、母親から餌袋の方へ滑った。鼻先が横へ向き、魔物は急に方向を変える。爪が地面を掻き、餌袋の匂いへ飛び込んだ。
「あいつにはまだ使わない!! 小さいのだけ!!」
「助かる!!」
「礼はあと!! 今言われると腹立つ!!」
リシアは怒鳴りながら、額に汗を浮かべていた。肩が震えている。けれど、幻惑は切らない。
避難路の手前で、逃げかけた村人が転んだ。手のひらを切り、血が土に落ちる。
「治してくれ!!」
近くの村人が叫ぶ。
ノエルは走らなかった。決めた治療場所で、膝をついたまま声を張る。
「こちらへ運んでください!! 食料庫前に戻らないでください!!」
「でも血が出てる!」
「出血を止めます!! 歩けるなら下がってください!! 全快はしません!! 次に備えます!!」
村人が負傷者を抱えて走る。
ノエルは腕を掴み、手早く布を当て、淡い光を流した。
負傷者が歯を食いしばる。
「痛い……!」
「痛みより命を優先します!! 呼吸してください!! 泣いても構いません、でも息は止めないでください!!」
レクスはそれを見た。
「ノエルの道、空いてるぞ!!」
ユリウスが叫ぶ。
「空けたんだよ!! 昨日、みんなで泥まみれになって空けたんだ!!」
ユリウスの声は少し掠れていた。けれど、逃げる声ではなかった。
黒爪猩型魔物は荷車の壁に進路を曲げられ、次に食料袋の匂いへわずかに鼻先を動かした。食料庫ではない。だが、食料庫に近い匂い。家畜と穀物の匂い。
ユリウスが腕を振る。
「食料袋、右へ!! 食料庫前に置くな!!」
老婆が顔を歪めながら、若者へ食料袋を渡す。
「落とすんじゃないよ……それだって冬を越すための食料なんだ!」
若者の手は震えていた。それでも、指定された位置へ食料袋を動かす。
黒爪猩型魔物の首が、ほんのわずかに食料袋側へ向いた。
村人が息を呑む。
「見た……! あいつ、食料を見たぞ!」
「まだだ!! 見ただけだ!! 引くな!!」
ユリウスの声が鋭く飛ぶ。
ロープを握る若者が、震える腕で叫んだ。
「もう引いていいだろ!! 近すぎる!!」
「まだだ!! 今引いたら外れる!!」
「でも近すぎる!! 爪が、もうそこまで……!」
「近いから効くんだ!! まだ待て!!」
ユリウスの声も震えていた。
「声震えてるのにやるじゃない、坊っちゃん!」
リシアは一瞬だけ口元を緩めた。
黒爪猩型魔物の腕が振るわれた。
荷車の一部が砕ける。木片が弾け、村人たちが悲鳴を上げた。車軸が折れ、固定していた縄の一本が切れかける。黒い爪が食い込んだ場所から、木がまるで湿った肉のように裂けた。
「だ、駄目だ!! 止まらない!!」
村人の声が裏返る。
ユリウスが一瞬、言葉を失った。
レクスの足が動く。
ノエルが叫ぶ。
「レクス!!」
レクスは止まった。
拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、熱が走る。
「……まだか、ユリウス!!」
ユリウスは歯を食いしばった。
折れた荷車。
ずれた進路。
餌袋に向いた鼻先。
切れかけのロープ。
浅い穴の位置。
全部を見る。
怖い。
今すぐ「レクス、行け」と叫びたかった。叫べば、少なくともこの黒い爪の前に、自分ではない誰かを出せる。
でも、まだ穴の前ではない。
「まだだああああ!!」
ユリウスは喉が裂けそうな声で叫んだ。
「まだ穴まで来てない!! レクス、待て!!」
黒爪猩型魔物が一歩踏み込む。
荷車が砕け、道が少し開く。だが、進路は完全には戻っていない。巨体は餌袋側に意識を取られ、足が浅い穴の縁へ近づいた。
ユリウスが腕を振り下ろす。
「今だ!! ロープ引け!!」
村人たちが一斉にロープを引いた。
太い縄が地面を跳ね、黒爪猩型魔物の足元へ絡む。リシアが歯を食いしばり、片目を細めた。
「半歩だけ!! これ以上は無理!!」
空気がわずかに歪む。
魔物の黒い目が、餌袋のさらに奥へ泳いだ。鼻先が実際より少し横の匂いを追う。
その一瞬、黒爪猩型魔物の足が浅い穴の縁を踏んだ。
巨体が傾く。
「かかった!!」
村人の声が上がる。
レクスの目が見開かれる。
「足がずれたぞ!!」
だが、黒爪猩型魔物は倒れなかった。
長い腕が地面を叩く。土が弾け、穴が潰れた。もう片方の腕がロープを引き裂き、村人の一人が尻餅をつく。巨体は傾いたまま、力任せに体勢を戻した。
黒い筋が背中で激しく脈打つ。
魔物が咆哮した。
ユリウスの顔が歪む。
「くそっ、浅すぎた……いや、違う!! あいつが強すぎる!!」
「でも、足はずれたぞ!!」
レクスが叫んだ。
「完全じゃなくても、ずれた!!」
リシアが汗を拭う暇もなく怒鳴る。
「だから言ったでしょ!! ずらすだけだって!! 倒せるなんて思わないでよ!!」
「思ってない!! でも生きてる!!」
黒爪猩型魔物は、壊れた荷車を踏み越えた。
食料庫への道が、少し開く。
老婆が叫んだ。
「食料庫が……!!」
黒い爪が扉の方へ向く。
レクスの足が今度こそ前へ出かけた。
その瞬間、ユリウスが叫んだ。
「まだ終わってない!! 次の形に移れ!!」
レクスが振り返る。
「次の形!?」
「荷車が壊れたなら、壊れた荷車を壁にする!! 切れたロープは捨てろ!! 残った一本で右へ引け!!」
ユリウスは泥と汗でぐしゃぐしゃの顔のまま、必死に指を差す。
「そこの人!! 倒れた荷車の後ろに回れ!! 押すな、支えろ!! 食料庫側へ倒すな!! リシア、まだだ!! 最後の半歩まで残せ!!」
「分かってる!! でも次は本当に短いよ!!」
「短くていい!! レクスが届く一瞬だけでいい!!」
黒爪猩型魔物の爪が食料庫の外壁を掠めた。
木片が飛ぶ。
村人の悲鳴が上がる。
レクスは痛む脇腹を押さえながら、歯を食いしばった。胸の奥の熱が暴れようとする。足は前へ出たがっている。今すぐ飛び込めば、爪と扉の間に入れるかもしれない。
でも、それではまた一人で塞ぐ。
また、みんなの道を消す。
レクスはユリウスを見た。
ユリウスはまだ折れていなかった。
震えている。
怖がっている。
けれど、目はまだ村全体を見ている。
「まだだ!! レクス、まだ出るな!!」
ユリウスが叫ぶ。
「次で作る!! お前が届く場所を、次で作る!!」
レクスは喉の奥から声を絞り出した。
「分かった!! でも早くしろ!!」
黒爪猩型魔物がもう一度、腕を上げた。
食料庫の扉が、黒い爪の影に飲まれる。厚い木扉の金具が、ぎしりと嫌な音を立てた。
あれが割れれば、村の冬が終わる。
ユリウスは叫んだ。
「全員、次の形に移れ!!」




