表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
英雄の子レクス 〜化け物と呼ばれた山の子は名前を取り戻す〜  作者: むぎ
山から来た子

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/30

第22話 山が黙った日

第22話


山が黙った日


 朝になっても、山は鳴かなかった。


 村の外れにある空き家の窓から、レクスは山の稜線を見ていた。薄い霧が木々の間に沈み、朝露を含んだ草が白く光っている。いつもなら、この時間には鳥が鳴く。小さな獣が藪を揺らし、虫が草の下で音を立て、風が葉を撫でる。


 けれど今日は、音がない。


 山が静かなだけなら、レクスは怖がらない。


 でも、これは静かではなかった。逃げる音すら消えた後の、嫌な黙り方だった。


 完全な無音ではない。家畜小屋の牛が不安げに鳴き、井戸の桶がきしみ、村人の足音も聞こえる。だが、山の奥だけが別だった。まるで、何か大きなものの前で、木も獣も息を止めているようだった。


 レクスは窓枠に手を置き、低く言った。


「山が黙ってるぞ」


 治療鞄を整理していたノエルの手が止まった。


「……どういう意味ですか」


「鳥が鳴かない。小さい獣も動いてない。風はあるのに、葉の音だけ浮いてる。山が、先に逃げたみたいだ」


 ノエルは窓の外へ視線を向けた。表情はいつも通り冷静だったが、治療鞄の紐を握る指に少しだけ力が入る。


 その時、扉が勢いよく開いた。


「朝から一番聞きたくない言葉だな!! 山が黙ってるって何だよ!!」


 ユリウスが地図を抱えて入ってきた。目の下には薄い隈があり、髪も少し乱れている。昨日遅くまで村の見取り図と防衛線を確認していたせいで、服の袖にもまだ泥が残っていた。


 その後ろから、壁際を選ぶようにリシアが入ってくる。狐耳はぴんと立ち、尻尾は落ち着かないように小さく揺れていた。


「坊ちゃんの顔もだいぶ死んでるけどね。目の下、黒爪猩型魔物くろづめしょうがたまものより黒いんじゃない?」


「そこまで黒くない!! あと坊ちゃんって言うな!! 俺はまだ生きてるし、顔色も死人側には行ってない!!」


「ぎりぎりなんだ」


「リシア、そこを拾うな!!」


 ノエルは淡々とユリウスの顔色を見た。


「睡眠不足です。判断力が落ちます。ですが、今寝られる状況ではありません。水を飲んでください。声だけで村を動かそうとすると、途中で喉が潰れます」


「冷静に追い詰めるな!! いや、水は飲むけど!!」


 ユリウスは水筒を受け取り、勢いよく飲んだ。


 レクスは椅子から立ち上がろうとして、脇腹を押さえた。


 包帯の下で、まだ塞がりきっていない傷が引きつる。ノエルが止血してくれたから歩けているだけで、強く踏み込めば簡単に開く。そんな痛みだった。


 顔をしかめた瞬間、ノエルの視線が鋭く飛んできた。


「そこまでです」


「まだ立っただけだぞ」


「立つ前に止めています」


「……強いぞ」


「必要です」


 ノエルの声に迷いはない。


 ユリウスも即座に頷いた。


「今回はノエルに全面的に賛成だ!! 頼むから、今日だけは勝手に走るな!! お前が走ると、俺の地図と胃が同時に死ぬ!!」


「胃は死んだらノエルが治すのか?」


「胃の心配より行動の心配をしてくれ!!」


 リシアが腕を組む。


「実績がひどいからね。今のレクスは、立っただけで全員の心臓に悪いよ」


 レクスは窓の外を見た。


 走れば、すぐに食料庫へ行ける。山の匂いも、村の外の気配も、足で確かめに行きたくなる。けれど先日、自分が前に出すぎたせいで、ノエルの道も、ユリウスの指示も、リシアの幻惑を置く場所も潰した。


 今、同じことをしたら、また誰かが届かなくなる。


 レクスは拳を握り、息を吐いた。


「分かった。ユリウスが言うまで出ないぞ!」


 ユリウスが一瞬、目を丸くした。


「……本当に?」


「本当だぞ。俺は山を見る。でも、出る場所はユリウスが見るんだろ!」


 ユリウスの顔が、眠気ごと引き締まった。


「ああ。頼む。そこで待ってくれ。お前が待ってくれるだけで、俺たちは全員、動ける場所を作れる」


 リシアの狐耳が小さく動く。


「今のは少し信用してもいいかもね」


「少しです」


 ノエルが即座に足した。


「少しなのか……」


「少しです」


 レクスは素直に頷いた。


「分かった。少し信用されるように待つぞ」


「普通はそこまで明るく言えないんだけどね」


 リシアは呆れたように言ったが、声は少しだけ柔らかかった。


 四人が外へ出ると、村はすでに張りつめていた。


 食料庫への直線を塞ぐように、荷車が斜めに二台置かれている。車輪には木片が噛ませてあり、簡単には動かないよう固定されていた。浅い穴には薄く土と藁がかけられ、村人だけが分かるよう、小さな目印の石が少し離れた場所に置かれている。


 ロープの端を握る若者たちの手は震えていた。食料庫から少し外れた場所には餌袋が置かれ、風が吹くたびに穀物と家畜の匂いが薄く流れている。


 ノエルの治療場所には布と水桶が準備されていた。怪我人を寝かせる板も二枚並んでいる。リシアの立ち位置からは、食料庫前と荷車の隙間がまっすぐ見えるよう、邪魔な荷物がどかされていた。


 昨日、泥だらけになって動かした荷車も、掘った浅い穴も、結び直したロープも、今はただの作業跡ではなかった。


 食料庫へ続く道を、ちゃんと曲げている。


 だからこそ、村人たちは怖がっていた。


 ユリウスは地図を広げなかった。今日は地図ではなく、人を見ていた。ロープを握る若者。餌袋を見つめる老婆。子どもを空き家へ押し込む母親。荷車の車輪止めを何度も確認する村長。


 彼は息を吸い、声を張った。


「荷車、固定確認!! 穴の目印は村人だけ覚えろ!! ロープ隊、合図まで絶対に引くな!! 餌袋を食料庫側へ戻すな!! ノエルの道に荷物を置くな!!」


 ロープを握る若者の一人が、唇を震わせながら頷く。


 リシアがその手を見て、眉を寄せた。


「ロープの子、手が震えすぎ。今引いたら、魔物じゃなくて味方を転ばせるよ」


 若者の肩が跳ねた。


「わ、分かってる! 分かってるけど、手が勝手に……」


「怖いなら怖いでいいよ。でも、怖いからって先に引いたら、あんたの怖さで誰かが死ぬ」


 言葉はきつかった。


 だが、若者の目が変わった。


 ユリウスがすぐに声を張る。


「聞いたな!! まだ引くな!! 怖いなら手を離すな、でも引くな!! 合図までは待て!! 待つのも役目だ!!」


 若者は歯を食いしばり、ロープを握り直した。


 村の端では、母親が子どもを避難先の空き家へ押し込んでいる。子どもは泣きそうな顔で食料庫の方を見ていた。老婆は食料庫の扉に手を当て、唇を噛んでいる。あの中には、冬を越すための穀物、干し肉、根菜、家畜の餌がある。


 逃げれば命は助かるかもしれない。


 けれど、食料庫を失えば春は来ない。


 母親の一人が震えた声で言った。


「本当に、ここにいていいの……? 子どもを連れて、もっと奥へ逃げた方が……」


 誰もすぐには答えられなかった。


 老婆が食料庫を見たまま、低く言う。


「逃げたいなら逃げな。でも、あの小屋を失ったら春は来ないよ。ここを捨てて逃げた先で、子どもに何を食わせるんだい」


 母親は子どもを抱きしめ、目を伏せた。


 レクスはその光景を見て、包帯の巻かれた脇腹に手を当てた。痛みはある。でも今は、走る場面ではない。


「食料庫は守るぞ」


 レクスは短く言った。


 村人たちの視線が集まる。


「でも、人も死なせない。食い物が残っても、人が死んだら食えないぞ!」


 ユリウスが続ける。


「だから配置につけ!! 食料庫前に集まるな!! 昨日決めた通りに動け!! 怖いからこそ、勝手に動くな!!」


 村人たちの顔から怖さが消えたわけではない。


 ロープを握る若者の手はまだ震えているし、老婆は何度も食料庫を振り返っている。


 それでも、誰も食料庫の前へ駆け寄らなかった。


 リシアは避難先へ向かう子どもたちを見ていた。皮肉を言うように口を開きかけて、少しだけ黙る。


 それから、ぽつりと言った。


「逃げるなら今だよ。怖がるのは悪いことじゃないし」


 近くの村人が振り返る。


 リシアは食料庫を見たまま続けた。


「でも、逃げた先で冬を越せるとは言ってない。帰る場所がなくなるのがどういうことか、私は知ってる」


 その声には、いつもの皮肉より少しだけ重いものが混じっていた。


 レクスがリシアを見る。


 リシアはすぐに目を細めた。


「何見てるの。綺麗なこと言ったつもりはないから」


「でも、リシアも村を見てるぞ」


「……見張りの延長」


 リシアの耳がぴくっと動いた。


 レクスはそれ以上言わなかった。言えば怒ると分かっていたからだ。


 ノエルは治療場所に膝をつき、鞄を開いた。包帯、薬草、水、布、固定具。ひとつずつ手の届く場所に置いていく。指先はわずかに震えていた。


 レクスはそれに気づいた。


「ノエル、手に力入ってるぞ」


 ノエルは手を止めずに答えた。


「怖くないわけがありません」


 レクスは目を見開く。


 ノエルはいつも冷静だった。痛いことを痛いと、危ないことを危ないと、迷わず言う。だから怖がらないのだと思っていた。


 ノエルは治療鞄の中身を整えながら続ける。


「怖いから、順番を決めます。出血。呼吸。歩けるかどうか。運べるかどうか。泣いても、叫んでも、順番は変えません。順番を崩せば、助かる人まで落とします」


「ノエルは強いな」


 レクスが言うと、ノエルは一瞬だけ視線を逸らした。


「強いのではありません。決めているだけです」


「決められるのは、強いと思うぞ」


「……怪我人は余計なことを言わず、指定位置で待機してください」


「分かったぞ」


 レクスが素直に頷くと、ノエルの目が少しだけ柔らかくなった。


 その瞬間、リシアが鼻を押さえた。


 狐耳が鋭く立つ。


「来る。黒い匂いが強い」


 ノエルの表情も変わる。


「魔力の濁りが濃くなっています。昨日より近いです」


 レクスは山を見た。


 風が変わった。


 土と草と村の匂いの奥に、黒く冷たい匂いが混じる。


 黒角熊型魔物くろづのくまがたまもの


 黒牙鹿型魔物くろきばしかがたまもの


 奴隷商人の馬車で暴れた黒爪猩型魔物くろづめしょうがたまもの


 全部にあった、あの嫌な匂い。


 レクスの喉が少しだけ乾いた。


「同じだぞ」


 ユリウスが振り返る。


「何とだ」


「十二歳の時、父ちゃんが膝をついた魔物と同じくらい濃い。形は違う。でも奥の方が同じだ」


 ユリウスの顔から血の気が引いた。


「ガレンが膝をついた相手と、同格に近いってことか……」


 ノエルが短く言う。


「正面から受ければ終わります」


 村人たちのざわめきが一気に広がりかけた。


 ユリウスが地図を握りしめる。手は震えていた。怖いのだ。声を出せば、それも分かってしまいそうだった。


 それでも、ユリウスは前に出た。


「だったら、正面から受けない!!」


 声は少し震えていた。


 だが、消えなかった。


「昨日作った形で止める!! 荷車で曲げる!! 穴で崩す!! ロープで向きを狂わせる!! リシアが半歩ずらす!! レクスは、俺が言うまで待つ!! ノエルの道は絶対に塞ぐな!!」


 村人たちが息を呑む。


 ユリウスは叫び続けた。


「全員、配置につけ!! 怖いなら動け!! 怖いまま止まるな!! 合図は俺が出す!! 勝手に引くな!! 勝手に走るな!! 食料庫前に集まるな!!」


 若者たちがロープを握り直す。


 老婆が餌袋の位置を確かめる。


 母親たちが避難先の扉を閉める。


 村長が荷車の車輪止めを確認する。


 リシアは幻惑を置く位置へ移動し、視界を確認する。


 ノエルは治療場所で膝をつき、深く息を吸う。


 レクスは指定された場所の少し後ろに立った。


 本当なら、もう一歩前に出たい。食料庫の前に立ちたい。魔物の匂いが近づくほど、足が勝手に前へ出そうになる。


 それでも、レクスは踏みとどまった。


 出たい。


 走りたい。


 山の匂いは、もうそこまで来ている。


 けれど、レクスはユリウスを見た。


「ユリウスが言うまで、出ないぞ」


 ユリウスは一瞬だけ、レクスを見返した。


 それから、力強く頷いた。


「頼む。そこで待っててくれ。必ず、お前の前に連れてくる」


 その時、山の向こうで木が折れた。


 最初は一本。


 次に、二本。


 湿った空気を裂くような音がして、地面が低く震える。家畜が暴れ、荷車の車輪が小さく軋んだ。ロープを握る若者の手から汗が落ちる。


 そして、山の奥から咆哮が響いた。


 腹の底を押し潰すような低い声だった。村の壁も、食料庫の扉も、人の胸の奥も、まとめて震わせる声。


 木々の向こうに、黒い影が動く。


 巨大な腕。


 地面につくほど長い腕。


 黒い筋の浮いた爪。


 まだ全身は見えない。


 それでも、十分だった。


 村人の誰かが、息を呑んだ。


 リシアが小さく呟く。


「……来た」


 ノエルが治療鞄の紐を握りしめる。


 ユリウスは震える手で地図を畳んだ。


 レクスは、黒い影を見た。


 胸の奥が熱くなりかける。


 でも、まだ動かない。


 レクスは低く言った。


「来たぞ」


 それでも、まだ走らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ