第22話 山が黙った日
第22話
山が黙った日
朝になっても、山は鳴かなかった。
村の外れにある空き家の窓から、レクスは山の稜線を見ていた。薄い霧が木々の間に沈み、朝露を含んだ草が白く光っている。いつもなら、この時間には鳥が鳴く。小さな獣が藪を揺らし、虫が草の下で音を立て、風が葉を撫でる。
けれど今日は、音がない。
山が静かなだけなら、レクスは怖がらない。
でも、これは静かではなかった。逃げる音すら消えた後の、嫌な黙り方だった。
完全な無音ではない。家畜小屋の牛が不安げに鳴き、井戸の桶がきしみ、村人の足音も聞こえる。だが、山の奥だけが別だった。まるで、何か大きなものの前で、木も獣も息を止めているようだった。
レクスは窓枠に手を置き、低く言った。
「山が黙ってるぞ」
治療鞄を整理していたノエルの手が止まった。
「……どういう意味ですか」
「鳥が鳴かない。小さい獣も動いてない。風はあるのに、葉の音だけ浮いてる。山が、先に逃げたみたいだ」
ノエルは窓の外へ視線を向けた。表情はいつも通り冷静だったが、治療鞄の紐を握る指に少しだけ力が入る。
その時、扉が勢いよく開いた。
「朝から一番聞きたくない言葉だな!! 山が黙ってるって何だよ!!」
ユリウスが地図を抱えて入ってきた。目の下には薄い隈があり、髪も少し乱れている。昨日遅くまで村の見取り図と防衛線を確認していたせいで、服の袖にもまだ泥が残っていた。
その後ろから、壁際を選ぶようにリシアが入ってくる。狐耳はぴんと立ち、尻尾は落ち着かないように小さく揺れていた。
「坊ちゃんの顔もだいぶ死んでるけどね。目の下、黒爪猩型魔物より黒いんじゃない?」
「そこまで黒くない!! あと坊ちゃんって言うな!! 俺はまだ生きてるし、顔色も死人側には行ってない!!」
「ぎりぎりなんだ」
「リシア、そこを拾うな!!」
ノエルは淡々とユリウスの顔色を見た。
「睡眠不足です。判断力が落ちます。ですが、今寝られる状況ではありません。水を飲んでください。声だけで村を動かそうとすると、途中で喉が潰れます」
「冷静に追い詰めるな!! いや、水は飲むけど!!」
ユリウスは水筒を受け取り、勢いよく飲んだ。
レクスは椅子から立ち上がろうとして、脇腹を押さえた。
包帯の下で、まだ塞がりきっていない傷が引きつる。ノエルが止血してくれたから歩けているだけで、強く踏み込めば簡単に開く。そんな痛みだった。
顔をしかめた瞬間、ノエルの視線が鋭く飛んできた。
「そこまでです」
「まだ立っただけだぞ」
「立つ前に止めています」
「……強いぞ」
「必要です」
ノエルの声に迷いはない。
ユリウスも即座に頷いた。
「今回はノエルに全面的に賛成だ!! 頼むから、今日だけは勝手に走るな!! お前が走ると、俺の地図と胃が同時に死ぬ!!」
「胃は死んだらノエルが治すのか?」
「胃の心配より行動の心配をしてくれ!!」
リシアが腕を組む。
「実績がひどいからね。今のレクスは、立っただけで全員の心臓に悪いよ」
レクスは窓の外を見た。
走れば、すぐに食料庫へ行ける。山の匂いも、村の外の気配も、足で確かめに行きたくなる。けれど先日、自分が前に出すぎたせいで、ノエルの道も、ユリウスの指示も、リシアの幻惑を置く場所も潰した。
今、同じことをしたら、また誰かが届かなくなる。
レクスは拳を握り、息を吐いた。
「分かった。ユリウスが言うまで出ないぞ!」
ユリウスが一瞬、目を丸くした。
「……本当に?」
「本当だぞ。俺は山を見る。でも、出る場所はユリウスが見るんだろ!」
ユリウスの顔が、眠気ごと引き締まった。
「ああ。頼む。そこで待ってくれ。お前が待ってくれるだけで、俺たちは全員、動ける場所を作れる」
リシアの狐耳が小さく動く。
「今のは少し信用してもいいかもね」
「少しです」
ノエルが即座に足した。
「少しなのか……」
「少しです」
レクスは素直に頷いた。
「分かった。少し信用されるように待つぞ」
「普通はそこまで明るく言えないんだけどね」
リシアは呆れたように言ったが、声は少しだけ柔らかかった。
四人が外へ出ると、村はすでに張りつめていた。
食料庫への直線を塞ぐように、荷車が斜めに二台置かれている。車輪には木片が噛ませてあり、簡単には動かないよう固定されていた。浅い穴には薄く土と藁がかけられ、村人だけが分かるよう、小さな目印の石が少し離れた場所に置かれている。
ロープの端を握る若者たちの手は震えていた。食料庫から少し外れた場所には餌袋が置かれ、風が吹くたびに穀物と家畜の匂いが薄く流れている。
ノエルの治療場所には布と水桶が準備されていた。怪我人を寝かせる板も二枚並んでいる。リシアの立ち位置からは、食料庫前と荷車の隙間がまっすぐ見えるよう、邪魔な荷物がどかされていた。
昨日、泥だらけになって動かした荷車も、掘った浅い穴も、結び直したロープも、今はただの作業跡ではなかった。
食料庫へ続く道を、ちゃんと曲げている。
だからこそ、村人たちは怖がっていた。
ユリウスは地図を広げなかった。今日は地図ではなく、人を見ていた。ロープを握る若者。餌袋を見つめる老婆。子どもを空き家へ押し込む母親。荷車の車輪止めを何度も確認する村長。
彼は息を吸い、声を張った。
「荷車、固定確認!! 穴の目印は村人だけ覚えろ!! ロープ隊、合図まで絶対に引くな!! 餌袋を食料庫側へ戻すな!! ノエルの道に荷物を置くな!!」
ロープを握る若者の一人が、唇を震わせながら頷く。
リシアがその手を見て、眉を寄せた。
「ロープの子、手が震えすぎ。今引いたら、魔物じゃなくて味方を転ばせるよ」
若者の肩が跳ねた。
「わ、分かってる! 分かってるけど、手が勝手に……」
「怖いなら怖いでいいよ。でも、怖いからって先に引いたら、あんたの怖さで誰かが死ぬ」
言葉はきつかった。
だが、若者の目が変わった。
ユリウスがすぐに声を張る。
「聞いたな!! まだ引くな!! 怖いなら手を離すな、でも引くな!! 合図までは待て!! 待つのも役目だ!!」
若者は歯を食いしばり、ロープを握り直した。
村の端では、母親が子どもを避難先の空き家へ押し込んでいる。子どもは泣きそうな顔で食料庫の方を見ていた。老婆は食料庫の扉に手を当て、唇を噛んでいる。あの中には、冬を越すための穀物、干し肉、根菜、家畜の餌がある。
逃げれば命は助かるかもしれない。
けれど、食料庫を失えば春は来ない。
母親の一人が震えた声で言った。
「本当に、ここにいていいの……? 子どもを連れて、もっと奥へ逃げた方が……」
誰もすぐには答えられなかった。
老婆が食料庫を見たまま、低く言う。
「逃げたいなら逃げな。でも、あの小屋を失ったら春は来ないよ。ここを捨てて逃げた先で、子どもに何を食わせるんだい」
母親は子どもを抱きしめ、目を伏せた。
レクスはその光景を見て、包帯の巻かれた脇腹に手を当てた。痛みはある。でも今は、走る場面ではない。
「食料庫は守るぞ」
レクスは短く言った。
村人たちの視線が集まる。
「でも、人も死なせない。食い物が残っても、人が死んだら食えないぞ!」
ユリウスが続ける。
「だから配置につけ!! 食料庫前に集まるな!! 昨日決めた通りに動け!! 怖いからこそ、勝手に動くな!!」
村人たちの顔から怖さが消えたわけではない。
ロープを握る若者の手はまだ震えているし、老婆は何度も食料庫を振り返っている。
それでも、誰も食料庫の前へ駆け寄らなかった。
リシアは避難先へ向かう子どもたちを見ていた。皮肉を言うように口を開きかけて、少しだけ黙る。
それから、ぽつりと言った。
「逃げるなら今だよ。怖がるのは悪いことじゃないし」
近くの村人が振り返る。
リシアは食料庫を見たまま続けた。
「でも、逃げた先で冬を越せるとは言ってない。帰る場所がなくなるのがどういうことか、私は知ってる」
その声には、いつもの皮肉より少しだけ重いものが混じっていた。
レクスがリシアを見る。
リシアはすぐに目を細めた。
「何見てるの。綺麗なこと言ったつもりはないから」
「でも、リシアも村を見てるぞ」
「……見張りの延長」
リシアの耳がぴくっと動いた。
レクスはそれ以上言わなかった。言えば怒ると分かっていたからだ。
ノエルは治療場所に膝をつき、鞄を開いた。包帯、薬草、水、布、固定具。ひとつずつ手の届く場所に置いていく。指先はわずかに震えていた。
レクスはそれに気づいた。
「ノエル、手に力入ってるぞ」
ノエルは手を止めずに答えた。
「怖くないわけがありません」
レクスは目を見開く。
ノエルはいつも冷静だった。痛いことを痛いと、危ないことを危ないと、迷わず言う。だから怖がらないのだと思っていた。
ノエルは治療鞄の中身を整えながら続ける。
「怖いから、順番を決めます。出血。呼吸。歩けるかどうか。運べるかどうか。泣いても、叫んでも、順番は変えません。順番を崩せば、助かる人まで落とします」
「ノエルは強いな」
レクスが言うと、ノエルは一瞬だけ視線を逸らした。
「強いのではありません。決めているだけです」
「決められるのは、強いと思うぞ」
「……怪我人は余計なことを言わず、指定位置で待機してください」
「分かったぞ」
レクスが素直に頷くと、ノエルの目が少しだけ柔らかくなった。
その瞬間、リシアが鼻を押さえた。
狐耳が鋭く立つ。
「来る。黒い匂いが強い」
ノエルの表情も変わる。
「魔力の濁りが濃くなっています。昨日より近いです」
レクスは山を見た。
風が変わった。
土と草と村の匂いの奥に、黒く冷たい匂いが混じる。
黒角熊型魔物。
黒牙鹿型魔物。
奴隷商人の馬車で暴れた黒爪猩型魔物。
全部にあった、あの嫌な匂い。
レクスの喉が少しだけ乾いた。
「同じだぞ」
ユリウスが振り返る。
「何とだ」
「十二歳の時、父ちゃんが膝をついた魔物と同じくらい濃い。形は違う。でも奥の方が同じだ」
ユリウスの顔から血の気が引いた。
「ガレンが膝をついた相手と、同格に近いってことか……」
ノエルが短く言う。
「正面から受ければ終わります」
村人たちのざわめきが一気に広がりかけた。
ユリウスが地図を握りしめる。手は震えていた。怖いのだ。声を出せば、それも分かってしまいそうだった。
それでも、ユリウスは前に出た。
「だったら、正面から受けない!!」
声は少し震えていた。
だが、消えなかった。
「昨日作った形で止める!! 荷車で曲げる!! 穴で崩す!! ロープで向きを狂わせる!! リシアが半歩ずらす!! レクスは、俺が言うまで待つ!! ノエルの道は絶対に塞ぐな!!」
村人たちが息を呑む。
ユリウスは叫び続けた。
「全員、配置につけ!! 怖いなら動け!! 怖いまま止まるな!! 合図は俺が出す!! 勝手に引くな!! 勝手に走るな!! 食料庫前に集まるな!!」
若者たちがロープを握り直す。
老婆が餌袋の位置を確かめる。
母親たちが避難先の扉を閉める。
村長が荷車の車輪止めを確認する。
リシアは幻惑を置く位置へ移動し、視界を確認する。
ノエルは治療場所で膝をつき、深く息を吸う。
レクスは指定された場所の少し後ろに立った。
本当なら、もう一歩前に出たい。食料庫の前に立ちたい。魔物の匂いが近づくほど、足が勝手に前へ出そうになる。
それでも、レクスは踏みとどまった。
出たい。
走りたい。
山の匂いは、もうそこまで来ている。
けれど、レクスはユリウスを見た。
「ユリウスが言うまで、出ないぞ」
ユリウスは一瞬だけ、レクスを見返した。
それから、力強く頷いた。
「頼む。そこで待っててくれ。必ず、お前の前に連れてくる」
その時、山の向こうで木が折れた。
最初は一本。
次に、二本。
湿った空気を裂くような音がして、地面が低く震える。家畜が暴れ、荷車の車輪が小さく軋んだ。ロープを握る若者の手から汗が落ちる。
そして、山の奥から咆哮が響いた。
腹の底を押し潰すような低い声だった。村の壁も、食料庫の扉も、人の胸の奥も、まとめて震わせる声。
木々の向こうに、黒い影が動く。
巨大な腕。
地面につくほど長い腕。
黒い筋の浮いた爪。
まだ全身は見えない。
それでも、十分だった。
村人の誰かが、息を呑んだ。
リシアが小さく呟く。
「……来た」
ノエルが治療鞄の紐を握りしめる。
ユリウスは震える手で地図を畳んだ。
レクスは、黒い影を見た。
胸の奥が熱くなりかける。
でも、まだ動かない。
レクスは低く言った。
「来たぞ」
それでも、まだ走らなかった。




