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王冠の重さ

 ハイラントがヘンリエッタを初めて見たのは、先代のラローシュ侯爵が処刑された日だった。

 お祭り騒ぎの広場は公開処刑を観に来た見物人でごった返していた。あまりに大勢が詰めかけるので、周辺の背の高い建物は一時貸し切りにされているほどだった。

 断頭台に引き出された罪人は見せしめにされる代わりに最期に遺言する権利があるが、表現がまずかったりすると後の報道では修正が加えられる。だからみんな遺言は生で聞きたがった。

 まだ幼かったハイラントは貴族や王族用の観覧席にいて、どこを見れば良いかも分からないのできょろきょろしていた。そこで、警護の宮廷魔術師たちに混じっているひときわ可憐な少女が目についた。

 彼女も白と金の制服を着ているから宮廷魔術師なのだろうと分かるが、それにしても若い。十五のハイラントより三歳か四歳は下に見える。

 お祭り騒ぎの会場も、ひとたび儀式が始まるとみんな固唾を呑んで静かになる。

 彼女は炯々と灰色の眼をぎらつかせてまっすぐラローシュを見ていた。領地での自分の不始末を領民ごと隠滅し、陰で王権の簒奪まで目論んでいたという罪状が読み上げられる間も、一瞬たりとも彼女が視線を外すことはなかった。ハイラントが恐ろしさとおぞましさと――みずからナイフで首を切って死んだ父を思い出す苦痛でまともに見ることもできないものを、じっと見ていた。

「女王と魔女に呪いあれ!!」

 ラローシュは最期に血反吐を吐くようにそう叫び、直後に断頭台にかけられた。

 悲鳴とも歓声ともつかない声が民衆から上がり、一拍遅れて野卑な笑い声と興奮の波が爆発して広場を包む。

 領地経営の腕で右に出る者なしと謳われたラローシュも、民衆から見れば自分たちから搾取する貴族のひとりに過ぎない。


 ふ、と彼女が見開いた目をそのままに息をつくのが見えた。


 ふ、ふふふ、と職務中なのも忘れて彼女は笑い出した。

 うつむいて顔を隠したが、ふふふ、あはははと次第に笑いは大きくなり、肩を揺らすまでになった。

 周囲の同僚たちが嫌そうな目で見下ろしてくる段階に至って、ようやく彼女はくつくつと笑いながら「あぁ、ハイ、ごめんなさい」と手のひらを見せて謝る。


 ――なにがそんなに面白いのだろう。人の首が飛ぶことの、なにが。


 父の死に様が否応なく脳裏によみがえった。それが誰であれ、報いを受けただけのことであれ、あんな風に人が死ぬことを面白いだなんてハイラントには到底思えない。

 彼女はこの世界の異物だ、と本能的に分かった。

 大勢の中でも目を奪われるほどに際立つもの。

 それでいて決して思考を共有できないもの。

 ……父と母と同じ、得体の知れないもの。

「……殿下、彼女がヘンリエッタ・ブラウト嬢です。ラローシュ侯爵を告発した魔女ですよ」

 教育係のギャレイが横から小声で教えてくれて、ハイラントは彼女の名前と正体を知ったのだった。



 家族のことを考えるとき、ハイラントはいつも不安と焦燥に駆られる。

 父の自殺の原因はいまだに分からない。

 母はあれから自分の殻にこもるようになり、弟を突然離宮へ追いやって話題に出すのも避けている。

 弟には……ひたすら申し訳ない。引き離された最初のうち、ハイラントはこうなった以上は自分が家族を元通りにするのだという使命感に燃えていた。父の死から逃避するひとつの手段にしていたのかもしれない。

 しかしあらゆる努力は無駄に終わった。

 期待させるような手紙を送りつけるだけ送りつけたのに、ハイラントはいつしか自分ではどうにもできないのだと悟ってしまった。自分は父の死の真相を暴くこともできなければ、塞ぎ込んで人が変わってしまったような母を説得することもできない、無力な子どもだと自覚してしまった。

 弟の純粋な期待を裏切ったことと、自分だけいい暮らし、いい教育を受け、次期国王の座を約束されている申し訳なさから、ハイラントは手紙を書けなくなった。なにを言っても言い訳にしかならないから。


 家族をつなぎ合わせる力がないのなら、せめて次の王にふさわしい人間にならなくてはいけない。

 それも出来ないようなら自分が生まれてきた意味はないとさえ思っていた。


 だからハイラントは「完璧な王太子」であり続ける。

 全神経と生命を賭けて自分に与えられた役割を全うしてみせると誓った。

 たったひとりの弟に対しても、絶対に素の自分を見せることはない。

 血の滲むような努力の甲斐あって、誰もがハイラントを称賛してやまない。

 祖父・ツィドスに並ぶ名君になるだろうとギャレイも言っていた。

 当然だ。そうなれないなら、それこそ国費をつぎ込んで魔術を研究し、どうにかしてツィドスをこの世に呼び戻すべきだ。

 もし万が一愚物に成り下がれば、死んだツィドスも父も歴代の王たちも、この国を築いてきた全てがハイラントの存在を許してはくれない。

 ハイラントは生きている意味を失うだろう。


 ハイラントは家族の代わりに国に尽くすことを幼くして決心していた。

 使命感以外の言葉にできない想いは、教養の一環で身につけた音楽や絵にぶつけた。

 寂しかったり、悲しかったり、思うように努力が実らなかったり、完璧な王太子の仮面にうっかりほころびが出そうになってヒヤッとしたとき、いつも楽器や筆をとった。


 ある夜のことだ。

 ハイラントは王宮に何カ所かある庭のひとつにバイオリンを抱えていき、顔を見られないように樹に登ってお気に入りの曲を弾いていた。

「ねぇ!」

 と出し抜けに声を掛けられて転げ落ちそうになり、なんとか踏ん張ったはいいものの、声の主を確認してまた驚いた。下から興味津々でこちらを見上げているのは、あのヘンリエッタだった。

「なんだい?」

 隙を見せていい相手ではない。ハイラントは驚きと混乱をおくびにも出さず、完璧に穏やかな声を作った。

「上手いね、バイオリン」

 彼女は枝葉のせいで頭上にいるのがハイラントだとは気づいていない。本当になんの悪意も打算もなく、興味本位で喋り掛けてみただけらしい。

 ハイラントはその見た目だけなら誰もが振り向くような笑顔を見下ろし、良好な関係を築くべく応える。

「そうかな? ありがとう。下手の横好きだけど良かったら聞いていってくれ」


 それからハイラントは、夜の庭での独演会でヘンリエッタとたびたび会うようになった。

 彼女と交流を持ち、友人になることが王太子としての義務だと考えたからだ。

 感情の高ぶりによって莫大な魔力暴走を起こす大魔女。もたらすものが害だけなら追放しているところだが、困ったことに彼女は特定の病気や種をこの世から完全に消し去る奇跡さえやってのけてしまう。

 絶対にこの国で押さえておかねばならない人材なのだ。本来、誰の束縛も指図も受けず自由にどこへでも行けるはずの圧倒的な存在が、ラローシュに復讐を果たしたあともどうして宮仕えを続けているのか分からないが、ここへ繋がれてくれるなら万々歳だ。

 友好的であらねばならないが、迎合してもいけない。ハイラントは胸中を悟られぬよう細心の注意を払って彼女に接した。

 何度目かの待ち合わせで、ハイラントが木登りをやめて「変にかしこまられると思って言わずにいたんだが、これが私の正体なんだ」と面と向かって明かすと、ヘンリエッタは困惑して視線を斜め上に投げた。

「夜な夜な樹に登ってはバイオリン弾いてる変人があのハイラント殿下だったなんてね……。や、まぁ私の正体のほうがまずいかもなんだけど」

「いや、問題ない。君は噂の魔女だろう? とっくに知ってるよ」

 機先を制するのは優位に立つために重要なポイントだ。

「秘密があったのはお互いさま。なら、私たちは対等な友人のままだ。これまでとなにかを変える必要なんかないよ。そうだろ?」

 ともすればかなり危険な発言だ。圧倒的な強者に「対等」だなんて。しかし、ハイラントはなにがなんでも彼女にそう思い込ませなければならない。

 まるでなんら気負っていないフリで言えば、彼女はなぜかぽかんとしていた。

「……友人? で良いの?」

「嫌だった?」

 もし「嫌に決まってるでしょ?」と怒り出されたらどうしようと思ったが、ヘンリエッタは妙に殊勝な態度で縮こまり「そんなことないけど」とごにょごにょ言った。

「えっと、じゃぁ殿下……」

「対等だって言っただろ? ハイラントでいいよ。人前じゃなければ」

「誰が聞いてるか分かんないから、殿下って呼ぶ」

「そうかい?」

 極論感情に任せればほとんどなんでも望みを叶えられる存在なのに、彼女は直情径行に見えて意外と思慮深く、警戒心が強いところがあるようだ。友達なんか必要ないとハナからバカにしてかかっている風でもないし、集団生活や人付き合いはいちおう可能だと見てよさそうだ。

 良かった、滑り出しは順調だ。


 しばらくして、名門アルトベリ家の友人が宮廷魔術師に就任することになった。

 レオナルド・アルトベリはハイラントの幼なじみのようなもので互いに気心も知れているが、ヘンリエッタという超新星が世に出てから実家のほうがてんやわんやで就任が遅れていたらしい。無理もない、ヘンリエッタは研究対象としてさぞ興味深いことだろう。

「レオナルド、一応言っておくがヘンリエッタとは良き友人であるよう努めるように。頼むぞ」

「分かってますって」

 ご心配には及びませんよと利発な友人は口角を上げてみせ、実際ハイラントの期待通りの働きをした。

 あっという間に同僚としてヘンリエッタとの距離を縮めて信頼を得、ハイラントを含めた三人での友人関係を形成した手腕は見事なものだ。レオナルドは個人的にもヘンリエッタに一目置いているようで、「彼女貴族が知らないようなこと知ってるし、提示する作戦や意見にも結構キレがあるんですよ」と目を輝かせて報告してきたこともある。そうとも、優秀なだけに彼女は脅威なんだ。

 平民のヘンリエッタは最初こそ王宮のことに明るくなかったが、毎日仕事をこなすかたわら猛勉強してめきめきと知識をつけていっていた。

 宮廷魔術師団の同僚には畏怖と差別意識から彼女を排斥しようとする手合いもいるようだが、スカウトしてきた張本人のワイヤード団長とレオナルドという後ろ盾もあってか、のらくらといなしているらしい。

 高度な教育を受けてきたくせにどうしてこう、そんな愚かな大人ができあがるのかハイラントには理解できない。仮にそれがその場のちっぽけな自尊心は守るための出来心でも、ヘンリエッタにつらく当たるということは決定的な破滅を招きうる。ハイラントやレオナルドがどんなに密に連携しようが、ああいう連中の浅はかさがすべてを台無しにしかねないのだ。


 とはいえ、目下のところハイラントの努力は報われていた。

 ヘンリエッタはハイラントとレオナルドはもちろん、ふたりが紹介した信頼できる令嬢や侍女といった共通の「友人」には意外なほど素直だった。

 それが顕著に表れた出来事のひとつは、なにかの式典で弟のアイオンが珍しく離宮から参内してきたときだ。

 宮廷魔術師として警護に当たっていたヘンリエッタに、ハイラントは弟との関係を知られたくなかった。

 家族の再生を諦め、弟を見捨てて自分だけ栄光の道を歩いているなんて実態を知られれば、彼女はきっと幻滅してハイラントを低劣な俗物だとみなすだろう。「対等」というまやかしが機能しなくなっては、もう誰も危険な大魔女の手綱を握れない。この国に留め置くことだって叶わなくなるだろう。

 だからヘンリエッタに、「あれ弟くん?」と何気なく訊かれたとき、ハイラントは足の感覚がなくなるくらい緊張した。もちろん、悟らせるようなヘマはしないが。

「そうだよ。名前はアイオンだ」

「王太子が忙しいのは仕方ないにしても、弟くんとゆっくり話せもしないってのはどーなの?」

 ハイラントが忙しさにかこつけてアイオンを構わないで済むようにしていたことに、ヘンリエッタは気づいていなかった。それどころか明らかに鬱屈した様子のアイオンを見て、なんとかハイラントが彼と話すための時間を捻出できないかと頭を悩ませている。

 ハイラントはこれ幸いと穏やかに微笑みかける。

「いいんだ」

「でも、『きょうだい』の仲が良いに越したことないでしょ?」

「それは一般的な兄弟の話だろ? 色々あるんだよ、立場が立場だから」

「……ふーん……」

 こう言えば、平民のヘンリエッタにはこれ以上反論できない。

 ハイラントはその後も徹底して彼女から家族の話題を遠ざけ続けた。


 やがてレオナルドとヘンリエッタは仕事でよくコンビを組むようになり、目覚ましい活躍を重ねていった。レオナルドが言うには本当に気が合うそうなので、あまり絆されないようにと苦言を呈するのもちょっと躊躇われる。

 女王陛下の即位記念日――祖父の命日が間近に迫ったころ、妙な噂話が王都に持ち込まれた。

 聞けば北部の一部地域でゾンビが出るとか出ないとかで、真に受けるのなんて子どもしかいないような話だ。

 意に介さず執務に励んでいたハイラントだったが、そのゾンビ騒ぎは一向に収まる気配がなかった。なんと現地の街道騎士団なども手を焼いているらしい。いったいどうなってるんだ。

「例のゾンビ騒ぎ、殿下はどう思われます?」

 ギャレイに世間話のひとつとして水を向けられ、ハイラントは内心の憂鬱を隠して冷静に言った。

「どうもなにも、死人は蘇らない。集団ヒステリーの類いだろう」


 ベッドに入ってもなかなか寝付けない日が続いた。ハイラントは普段から睡眠の質があまり良くないほうだが、祖父の命日近辺はそれが悪化しやすい。

 夢には王宮のギャラリーにずらりと並んでいる肖像画そのままの歴代の王たちが出てきて「もっと努力しろ」「お前は知識はあっても実行力がない」とハイラントを責める。

 祖父ツィドスにも「お前は王にふさわしくない」とひときわ強く叱責され、うなされて飛び起きる夜が年々増えた。

 そうして飛び起きた直後、奇妙な黒い影のようなものが周囲をうろついているのを見ることもあった。肩で息をしながら、ハイラントは毎度自分の未熟さを痛感する。


 ハイラントは早朝、欠かさず剣術の鍛錬をしている。

 そこへ前日は夜警に出ていたヘンリエッタとレオナルドがやってきて、「朝からがんばってるね~」と眠たそうに笑いかけてくるので、ハイラントは剣を振る手を止めた。

「そういえばさ、北部にゾンビが出るって話知ってる?」

「くだらない噂話だろ」

 ぴしゃりと撥ね付けるハイラントに、ヘンリエッタが目を丸くする。

「ゾンビなんているワケないのに、北部の人たちにはいつまでもそんな子供だましにかかずらっていないで本来の職務に励んでもらいたいものだね」

 死人は決して蘇らない。だからこそ末の世代の人間が新たに生まれ落ち、一から努力して世界を繋いでいくのだ。ヘンリエッタまであんな話を嬉々として持ち出してくるのはやめてほしい。

 ささいな世間話のつもりだったヘンリエッタは不思議そうにハイラントの反応を見ていたが、その肩をレオナルドがぽんと叩き、

「まぁなんだ、殿下はそういう系の話は嫌いみたいだな」

「めっちゃ過剰反応だったもんね!」

 殿下にそんなカワイイ弱点があったんだ、とヘンリエッタはくすくす笑い、かと思うとつまらなそうに腕組みをする。

「っていっても、私も今回のは偽物だと思う派かな~」

「え! ヘンリエッタも夢のないこと言い出すのか?」

 ある意味では夢追い人でもなければ適性を持てない魔術師という職業柄か、レオナルドが目を剥く。

 しかし彼女は軽い調子で首を横に振ってこう言った。

「別にゾンビを全否定はしてないよ。確か北部の仲の悪い領主どうしが昔から取り合ってるんでしょ、今回噂になってる地域。両家からしたらもうプライドの問題なのかもだけど、前はあっち今度はこっちってコロコロ領主が変わるとか領民からしたらたまったもんじゃないって」

「ん? それがなんなんだ?」

 ゾンビ騒ぎとなんの関係があるのか分からない話をされて、レオナルドが首をひねる。ハイラントは黙って聞き役に徹していた。

「これ以上取り合われちゃ困るから、土地自体の価値を下げるんだよ。ゾンビは土から這い出てくるものだし仮装するにも簡単で、領民ぐるみででっち上げるのにぴったりじゃない。領土の境目の地域にゾンビの言い伝えが多いのはそういう理由だね」


 ハイラントがギャレイ伝いにヘンリエッタの推論を報告すると、数日もしないうちに北部のゾンビ騒ぎは収束した。真相は彼女の言った通りで、ずるずると続いていた貴族どうしの領地争いに国が介入するいいきっかけになりそうだ。


 そんな風に、ヘンリエッタは平民ならではの視点でものを考えることができた。様々なコミュニティ、様々な土地を転々としてきたからか、思いもよらない実際的な知識を持っている。貴族社会のただ中に身を置くようになってからは自衛の延長で物理や毒などについても詳しくなった。


 ……「知識はあっても実行力がない」という悪夢の中の先人の叱責は、ハイラントの自己評価そのものになっていった。


 ヘンリエッタは視察先の樹の下に細長い穴をいくつか見つけただけで「近くに刃物を持った暗殺者がいる」と言い出すし、孤児院の慰問に行けば子どもの胸元になにかがこすれたような痣を見ただけで「ここの院長は不正をしてる」と言い出す。

 細長い穴というのは刃物をざくざくと土に突き刺した跡で、そうすると刃が傷ついて殺傷力が上がるため捨て身でも一撃必殺を目論む輩が使う手口らしい。子どもの胸元にあった痣は安宿ですし詰めになり、横に張ったロープに身体を預けて眠るしかない貧民の証拠で、行政のチェックが入るときだけ街からそんな貧民の子どもを雇い入れて入院している人数を水増ししていたということだった。

 ハイラントは日々勉学に打ち込み、教師たちから課せられた宿題を完璧にこなし続けた。

 だが、その中にヘンリエッタの持っているような知識はひとつもなかった。

 理想の王になるために日々無駄のない最高の教育を受けているはずのハイラントが、一度としてヘンリエッタの思考に追いつけたためしがない。

 あらゆる儀式や式典の式次第を覚え、書類の書き方を覚え、完全無欠の貴公子と政界や社交界で絶賛を浴びようとも、隣で警護についているヘンリエッタが不意に繰り出す「そういえば殿下、さっきさぁ……」という思いつきに届かない。

「君は本当に色んなことを知ってるな。どうすれば君と同じ発想にたどり着けるようになるんだろう」

 ハイラントがあたかも純粋に感心しているような顔で訊ねた言葉に、ヘンリエッタはぐずつく空を気にしながらどうでもよさげに返した。

「どうって、こんなのただの経験則だし、そりゃまぁ私と完全に同じ経験したらそうなっちゃうんじゃない? うげ~……私のコピーとか想像するだにぞっとするねぇ」

「……」


 ハイラントは次第に焦りを募らせ、ますますバイオリンに想いを語らせた。

 ヘンリエッタの特異性は、ただ魔女としての特性に由来するものだ。そうだったはずだ。

 だってそうじゃないか、もし彼女個人の人格にまでハイラントが及ばないのなら、王太子教育なんてただの茶番だ。家族の再生を諦めた兄は、せめて国に尽くし最善の王になるためにこれまで時間と努力を費やしてきたはずだ。ハイラントだけではなく大勢の人々が力を合わせて今の自分を造り上げてきた。ヘンリエッタは……ヘンリエッタは魔女であって、「王」ではない。「王」にはなれない……。


 だからまだ、私は生きていても許されるはずだ。


「……なんか殿下、最近ちょっと悩んでる?」

 ふたりきりの執務室で、ヘンリエッタが唐突に訊いてきた。

 あくまでいつも通り淡々と書類に目を通したり決裁していたつもりだったハイラントは、虚を衝かれた。

 ヘンリエッタの灰色の大きな目はこちらを心配している。今のひとことがハイラントの心の平穏を一発でぶち壊しにし、どれほどの緊張をもたらしたか知りもしないで。

「急になんだい? いま悩みというほどのことは特に思い当たらないけど……」

 見当違いのことを言われたフリをする。

「そう?」

「そうだよ、君の気のせいさ。それとも最近なにか君に心配をかけたことがあったかな」

「んん、ないけど……」

 ならいいやとヘンリエッタは小首を傾げて引き下がるかとハイラントは期待したが、彼女は数秒考え込んでからふっと視線を上げた。


「あのさ、逃がしてあげようか?」


「…………なにを?」

「殿下のこと、私がここから逃がしてあげようか?」

 ヘンリエッタは悪びれもせず同じことを繰り返した。ご丁寧に。

「バイオリンの音もすごい荒れてるし、なんか……王太子のプレッシャーってやっぱ相当きつい? 私なら逃がせるよ。誰も殿下が殿下だって知らない土地に連れてってあげるから、音楽家でも画家でもなんでもなればいいじゃん。自分の人生くらい自分のために生きてもバチは当たらないよ」

 そのときハイラントの頭の中を駆け巡った思考の数を表すには、とても両手の指では足りない。

 バレた――どうして、いや、バレていたのか?

 自分は完璧な王太子を演じきっていたはずだ。だが、そうだ、こと彼女の思考は自分では予測できない。

 いやそれより、彼女はこのことを誰にも言わないだろうか?

 他人に言いふらされたり相談されたらその時点で終わりだ。

 もっとまずい可能性もある、もしかしたら彼女以外にも誰か勘づいている者がいるかもしれない。実際彼女に悟られたのだからあり得ないとは言えない。

 みんな本当ははりぼての王太子を陰で笑っているかもしれない。

 そうだ、女王は? 母上は気づいているのか?

 手元に残して掌中の珠のように育成してきたほうの息子の実情が、ちゃんとした教育なんて受けたこともない平民の魔女になにもかも劣っている、とうてい王冠にふさわしくない凡人だと知っているのか?

 分からない――父の考えていたことも、母の考えていることもハイラントにはずっと分からない。


 だが嵐のような混乱の中でも、ハイラントはかろうじて自分の責務を優先することが出来た。

 今ハイラントが最も避けなければいけない展開は、ヘンリエッタをこの国の管理下から逃すことだ。

 その気になれば彼女はどこへでも行ける。「知らない土地に連れてってあげる」という言葉は無謀でもなんでもなく現実的に彼女が視野に入れている選択肢のひとつだ。

 ハイラントは王太子として、なにがなんでも彼女をこの国につなぎ止めなければならない。

「ヘンリエッタ」

 だからハイラントは、自分の存在意義を証明した。

「そんなことまで言わせてすまない。確かに私は自分の人生に悩んでた。自分のやりたいことを諦めなくちゃいけない現実と折り合いをつけるのが難しくて……でも今、迷いが晴れたよ。もし君さえ良ければ、私と婚約してくれないか?」

 ヘンリエッタは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、みるみるうちに顔を真っ赤に染めてぽかんと口を開けた。


 そうしてハイラントとヘンリエッタは婚約者になった。

 まるでハイラントのおままごとに付き合うかのように、ヘンリエッタの態度は以前と変わらなかった。知ってしまったことはなかったことにはできないのに、ハイラントのことをありふれた凡人ではなく世間と同じように優秀な王太子として扱ってくるのだ。

 理由は分からない。確かなのは、彼女がなぜかこんなくだらない自分に執着しているということ。いや、この千載一遇のチャンスに王妃の座を手に入れたいだけなのか?

 いずれにせよ、彼女はそれ以来妙に自信ありげになって、周囲に反対されればされるほど軽薄さと高慢さを増していった。邪魔をする者がいれば容赦の一片も与えない。かつてラローシュを断頭台に送ったように。

 彼女だけは、ハイラントとの婚約に満足そうではあった。


 出会ってから五年が経つと、ヘンリエッタはすっかり大魔女として堂々と世に憚っていた。

「国の利益のために手放せないから婚約したまではいいですが、実のところ、彼女に王妃の地位を与えるのが一番まずいのでは?」

 突然のヘンリエッタとの婚約で、これはという令嬢や他国の王女を見繕っていたギャレイは度々ハイラントにそう諫言した。……正論だった。


 やがてギャレイは自分の妹のリネットをハイラントに紹介してきた。

 リネットは女王に使える侍女で、執務上女王に同行することの多いハイラントの身の回りの世話もする。

 顔なじみになってきた頃のことだ。

 リネットは「殿下、僭越ながら少々よろしいでしょうか?」と思い詰めた顔で切り出してきた。

「私も兄と考えを同じくしております。真にこの国のため、そして殿下ご自身のためにもヘンリエッタ嬢にお立ち向かいください。彼女に刃向かうことでもし危機を招くとしても、より良い未来のためには必要なことなのです。どうかご賢慮を」

 ……元より自分がやりたくてやったことではなかった。ヘンリエッタを王妃の地位につけることの危険性を鑑みれば、必要に駆られたこととも王太子として成すべきこととももはや言えない。

 追い詰められてとっさに婚約を申し込んだ当時、ハイラントもまだ幼かったのだ。

 ヘンリエッタを「怒らせないように」することはできても、立ち向かい克服する力はなかった。

 五年のあいだ積み重なったヘンリエッタへの畏怖とコンプレックスは、ある意味自然の脅威に対して抱くものと似てきていた。そもそも支配など出来やしないもの、共存はまだしも相容れないものと理解すれば、今のハイラントとヘンリエッタの距離感がいかに不適切かはおのずと分かってくる。

 表向きは夫婦としての体裁が整っていても、実態は今までのように永久に彼女に怯え、へつらって暮らすというのか?

 そんな王道が最善のはずがない。


 これ以上はもう逃げていられない。怖くても、それを認めて断ち切らなければ。

 兄とともに背を押してくれたリネットはハイラントにとって特別な女性だ。



 ――――ヘンリエッタが自分の首を切って死んだ。


「…………あのヘンリエッタが、自己犠牲、なんて……な、なぜ……母上とは、諍いさえあった、のに……」

「そうですね。あの場で彼女が死を選ぶとは、誰も予想し得なかったでしょう」

 今が昼か夜かも分からない。寝室のベッドにうずくまって無意味な問いかけをうわごとのように繰り返すハイラントに、ギャレイは冷静に応えた。

「陛下もひどくショックを受けておいでです。あの陛下が、です。殿下のご心痛も、みな察しておりますよ」

「…………」

 女王がヘンリエッタの死に思わぬショックを受けている理由は察しが付いた。あのときどういう偶然か、彼女が父と同じく柄の白いナイフを使ったからだ。遠目だったし、なぜか遺体と一緒にそのナイフまで消失してしまっていたから現物を確かめる術はないが、父の死に様をハイラントと女王に強烈に思い出させるには充分だった。

 子どものように頭を抱えても時は逆巻いてはくれない。状況はハイラントの思い描いていたものとは全く異なる最悪を呈していた。

 ヘンリエッタもまたアルトベリ家の謀略の被害者で、ハイラントの想定したものとは真逆の意図――女王を守るために苦痛に耐えながらあの場に来ていたのだ。ハイラントは一日にして、事件解決の立役者であり国の守護者として役目を果たした彼女を国の中枢から切り離し、現場で合流できたにも関わらず目的を誤解して糾弾した張本人になった。

 視界の端にひっきりなしに黒い影が見えていた。

 頭の中では祖父が「王冠に泥を塗る愚か者め」とハイラントを罵っている。

 自分が余計なことをしたんだとようやく分かった。

 あのままで彼女は無害だったのだ。

 少なくとも国に尽くすということにかけて彼女は職務に忠実だった。

 ハイラントが取るべき選択は、あのまま婚約を履行して彼女のその忠誠心を維持させ続けることだった。それっぽっちの代価で、この国は大魔女という戦力を保有していられたというのに。

 自分がすべて台無しにした。

「彼女は加勢の望めないあの場で、最善最短の選択をしましたね」

 ギャレイは惜しむように言う。

 そうだ。彼女はいつも――正しい。隠された真実を指摘し、正しい選択をする。どうすればそんな芸当ができるのかと訊けば経験則だと答えられた。だから当然、彼女とはまるで別物の人生に時間を費やしてきたハイラントは、永遠に正しくなれない。

 彼女がいる限り自分は正しくなれないという理不尽。ハイラントのコンプレックスはほとんどがその理不尽に対する憤りで構成されていた。

 だが今はどうだ?

 ハイラントがなにもしなくても、勝手に正しい道を指し示していた大魔女はこの世から消え失せた。


 そんな。

 だったらこの先、私はどうやって生きていけば。


「……殿下、我々はよかれと思って判断を誤ってしまいました。まずはそのことを認めましょう。でなければ、彼女が浮かばれません」

 ギャレイがうずくまるハイラントの背に毛布をかけて優しくささやいた。

「殿下はこれからどのようになさりたいですか?」

 訊ねられ、ハイラントは直視したくない未来に強引に顔を向けられたように拒否反応を起こした。はは、とうつろな乾いた笑いが口からこぼれ落ちる。

「……これから? これからなんて、ないだろ」

「しっかりなさってください」

「――どうして私なんかが次の王なんだ!!!!」

 ハイラントは絶叫して毛布を跳ね飛ばし、その勢いのままギャレイの胸ぐらを掴んだ。もう限界だった。

「他にいるんだよッ!! もっとふさわしい人間が、いくらでもな!! どうして私なんだ!? 母上は選択を誤った!! 私などよりアイオンを、ヘンリエッタを選ぶべきだったんだ!! なのに……!!」


 戻ってきてくれ。君が必要なんだ。正しい道を教えてくれ。こんな私でも生きていていいと言ってくれ。


 血反吐を吐くようなハイラントの告解を、ギャレイは胸ぐらを掴み上げられ揺さぶられながら労しげに聞いていた。ハイラントが血走った目で彼を射殺すように凝視し、血が出るほど唇を噛みしめ、奥歯を軋ませて一向に落ち着く気配がないことを悟ると、彼は「では、殿下」と静かに語り出す。

「――――あなたなら、この国のために彼女を蘇らせることができると言ったら、どうしますか?」


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― 新着の感想 ―
こんなこったろうとは思ったけれども。 ヘンリエッタが好きになるくらいだから一つは立派なところがあるんだろうと、彼女を立てて思ってたけれども予想以上にお粗末な結果で…… 侯爵への復讐が終わったあと、ヘ…
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